『機動戦士ZガンダムII 恋人たち』

ガルダの破片と一緒に落ちていくフォウ。さりげなく。一瞬ではあるが、富野由悠季いわく「死ぬほど好き」な場面とのこと。死んだのがこれではっきりした、思わずどきっとする怖いシーンだ。でも思い返してみればTV版。煙に呑まれながらフォウが力なく微笑み、スードリが炎上、爆発して大破。これで「実は生きていた」って無理があり過ぎると思うんだが…。おかしいですよ、カテジナさん。
フォウについての補足。TV版との比較論は作品を語る上では有効ではないが、その差異を明確にすることで見えてくることも多い。
フォウは富野由悠季の言うとおりなら今回の第2部でベン・ウッダーに撃たれて死んだ。キリマンジャロでの再登場はない。TV版のキリマンジャロは、フォウの再登場こそ蛇足ではあったが、その後のカミーユを方向付ける重要なドラマでもあった。クワトロがシャアとして議会を占拠、演説するいわゆる「ダカール演説」のきっかけともなった。繰り返しアムロがカミーユとフォウの関係に自分とララァを重ねていたのが印象的だが、少なからずカミーユにとって「運命の女」であったということだ。
それが、劇場版ではいわばカイとミハルの関係に近い。前回、2人の関係は恋愛未満と書いたがまさにその通りで、だいたい2人が恋愛関係に陥るのは不自然にも思える。瞬間的な惹かれ合いに過ぎない。ドラマとしても一挿話である。登場シーンはわずかに30分程度だ。それなのにTV版以上に印象を残すのは、演出の妙である。フォウがまとう悲劇性は、カミーユによって救いを見る。「傷を舐め合っている」とアムロを批判したカミーユだが、TV版のカミーユとフォウはまさに傷を舐め合うカップルに他ならない。お互いの持つ悲劇性を補完するどころか、ますます膨らませて崩壊する。
劇場版カミーユがTV版カミーユと決定的に異なるのは、その悲劇性にあるのだが、現実認知に高い能力を獲得した劇場版主人公は、フォウの癒し手となりうるのだ。
顕著なのは、例えば次の会話。
カミーユ「ティターンズは、人間を機械にしようという連中だ」
フォウ「機械? あたしが機械なの?」
カミーユ「今はね」
傷を舐め合うカップルではこうした会話にはならない。劇中、TV版と異なるセリフ郡の中でももっともドラマとして面白いと思った部分。TV版フォウの情緒不安定でほとんど異常とも言える性格も、劇場版で可愛く見えるのはカミーユが一歩リードしているからだ。だからコクピットでヘルメットを脱いでカミーユを迎えた時の会話が成り立つ。カミーユは、フォウに両親のことを話すが、結局それは「お隣のファ」の話になってしまうのだ。「うるさい子でね」と言ってファの話をしてしまう。それでフォウはカミーユには自分と違い帰るところがあると悟るのだ。これをフォウの片思いと見てもいいが、もっとその惹かれる感情は幼いというか原始的なものだ。それを彼女には恋と呼んでもいいかもしれない。
宇宙に帰ったカミーユは、ヘルメット越しにファにキスをしようとするが、ドラマとして見ればGacktの言うとおりでフォウを失ったばかりで何て奴だということになるが、これを説明しないのが富野的ドラマツルギーなのだろう。カミーユがファにキスをしようとするのはいくつかの意味があって、パイロット候補生になって戦争に身を置くことを決意したファに向かって「よしよし」というカッコつけとして「キスしてやるよ」という気持ちと、それに隠した本心のカミーユ自信の寂しさ。フォウとの恋愛的な経験で、恋愛したいという欲求が芽生えたこと。隣人の存在に気付いたこと。そこにはフォウの代わりにファを求める狡さもある。そういう甘えはマザーコンプレックスに近くて、その感覚こそガンダムを支配するものであるから、それは富野映画には基本的なファクターではある。もちろん、それがカミーユの変化に対応しないファはフォウのようにヘルメットを外せないから、未遂に終わって明るく笑う。
ララァに魂を引かれて取り憑かれたシャアとカミーユが決定的に異なるのも、ファがいるから。シャアはララァしか求めていないにも関わらず、寂しさを紛らわすために女性を周りに置く。でも心は開かないからレコアみたいに彼のもとを去る女もいる。ナナイやクェス、ハマーンのように利用されるだけの女もいる。恋しさ余って憎さ100倍、ハマーンにもレコアにも命を狙われるのだから、カミーユの言うとおりシャアは馬鹿である。
カミーユはフォウとの関係で恋愛的感覚(それを恥ずかしくも恋と呼んでもいいが)を自覚し、隣人の元へと帰る。そういう意味ではフォウが「運命の女」であることには変わりはないとも言えるのだが。
例えばアムロの場合もやはりララァに取り憑かれた。ニュータイプとして明らかに人を超えてしまった彼には、一度しか会っていないにも関わらずララァに惹かれ、常人には理解できない境地で精神的に会話し溶け合うのだ。隣人フラウ・ボゥは置き去りにされる。アムロはフラウの元には帰らないのだ。カミーユと違う選択をした。そして、取り憑かれて7年も幽閉されて、ようやくベルトーチカが強引に魂を呼び戻そうとするのだ。ベルトーチカが出会って早々アムロにキスをする強引さは、彼には必要なものだったのだ。第1部でフラウが「あたし、アムロともっと話したかったな」と言うが、それ程度ではだめなのだ。
フォウの話に戻すと、カミーユを宇宙に上げるというのは三角関係で身を引く行為にも少し似ている。何度も繰り返すがフォウにとってそれが自覚できる恋愛感情ではなかったとしても。
フォウが実はほとんど完成されたニュータイプとなったのは、劇場版においてである。ガルダのブースターを使えというメッセージはアムロにもカミーユにも伝わる。アムロがア・バオア・クーからの脱出でクルーを導いたアムロのように。しかもフォウは戦闘の状況だけでなく、宇宙にいるアーガマの動きまで理解していたというのだから、ニュータイプへの覚醒を果たしたと言っていい。そして、カミーユを宇宙に、つまりファの元へと送ったのだ。
TV版でも確かにフォウの声はアムロとカミーユに届くのだが、それはあくまで彼らのニュータイプ能力がそれを察知したと言っていい描写。キリマンジャロでは、シャアもフォウを感じることができる。しかし、劇場版でおそらくものすごく大事なのは、カミーユとフォウがコクピット内で会話し、フォウがファの存在を感じて身を引く決意をする時に、一瞬上を向くのだ。で、拳銃を取り出してカミーユにつきつける。つまり、フォウがアーガマ(あるいはファ)の存在なり、戦闘の状況などを把握するニュータイプ的なセンスを得る場面である。

フォウは宇宙を感じる。
この映画が『恋人たち』というタイトルを背負っているわけが、少し分かってくる。別段恋愛映画には見えない構成をとっていながらその実、恋人というより恋する人の思いが交錯しているのである。それが瞬間的な恋、つまりいつか終わりの来る個人同士の恋愛を描いたドラマではなく、その人の生き方としての恋愛を描く映画という点で、恋愛映画なのだ。これが、富野由悠季の言う恋愛映画であり、エンターテイメントだと豪語しながらも実は作家性ばかりが全面に出た劇構成の根幹なのである。
劇場版では一挿話ながら、やはり『Z』においてフォウのエピソードは抜群に面白い。カミーユが落ち込んでいる描写があって、それからファtの再会に持っていければドラマは上手く流れるはずだし、通俗的な感動もあろうというものだが、そういうのを避けて通るのが富野ドラマツルギー。結局、富野由悠季って「通俗的」とか「芸能」とかって言葉を使って照れ隠しをしているだけで、大衆に全然迎合してくれないのよね。