ZIIIについて補足を。
補足と言うよりも、23日の試写会から1週間経って熟成されてきた感想ということなんだが、前回にも書いた通り、やっぱりこれはTV版の登場人物たちが再びチャンスを与えられて再び歩んだ物語なんだな、という思いが強くなっている。
つまり、20年前にテロや内戦、成長できないヒーローたち、キレるカミーユ、そんな現実を見せてきた物語であるTV版『Z』だが、20年後の今ならあなたちどうするよ、っていう。
手塚の『火の鳥』みたいな、同じ時間をぐるぐるとめぐるSF的な物語は昔からあるけれど、そうしてまた20年前と同じスタート地点にカミーユやファたちが立たされたんじゃないかと。
で、やっぱり与えられた環境、つまり内戦の中を必死で戦って生きていく。起こる出来事はほとんど変わらない。それが現実だから。「現実認知の物語」で語られた現実が変わったら、それは20年前がウソになってしまう。20年前の物語は決してウソじゃない。
クワトロはやっぱりヘタレだし、アムロはやっぱり宇宙に上がれないし、ジェリドはヘタレを超えてヘッポコだし、だいたいにおいて「人は同じ過ちを繰り返す」ことになるんだが、ほんの少しずつズレていく、世界が。だから、新訳『Z』のラスト、お涙系の感傷じゃなくてむしろものすごく優しくて温かい感じなんだが、それって当然行き着くべきラストなんだよね、っていうことが分かってきた。このラストに辿り着けたということは、20年前の現実、それは呪縛となって我々を苦しめ続けている現実なんだけれど、そういうものをようやく振り解くことができたのね、ということ。
で、Gacktの『Dybbuk』が最後に待っている。これは富野が2年前から絶対にこの曲をラストに流すと決めていたそうだが、ものすごく納得できる。『Dybbuk』が何を想定して書かれたかとかそういうのは問題ではない(それはつまり、音楽とはいかにイデオロギーがあろうと普遍的なテーマを持つものだから、何かを想定して書いて、それがその一つの事象しか表していないとなればそれは失敗作だし、またそう言うのは失礼なことだ)。
『Dybbuk』の歌詞って、そのまんまシャアなのだよ。あるいは20年前に歩んだ『Z』だったんだとも言える。
―君の後ろに立つのは誰? もう一度巡り合うため目を閉じた
―焼けた腕は鎖に繋がれ 裂けた傷は太陽に抱かれ
―躯を突き刺す光と影、見つめている…
これがそのままハマーンに負けた後のクワトロを指すとまでは言わないが、傷付いてボロボロになった現実、あるいはシャア・アズナブルであっても構わないだろう。で、カッコ付きの歌詞だ。
―「まだ、貴方はかわれないから… さあ、目を閉じて」
―「まだ、私は離れないから… さあ、抱きしめて」
―「その祈りは叶わないから… さあ、手を伸ばして」
これがねぇ、ほんとにもうララァがシャアに言っているみたいじゃないか、と。あるいは、『Z』そのものだと考えれば、テーマとして「刻」があるなら、まさに、刻をこえてみせろってことだよな。
―痛みと別れ 時間を殺して
―孤独に抱かれた 僕を殺して
でも、死ねない大佐。
カミーユはこの新訳『Z』で、呪縛を解き放った。つまりこの『Dybbuk』を乗り越えてみせたわけだ。でも、『Dybbuk』はまだシャアには現実のものとして依然存在しているということだ。
だから、『Z』のラストに『Dybbuk』というのは実はすごく大事なことなんじゃないか。
カミーユの物語は、『Dybbuk』を吹き払う新訳『Z』で完結した。それはTV50話+新訳3本の長い刻の中で。これが飛田氏が言っていた「カミーユの物語」なんだろうな。残されたのはシャアの物語。だからシャアには『逆襲のシャア』が残されている。もちろんそこにカミーユはいない。
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