天正13年、神川合戦前、徳川軍の来攻を予想していた昌幸
は、越後の上杉景勝に救援を求めていた。その時、昌幸は
二男の弁丸(信繁)を上杉方へ人質に出している。弁丸は
上杉氏の北信濃経営の中心基地海津城に落ち着いたとき、
先に上杉から徳川へ寝返った、屋代左衛門尉秀正の旧領を
与えたことが文書より推察されるという。
その時に書かれたとされる、『諏訪久三宛真田弁丸安堵
状』は次の通りです。
『向後別して奉公あるべきの由に候条、左衛門尉殿判形の
如く出し置き候。本領二十貫文、本意に於いては重恩として
拾貫文、場所の儀は糺明せしめ、必ず相渡すべく候。弥戦功
肝要たるべく候。恐々謹言。
天正十三乙酉
六月廿四日 弁(花押)
諏訪久三殿 』
弁丸(弁) = 信繁(後の真田幸村)
左衛門 = 屋代秀正
(更埴市屋代 諏訪氏蔵)