2007/6/28

ちょいとロスまで夜行バス  



◇◇名古屋からざっと10時間でロスアンジェルスに着く。
勿論、飛行機での話だが、うっとうしいことのひとつに、食事が2回ほど出る。
おいらの貧乏性でわ、それを無視して寝てることはどうしても出来ないようで、ついつい座席の背を戻し、脇のテーブルを拡げている。
考えてみると、その10時間が夜ってことであれば、2回の食事なんぞ、まったくにして必要ないのである。

そんな10時間っちゃあ、ああた、これが、深夜の高速バス、旅情満載、名古屋〜仙台線である。


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いやね、ホントはわざわざここまで旅情を味わう必要も無いんだけどね、ほんま。
ま、はっきり言って座席は硬いわ狭いわ、空調はいまいちだわ、ねれんわ、で、しこたま疲れますですぞ。

でわ、ぬわんで、深夜バス?
いかにも、これが一番、お安い移動手段だからでばす。ぷ。
(大人往復18,340円)



 仙台で治療を始めてしばらくは飛行機で、んで、早割りって料金体系にて出かけていたんだけど、じつわ、知らんかったけど、あれって、季節によって料金が違うのさ。
仙台まで寒い時、片道1万円ちょっとだったのが、4月ぐらいからちょっとづつ高くなっていって7月なんて1万8千円くらいまで上がっちゃった。それでも通常料金よりは安いんだけど、飛行場までの電車賃をあわせればざっと2万円、往復4万円、月2回通うのでひと月8万円はああた、なかなかどうして結構なもんですぞ。
じゃあ、電車は?
いやこれが、まあ、聞いてくだされ、皆の衆。

◇思うに、新幹線、高すぎだし。

まあ、良い。100歩譲ろう、JR。
新幹線、早いんだし、まあ、譲ろう。
んで、問題はその次だ。
ところがだ。じつわその次っていうのは、ないのである、JR。
勿論、正確に言えば無いわけでわないのだが、例えば、名古屋〜仙台。
これを新幹線で行けば4時間チョイで¥18,970である。
確か、往復だと遠いから往復割引があって乗車券分が1割安いはずだけど違うかな?
ま、そんな感じ。この時期の飛行機と大差ない。
で、乗車券分の料金(¥9,870)だけで行こうとすると、13時間半くらいかかる。もちろん、乗り換え回数も尋常でわない。これはもはや通常の移動手段でわないく、マニアの世界である。

料金は倍だけど、時間は3分の1より早い。さらに、快適と非快適度ときたら比べ物にならない。

あらまあ、新幹線わなんてお安くて快適でお早いの、となる。
しかして、ここに重要なレトリックがある。

だいたいがそんな時間がかかって不便なもん、移動手段の価値からいって¥3,000が限度だぞ、とおいらわ言いたい。戦前じゃああるまいし、未開の国じゃああるまいし、距離が長いから準じて距離分のお金いただきます、でわ無いだろう、今の時代のさあびすわ。
そも、在来線としての機能でちゃっかり収支を果たしている路線をだ、乗り継ぎ時間さえ確保されていない乗り継ぎを延々と繰り返し、ドキドキしながら行くのである。んなもん、ある程度から先の料金は打ち止めでええんじゃい。良心的な駅前駐車場みたいに2,000円以上は一日同料金みたいに、だ。
マニアだって大喜びじゃい!今以上にじゃんじゃん出かけるぞ。そして、それは一種のファンさあびすでわあるまいか?けちけちすんなよ、JR。

で、それをべえすに考えれば、新幹線は別に『あらまあ、なんてお安くて快適でお早いの』でもなかろ?

まあ、よい、と、さっき書いた。そうだ、新幹線については100歩譲ろう。
がしかし、だ、遠距離移動のその次をちゃあんと普通にやれよ、JR。
仮に、つまらぬレトリックに引っ掛からず普通に考えて、新幹線料金の半額となれば、新幹線並みの車両でその分、倍の時間、ってのが妥当であろう。
もしくわ、しょぼい車両で新幹線並みの時間。こりわ凄そうだ。市電みたいなんで200キロ。こりわ、まあ、ない。楽しそうだけど。

んで、客も納得、今の世のさあびすとしても成り得る、となると、そこそこの車両で新幹線の1.5倍くらい時間がかかっちゃう、か?
つまるところ、名古屋〜仙台は、新幹線以外の特急車両くらいなんを使って、6時間、片道1万円ポッキリ!往復割引あり、が適正な料金体系でわあるまいか?いかがであろう、皆の衆。



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さて、現実、深夜バスだ。
何が哀しゅうてロスアンジェルス日帰りを月2回。
せめてもの慰みはうっとおしい食事が出ないことだけど、じつわ、本すらまともに読めないのだ。

そこにわ読書灯の悲劇ってのがある。

普通読書灯って読書のできる位置にない?
このロス便にわ、まったくもって、そおいう配慮が、ない。
てか、ばかにしちょらん?ってな具合だ。

読書灯、前の『しいと』の背中の下の方に蛍の光くらいルクスで、在る。

深夜便である。リクライニングなしいとだ。んなもん、ぐいぐいぐいと、しいとわへたおれてくるわけで、読書灯、足元をうっすら照らす。ぶわかもおお〜ん、かあ〜〜〜あつつっだあ!
どんな格好をしたらこの位置、蛍の光ルクスで読書ができるんだろお?ダリか?ダリの世界か?

おまけにおいら、最初に乗ったときなんて、てっきり上から照らす飛行機式だとおもって暗い車内で天井を弄り、らしいなんか押したら、ちょっと紫色に光って『ぴんぽお〜〜ん。次、停車します』だと。
真っくらけな車内からわくすくすくすとこぼれ笑いが聞こえてくるでかんて。
んなもん、はなっからつけとくなて。ぴんぽお〜〜んて。次て。


いろいろだ。いきるということわ、実に、いろいろで、あるのである。(か?)



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(こりわ仙台の高速専用バスデーポ。ロスかと思った?ぷぷ)




2007/6/17

ときどきだけど、指笛が鳴る  



◇なんだか書きたいんだけど。

書きたいことがいっぱい、たまってる。

『めだか天国』でしょ、『ちょいとロスまで夜行バス』に、『眉毛を剃ったとよえつ』や、『野草プロジェクト発令』んで、『その名も代償性発汗!』とか、『あんち・アンチエイジング・その後』もだし、『カホーンなスナッチは南国ドロップス』とどめは『ぷぷぷ、買っちゃったあああ〜〜』だ。

あ〜あ、眠くなっちゃうんだよなあ〜ここんとこ、夜。
別に全然早起きしてないんだけどねえ。
ぐらぐらぐらって、寝てしまう。

あ〜あ、書きたいこと、いっぱいあるんだけどなあ〜
ああ、ねぶい、ううう

ううう・・・ぐう〜すう〜まんぐうすう〜


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(マル秘公開!『ちょいとロスまで夜行バス』用の写真。マル秘て。)


2007/6/10

結・久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった




 流れてきに死について考える。

生きている以上、自分の死を経験できることはまあ、ない。
死んじゃった時は、文字どうり、死んじゃってるんで、自分でそれを感じることは出来ないのである。
ああ、つまらん。
ま、つまらないのであれば、つまるようにしてやればいい。

つまり、死んじゃった後の事わ、自分で好きに考えればよいのである。

だいたい、おそらくわ、死んじゃった後のことは全てが物語であろう。
あの江原氏がもっともらしく語る世界だって、彼の考えたひとつの物語なのだろうし、果たして、自分で考えるに及ばない諸氏がその辺の物語で納得する事も、また、良しなのかもしれない。
でも、おいらとしてわ、自分の事だし、せっかくだから、自分オリジナルのストーリーを考えないとちょっともったいない気がしてしまう。
して、どうせなら、出来るだけぶわぁ〜と、華々しく、壮大なストーリーが望ましい。

帯津先生の語る死後の世界もまた、スケールがでかい。
なんだか、ちょっと、わくわくしてしまう。(笑)

*******


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(↑この野草、名前がわかったのだ!「アカバナユウゲショウ」だって。赤花夕化粧!ううう。かっこええやん!)


死は負けということでわ無い、と説かれ、それを納得することで、果たして、自分の生を諦めたこととイコールなのであろうか?
希望を捨てることになるのだろうか?
がんに、病気に、立ち向かってないのであろうか?

答えは、否、である。

辛く、哀しくたって、自分なりの方法で病気に立ち向かい、希望を、未来を、そして自分の死をも、見据えること、それも揺るがない勇気であり、人生の価値、まさにそのものであると、おいらは確信できる。

そして、それは、帯津先生からもらった確信だ。

どんな状況にあろうと、こころがどうあろうと、ええいっ、弱いひと、強いひと、皆、だれだって同じように命に負けの無いことへの確信。

『人は生まれた限り死ぬのであって、その間にいろいろな目にあう。』
大方、そんなところの人生で、命に勝ち負けなど、ありようが無いでわないか。
その至極あったりまえの、至極当然なスタンスが、ついつい、もやってしまうのも生きている日常の副作用であろう。
なるほど、そんな副作用に惑わされることなく、人生の価値を見失わないで、とりあえず、命の導くまま、もうしばらくやっていきたいものである。







   (この章、おしまい)


2007/6/2

続・続・久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった



◇大方という認識で、でわ、人生をも考えてみると、今年2月、46歳の若さで腎臓ガンのため他界してしまった奇才・池田晶子さんもゆうておるけど、人は生まれた限り死ぬのであって、その間にいろいろな目にあう。と、大方、こんだけだ。
ああそうだ。
これ以上でも、これ以下でもない気が、する。

実際は、いろいろなところで、めいっぱいに、いろいろとあるわけだけど、ま、そこわ、いろいろという、やっぱり大方の範疇である。

さあ、そこでだ。
でわ、(大方の)人生の価値とわ?

再び池田晶子流でゆえば、いろいろあるところの、例えば、生活の安定や生命の保証なんかにそれがあると思っちゃうと、人は萎えてくるんでわないか、と。
生活の安定や生命の保証なんかは時として、リストラだ倒産だ、はたまた、がんだ、脳梗塞だ、っちゅう、そおいうことがあったりもするわけで、して、それは、人生なのだからじつわ当たり前であって、しかし、勿論、とても大変なことでもあるのだが、この大変なことを、どれだけ萎えずに生き抜くか、まさしく、それこそが、人生の価値である、と。

この考えは実にシンプルであり、的確だ。

思うところ、シンプルすぎて、ついつい考えに及ばない。
ついつい人生の価値を、生活の安定や生命の保証なんかにあると思っちゃう。


*****

でわ、がんになっちゃった場合は?
う〜ん、立派な患者会のように、やっぱ、前向き、明るさ、強いこころ、安定したこころ、まさに、そこにのみ、闘病の価値を見出してしまうと、なんだかおかしなことになりわしないか?
病気に勝つことのみの価値は、まるで、人生を「生活の安定や生命の保証」に価値を見出してしまうそれと同じようでわなかろうか?

 どんな状況であろうが、どんな結果であろうが、そも、自分なりの希望を見出し、それがなんであれ、結果がどうあれ、その保障を、誰かに、何かに、ましてや自分のこころに求めることをせずして命の導くまま進むこと、生き抜くこと、それこそが、(がんになってしまったという人生をも含んでの)価値でわなかろうか?


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なんだか絵みたいになっちゃったお気に入りの写真。さて、何の花でしょう?


*****


『なによりも帯津先生のすげえとこは、誰もがすぐ出来そうで、実わ、それが誰も出来ない、すごくあたりまえで、すごく普通な思いのところなのだ。
帯津先生の凄いところわ、どんな患者さんにだってすべて平等に希望を与えてくれる、まさに、それに、そのことに、尽きるのだ。』

そこで、帯津ワールドである。

こころの強い人がどうで、弱い人はああで、しかし前向きな人こそ、いや、そうでない人は、等々・・ 当たり前だけど、そおいう方法論的なものを決して、最重要としないし、そこに価値を見出すこともしない。
ならば、どうでも同じ、というのでも、勿論、ない。

そおいうものはがんそのものが個性であるように、それは、患者一人一人の個性であって、あくまでも、そこが全てではない、とする。
時として、スピリチュアルな哲学を含み、しかし、やはり、今のところ、がんは本当にわからないのだ、とし、そして、故に、治る、治らないは、まさしく厳かに語るべき部分であるにもかかわらず、代替医療側のこれをすれば必ず助かる、また西洋医学側の一方的な余命宣告、に、おしなべて厳しい目を向ける。

がんになっちゃったからって、決してあきらめることはない。
精一杯な闘いを、ちゃあんと自分の死をも見据えて、じゃんじゃん挑もう、ってな具合だ。

闘い方は代替医療一辺倒でわなく、しかして、西洋医学のみでもない。
闘いに武器はたくさんあればあるほど良い。
闘いである以上、時として負ける事もあるけれど、常に勝ちに行く姿勢を忘れない。

と、よく考えれば、これは皆、普通にシンプルに的確なスタイルでしょ?

さらには、闘いに参加した皆は、帯津先生をも含んでの戦友であり、敗者も勝者も無い。
そして、帯津ワールドには死んだらまけ、ということも、絶対に無い。

******


死を見据える。これはがん患者であろうが無かろうが、ある意味、必然だ。生きるうえで、死もまた、必然であるのだから。

おいら、最近思う。
この世で、生と死は、おそらく、きっと、同じ比率なのであろう。でも、どうしても生がでっかく感じてしまう。
生きることの方が先行してしまう。死を無いものにしたくなる。
ま、生きているんだから、仕方がないといえば、そうだけどねえ。

そして、困ったことに、そのうちだんだん、死んだらまけ、みたいな考えになって、んで、ついにわ、死を忌み嫌うようになるんだ、これが。



  最終章につづく  (う、げっ)




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