TALITHA CUMI

 

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◆<筆者:自己紹介>

         安達慎一 1965年(昭和40年)1月25日東京生まれ。水瓶座/O型。 元来、絵画や美術への関心がとても強い「視覚的な性質」で、映画への傾倒は早くからはじまりました。アングルや配色、その絵画との関連性、編集による構成やリズムにも好奇心を示しました。 同時に幼少期より怪異的なるものへの興味が高まり、小学生の頃には上田秋成や小泉八雲、芥川龍之介や宮澤賢治、エドガー・アラン・ポーやサキなどの著作物を愛読するようになりました。 ですから以後、美術的な側面では、廃墟趣味、グロテスク・リアリズムへの関心が芽生え、自分にとってヘルマン・ニッチュのパフォーマンス・アートやフランシス・ベイコンの絵画、土方巽の「暗黒舞踏」との出会いは重要な事柄となりました。偏愛する美術家は、マルセル・デュシャン、ジョルジョ・モランディ、アルベルト・ジャコメッティ、ハンス・ベルメール、マーク・ロスコ、バルテュス、フランシス・ベイコン。カテゴリーとしては「新即物主義」や「コンセプチュアル・アート」を最も好みとします。 また同じ時期に、文明批判の主題にも目覚めます。 14歳の時にプロテスタント系の教会で、アメリカ人宣教師により洗礼を受けます。現在は信仰としてではなく、自己の思想の重要な基礎として欠かせないものであると認識しています。「神なるもの」への解釈は、人間の存在に関係なく、それ自体が揺るぎない必然性によって無限に増殖し続ける「永遠なる無という有である」という唯物的(汎神論的)な気付きとして捉えています。 これは映画などのあらゆる表現を理解する行為にも、大きく関わってくる側面です。そのせいか10代の半ば頃からは、宗教、内外の文学、美術批評、哲学、思想、心理学、政治理論などに感化されます。自分の基礎になった思想やグループは、ソフィスト(相対主義/懐疑主義/不可知論)、「実存主義」と「フランクフルト学派」。心理学ではフロイトは当然のことながら、ジャック・ラカンの構造主義的な思考法。 高校生になって、本格的に読みはじめた映画の理論・思想書で急激な意識変革を促されたのは、ポール・シュレイダーの『聖なる映画 カール・テホ・ドライヤー/ロベール・ブレッソン/小津安二郎』と松本俊夫の『映像の発見』他の幾冊かの著作物。自分の中で「評論眼」から「批評眼」への主軸移動がはじまった瞬間でもあります。また映画という表現媒体を、客観的に構造分析するような知覚も育ってゆき、劇場映画以外の実験映画、アンダーグラウンドシネマなどへの関心も高まりました。当時最も心酔した映画監督はアンドレイ・タルコフスキー。またゆえに自分にとって映画史上最大の映像作家は、ロベール・ブレッソンであるということは揺るぎない結論です。 大学では、「戦後文学」を嗜みます。 戦後文学は1969年までの「内向の世代」の登場をもってその時代的な役割を終焉したといわれていますが、現在へと続いている日本の内外の状況は、大戦前夜からこの間の時代をよく認識しているかいないかで、その解釈を見誤ることになると考えております。日本では藤枝静男、安部公房、後藤明生、大江健三郎(特に第三期の初期)の文学に大きく感化されました。 外国文学ではフランツ・カフカ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、サミュエル・ベケット、アルベール・カミュ、マルグリット・デュラスが、初期の強い印象を与えてくれました。 信条としていることは、古典主義とアナーキズムの併行的な両立という観念。またシンパシーを感じる共同体は、アーミッシュ。

■私の好きな言葉

●「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。”これを見よ。これは新しい。”と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。」『旧約聖書:伝道者の書 1・9/10』●「未来がやってきたとき、人びとは嫌悪を催す。未来がそこに、すでにずっと以前からあったことに気がつくからだ」ジャン・ポール・サルトル 『嘔吐』 より

▼一言

●「ヘーゲル曰く、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。21世紀は20世紀の喜劇でしかないが、これからも続く人間世界の瓦解の様相は、前世紀のそれを遥かに上回る。しかしやはりそれはどこまでいっても、すでに経験ずみの、歓喜を伴わない繰り返しの喜劇でしかない」 安達慎一

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