2008/2/29

腱膜性眼瞼下垂症  



◇けんまくせいがんけんかすいしょう、って読む。
「がんけん」とわ「まぶた」のこと。
つまり「まぶたが下垂(垂れ下がる)する症状で、その原因は腱膜(正しくは挙筋腱膜とゆうてまぶたのアキレス腱みたいなもの)の不具合によりまっせ」というお病気である。

そもそも眼瞼下垂症ってえのわ古くから認識されていたお病気だったそうなのだが、その要因に挙筋腱膜が関連して後天的にまぶたが開け難くなる、とした研究はまだまだ日が浅いそうなのだ。
で、その研究のパイオニア、信州大学医学部付属病院の形成外科松尾教授に手術をお願いすると、こうなるのである。わん、つう、すりぃ〜↓


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 この怪人、もちろん、おいらであるのだが、信大病院ではなあんも珍しい姿ではないという。
というのもここ10年、患者さんのみならず、他の信大病院の先生や看護師、スタッフも多数の方がこの手術を施されており、院内でのこの姿わ「マスクメロンマン」なり「スパイダーマン」なりと、ひとつの人格を有してさえ、いる。
白のネットが赤やらグリーンやらになれば院内、もうちっと華やぐのにね、惜しい限りだ。
とりあえず動画も用意してみた。「怪人マスクメロン男」 これだ↓


  You Tube


◇まぶたが垂れ下がるとどうなるかのか?はたまた、なぜにこんなマスクメロン男になるのか?

松尾教授は長年の研究の結果、今から12年前に、このまぶたの垂れ下がりが、多くの肩こりや頭痛などの原因であったことを発見。ただし、先生曰く、最初は誰にも相手にされなかった、ってくらい医学界でわ突拍子もない因果関係であったようだ。
この場でその内容の詳細には触れぬので興味のあるお方は「腱膜性眼瞼下垂症」でお調べあれ。
ま、簡単な説明はとりあえず、以下に。

まぶたの開閉を自然にスムースにおこなえるのは筋肉ではなくそれに付随するアキレス腱みたいな腱が活躍しているのだが、その腱が後天的に何らかの要因で外れたりすると、その役割をうけて筋肉に負担がかかりだすのだそうだ。
するとその一定の筋肉は常に緊張状態を保つことになり、それわ交感神経優位とあいなり、その周辺に不具合が多数生ずるようになる。おいらの場合、左目が利き目で結局、この左目の腱が外れていたようで、群発的に起こる頭痛、変頭痛、目の奥の痛み、重み、目の下の骨やら歯やらの激痛、後ろの左首筋に腫瘍の如く拡がる凝りのかたまりや肩凝りなどなど。これが1〜2ヶ月に1〜2週間の範囲で周期的に襲ってきていた。
そのたびごとに、あ、脳転移?ってどきどきしなきゃいけないし、襲われている期間は左頭がかなり痛いってかずんずん重いってか、まあ、とにもかくにも、非情にQOLがよくないのである。
そんなんで、まあ限界と、いろいろ調べてて、さあ、辿り着いたのが松尾教授であったわけで。

マスクメロン男になるのは手術後のまぶたの腫れをひかせるための圧迫法って治療で、まぶたの上をぎゅっと圧迫するガーゼみたいなのを固定するために必要なネットをかぶるためだ。


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◇手術は1時間ってとこだ。
術後、ベッドから起き上がると、ウソのようだが全身マッサージのよおく効くやつを受けたみたいにすっきりとしてふにゃふにゃってなった。手術中はずっと緊張して体中、力が入りまくりだったのに、不思議であったのだ。

最終的な結果は来週抜糸なので、その後なのだが、今のところ、縫い糸が残っているので目が引き攣っていて意識する瞬きは痛い。よって、そのあたりの緊張が未だ残っている気がする。
容姿はといえば、怪しげなふたえまぶたにして宝塚デビュー間近、って感じだ。ああ怖い。果たしてこれは萎えるのか否か?まて次号!!



2008/2/17

あの世のサービス・その2  

 
 

◇さて、おいらのようないさぎの悪い輩ともなれば、どのみち、いざ死んでしまうときになって、なんかちょっと中途半端な、やり残したことのあるような、ベッドに入ってから、あ、もう一回、おしっこしとけばよかった、的な残尿感っぽい想いが巡るに違いない。
だから、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」境地に至るには、ま、程遠い。

ちょっと前、忌野清志郎が復活ライブのインタビューに答えてて「今を一生懸命に生きて今を精一杯考えて、ちょっと先のことは考えないようにしている」みたいなことを言っていた。おそらく、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」インディオの長老の境地に近づいているのだろうなあ。かっこええなあ〜と感心したおいらである。
やっぱ、がん患者たるもの、人前でさらっとそう言えんとなあ〜。


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がん患者の心境をあえて一言で表現すればそれはまさに不確定要素満載の生、である。
いや、人はみな死ぬのだから、がん患者じゃなくたって同じだよ、って思うでしょ?
それが、実際、ちょっと違うんだなあ。
「死」は必ずある。それを認識する。としても、現代において普通、生きていくってことは具体的な生を見越して生きているはずだ。
簡単なとこで年金問題だってそれの最たるものだ。
どうせ将来死んじゃうし、いつ死ぬか判らないから、まあ、いいや、って話でわないだろう。
ところが例えばおいらは2年前、あと5年で死ぬ率7割と言われる。
五年後(実際はあと3年)に生きている確立より死んでいる確立が高い、ってわけ。
かといって5年の間に絶対に死ぬって話でわ無い。
5年どころかあと50年生きられるかもしれない。

ほら、やっぱ、同じじゃん、でわない。

人はおそらく、基本的に、未成熟なこころを持ち続けているわけなので、この違いとして、後者は、まさしくこころに、生と死の、ある程度確立した不確定要素が生ずる。ぽこっと。

5年生きられないかもしれない。
でも、5年以上生きられるかもしれない。
この巡り巡るどうどう巡りの想いが毎日の生活の中でなにかとおっきなウエイトを占める。
年金問題だって、基本は、どうでもいいんじゃねえか的なのだが、いや、ひょっとして90過ぎまで生きちゃったらどうしよう?とか、グルグルグルグルするわけだ。

そおして本来は、辿り着くべく、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」境地が、在る。
なべて、戦国時代の武士とかは、いつ腹を切らされるか判らないのでそおいうものの考え方に至れるようちゃあんと訓練していたようだし(最初は人生を一生と考え、だんだん半分にしてさらにその半分、またその半分と、最終的に一日が全て、半日が全てと想える精神を鍛錬したそうな)戦時下においての生もまた、それに近いのかもしれない。

にもかかわらず、だ、冒頭のように、おいらのそれはなかなかその境地に至れないでいる。
ある意味、そこに至れないでいるのは、とても簡潔な思いでもあるやもしれぬ。
たとえば、30年後、ペプシのスター・ウオーズ・ボトルキャップ・コンプリートがコレクションステージ付きでお幾らになっているのか、ものすごく知りたい!たとえば、30年後、友達の○いこさんはどんなおばあ顔になっているのかものすごく知りたい!
いやね、そりゃあ人によっては50歳を過ぎたって起業したり、修行したり、めくるめく恋を願ったり、ってのもありなんだろうけど、おいらは、まあ、その辺わいいかと。
でも、近々死んじゃうとなると、○いこさんのおばあ顔はわからないままだし、携帯電話の行く末や、がんの特効薬とかわ果たして?とかひょっとかして生きていられる範囲での近未来な出来事が気になって気になって。
いや、もう、いさぎわるしの国からいさぎわるしを広めに来たかのいさぎわるしである。

でも、そのいさぎわるしおいらのあがきを、ちゃあんと見越している偉い学者さんもいたもんで、「死」を哲学する/中島義道 〜 の「不在と無」というテーマに似通った内容をみつける。
要約すると、「死」はそれをまったくの無とするからなんだか怖いのであって、死んでも100億年後に蘇生できて、ああ100億年経ったのだ、と理解できればその間の「死」は眠っていただけ、つまり「不在」としてとらえなおしている、ってはなし。


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で、今回の「あの世のサービス」なんだけど、確立わめっちゃ低くていいし、それでも、必ず、誰かが特等は5回、1等で3回、2等なら2回、3等だと1回限り、死んでから起こしてもらえるっていうのはどうだろう? 
んで、今回ハズレてもちゃあんと敗者復活組にいれてもらえるんだ。
出来ればアタリの人も何回かの抽選ラグはあっても、その後、また抽選に参加できるようにしておいてもらいたい。
別に、完璧に若返ったり元気に走り回れなくても良いので、死んでいる間、いろいろとどんなことがあって今、どんなんです、みたいなこと、知ることができる程度でよい。
勿論、その後はあらら〜こんなんになってたんだ〜って理解して、また死んじゃうんだけど。

怪しげな生まれ変わりとか前世がお姫様だったとかじゃなくて。
ちゃあんと自分の脳が自分をじぶんとして想起することが重要。

そおいう期待(死は完全な無ではないという期待)を持ってして死に挑めば流石、おいらのようないさぎわるしでさえも長老の境地に至るに造作はなかろうて。ぷぷぷ



おしまい(おしまいかいっ!)








2008/2/16

あの世のサービス@  

  
 

 ◇中川恵一・東大病院の先生が書かれた「がんのひみつ」が売れているという。
この先生のお話は毎日新聞連載「Dr. 中川のがんを知る」で時々眼にしていた。
緩和ケア診療部長ってこともあって、なかなか冷静にがんを語る。
がんの基礎知識やその周辺のことも判りやすく明快に語り、おいらは嫌いな先生でわない。
もちろん、代替医療などには否定的だし、再発・転移後に関しての見解はいかにもの立派なお医者の代表的表現で悲観的だ。
ま、その辺、おいらはいただけないけど。
ただ、それでも、この先生、今回の「がんのひみつ」でわ、死をちゃあんと見据えろ、と、がんが治ったっていずれ人は死ぬんだぞ、と、声高だし、その辺をはっきりベースにおいた視点での統合医療的なポイントも含みつつ、まあ、がんになる(?)前の人のがんの教科書的な要素がたぶんにある内容に仕上がっている。


******


人が「死」ということをわすれた昨今、先生はまず、ガンを知ること、そしてその前に人は必ず死ぬということを認める必要がある、と、して、「人は全員死ぬのだ」「命に限りがあり、それゆえ尊い」を考え、がんを通して人生を考えることが「良く生き、よく死ぬ」ことにつながり、「がんになって、このことに気付いた、がんになってよかった」という患者は少なくない、とし、「私も死ぬならがんがいいと思っています。」と語る。

誰がどう調べたのか知らないけれど、がんになってよかったという患者は少なくない、らしい。
んで、2人に1人ががんになる現在、先生の望みもかなりの高倍率で叶いそうである。


もっとも、がんを患ったおいらとしてわ、なんだかこの件が好きでわ無い。

人にはやっぱり、事情というものがあるのだ。
先生ががんで死にたいと思うように、いや、今、がんで死んでいる場合でわない、という事情の人だっているかもしれない。
ひとは必ず死ぬのだ、がんが治ったっていずれ死ぬのだ、ってのを、人一倍、人百倍、そこを認識できたとしても、出来すぎたうえでなお、それが「今」じゃあ困るんだ、って抗い、がんになっちゃってちくしょお〜って思うことは人生を良く生き、良く死ぬことにつながらんのか?だいたい「がんを通して人生を考え」良く生き、良く死ぬ、って、なんのこっちゃ?
なんだか戦時下で位の高い軍人が最前線にいる兵士にこの戦争はお国のためである、と、して、「人は全員死ぬのだ」「命に限りがあり、それゆえ尊い」、「戦争」を通して人生を考えることが「良く生き、よく死ぬ」ことにつながるのだ。突撃いいい 〜 なんてふうな有るまじき勇ましい話に似かよって聴こえなくも無い。
「人は全員死ぬ」ことぐらい判っていても、お国の為に「今」死ねぬ事情のある兵士だって山ほどいように。


「死」を見据えるってことはただ「死」に身を任せるって事とは違う認識であることはいうまでも無い。

先生のごもっともなご高説は、時として、それぞれの事情で「死」に抗う、いさぎの良くない、先生等の言うところの「余命いくばくもない」がん患者のひとつの姿勢を、曇らせわしまいか?まるで、それを非とする、戦時下での最前線からの脱走兵であるかの如くに。


****



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とわいうものの、概ね、「死」を意識しなければがんを知ることはできず、がんに無知であることが、適切な処理も受けれずに自らの首を絞めている。ゆえに、ちゃあんとまず、「死」を考えましょう 〜 という意味合いであろう、先生のご高説だ。
死を忌み嫌い過ぎる昨今、そこわ間違ってはいまい。
おまけに、この先生、とても優しい。おそらく。
よって、「まあ、がんになる(?)前の人のがんの教科書的な要素はたぶんにある」良くまとまったわかりやすいがんの知識本であり、一読して損は無い。680円(+税)だし。


そおして、果たして、いよいよがんになっちゃったら、先生みたく、とりあえず願い叶ったり、とするもよし、じたばたするもよし、それわそれで、本当に、本人の事情で生きれば良いと思うのだ。
そおして、それがどんな生き方にせよ、そこに、がんを通しての、良い生き方や悪い生き方など絶対、ありわしないと、おいらわ思う。だって、あるのは百人が百通りの事情だけ。どうせ、いつか全員、死んじゃうにしても、生きる事情は全員、ぜんぜん、まったく、皆、違うのだからね。良いも悪いも、んなもん、ありゃあしない、で、いかん?



             (久々に、なんとなく、つづく) 


2008/2/10

神尾真由子にやられる  

  

◇苦悩するかの、あの表情。あの眼力。

若干21歳のヴァイオリニスト・神尾真由子である。
年末スペシャルに続き、昨晩のBSは堪能されたであろうか?
はて、苦悩の何かを判らぬ輩はまず一発、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35:第1楽章の彼女をとくとご覧あれ。↓

ここをぽちっとな

いかすであろうが?
大迫力であろうが?
のだめにはまったちゃったら、今度は神尾だ。(か?)

とにもかくにも、おいらはここんとこ、ぞっこんである。
1月の30日の名古屋は行けれなかったけど、昨日のBSにて、苦悩の表情から放たれるあの眼力に、かなりどきどきしたのだから、まあ、良いのである。



不純なおいらわ、実わ、かのお美しき、諏訪内晶子さまも、大好きである。
まあ、お美しき、というレベルでのポイントが高いなあ〜と自分で自覚しているので『不純』で良いのだけれど、諏訪内晶子、やっぱ、実に優雅である。
でわまだ80’S眉毛少女だった頃の彼女のチャイコフスキーで、神尾真由子ちんと比べてみよう。↓

ここをぽちっとな

あ〜このこ、ほんまに今の諏訪内晶子さまと同一人物かいっ?
と、ま、そりわともかく、なんとも、かわいい! 
(いや、演奏は?)

ど?
いまどきの神尾真由子、80’S眉毛少女に貫録勝ちか?

******


じゃんりゅっくぽんてぃとかホット・ツナのぱぱじょんくりーちとかそおいうポピュラーなヴァイオリンだったりすれば、ま、あうんの付き合いなおいらでわあるが、さて、クラッシックなそれはといえば、まだまだ不純だったり(ぷ)、いまいち曲に不慣れであったりで、四苦八苦であったのだが、いやはや、苦悩する神尾真由子、ここらで一気に導いておくれ。


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  (苦悩なき笑顔な彼女の写真↑ ううむう、いとも、普通だ。)






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