2008/5/25

あらためて、帯津せんせい、と、いうおひと  がんになっちゃった




◇長野、信州は飯綱のHolistic Space水輪。
10〜12日、久々、帯津先生の養生塾に参加である。


以前の水輪養生塾の様子@

以前の水輪養生塾の様子A


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おいらわ今回の参加で都合6回目だ。
こおいう催しに回を重ねて参加する場合、世の常として2種類の分類で大別する。

謙虚な人とまったくそうでない者。

おいらたち(おいらとよめとろくさんとまさこねえさん)4人わといえば、えへへ、いわゆるまったくそうでない者代表団ご一行様、である。

どれくらいそうでない者かといえば、帯津先生のホメオパシー講座・ビデオ上映プログラム(帯津先生が大きな会場でホメオパシーの講座をされた時のビデオを皆で集まって夕食後、広間で観る、っちゅう1時間半のプログラム。あえて言い訳すれば毎回同じビデオなの。)に4人、平然と遅刻して入場。
するや否や、暗闇の中、おいら、居場所を手探りで探している最中、ろくさんったら、いっつのまにか暗くて見えないけど、前の方で巣をくくり、秒殺で、いびき。
いや、部屋で寝てろよお〜

ろくさんは、早寝だ。
というより、しょっちゅう寝てる。
ひとが集まっていようがいまいが、どんなシビアな内容であろうが、あるまいが、とりあえず、ろくさんわ、寝る。
メインのプログラム、帯津せんせいと車座交流会にして、ぐ〜す〜ねてしまったろくさんに、隣にいた参加者さんわびっくりして鳥みたいな顔になっていたっけ。

あ、ろくさんわロスアンジェルス在住なのできっと時差だ。
時差で眠いのだ。
その証拠にろくさんのよめのまさこねえさんも、すぐ寝る。

でも、ごはんの時わ違うな。
なに?
時差って?
喰いもんのこと?

な、お二人だ。



再び、ビデオ上映会場。

よめとまさこねえさんの、ひそひそのつもりだけどひそひそじゃないおしゃべり。
おまけにげたげたと、笑う。

笑う話じゃねえべ?
帯津先生、わらかしてねえべ?


で、おいらわ徘徊。
こっそり地下室とか徘徊。
茶話室のりんごとかぱくついて徘徊。
あちこち徘徊。
売りもんの本は片っ端からぺらぺらしてみる。
んで、すぐあきて、また徘徊。


てな具合で、回を重ねての非道ぶり、ちーむ約4名、都合20分でこそこそビデオルームから退散だ。

なら、最初から来るなよな、って話である。


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さて、帯津先生の説く養生ってえのわ、今更ながら、実に、とっても、わかり易い。
食養生に関しても、自分で基本スタイルを決め、そこに時々ちょっと息抜きで羽目を外したりしてときめきを混ぜる。ってな具合。
お食事はまた、楽しく食べてこそ、食養生なのだ、のスタイル。
玄米菜食とわいえお肉がどうしても食べたければ1ヶ月に2〜3回、食べちゃいなさい、そんで、どうせ食べるならビクビクせず、ぐおおおお〜〜って、想いを爆発させるくらいな勢いで食べちゃいなさい。その想いのエネルギーはまた、養生であります、と。

お酒も大丈夫。無理して飲むことわないけれど、お好きなら飲みましょう。
大人の自覚で飲む量を考え楽しく飲みましょう、と。
抗癌剤だって重要な武器のひとつと考え、ただやみくもに拒否せずとも、と。


こりゃあ、か○○けさんのところで絶対講演わできまい。
はたまた、な○○ま会長にして「帯津わ甘い」と言わせる所以だ。

果たしてそれわ、なるほど、世に名を知らしめるいくつかのがん患者会の理念と、相対的にして、まったく、いいかげんである。
いいかげん流帯津式養生法だ。

が、それわまた、見事に理に適ったいいかげん流であるからして、おいらわ帯津先生が大好きなのだ。

今、がん治療にわ、絶対がない。
だからいいかげんで良いのだ。
なあんて短絡的ないいかげんだと思ってもらってわいかにも総務省の調査結果的な視野に過ぎない。

帯津式養生の行き着くところわまさしく、生と死の統合である。
であるからして、生と死の隔壁にある曖昧さを見過ごしてなんの養生、なんの治療。
早い話、死を負けとしない養生が帯津式、である、と、おいら思うのだ。

果たして、生、だけに執着してどんどんエスカレートした養生に至る観念には、どうも排他的な要素がある。これだけを守れ、あれをするな、信ずるものわ救われる。そこに死はなく、死は負けで、これまた排他的要素として、切り捨てられる。教義はどんどんシェイプアップされてスタイリッシュな装いさえ、伺える。
一見スマートなそれに相対して、帯津式がいかに不細工で、いいかげんであるかがこのからくりだと思いません?

帯津式はいかにも当たり前に死を認め、生を生きろ、とする。
そこに疑問わない。

それは100なら100の筋書きがあり、全ての人が全ての異なった生と死を持つ。
そこに切り捨てるものなど、何も、ひとつとして、ないのだ。
だからそれは決してスマートでわなく、不細工でいいかげんである。
だけど、どんなスマートな教義より何より、まさしく、理に適った、「いいかげん流」なのである。


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帯津せんせいというおひとは本当に素晴らしい。
こんなおいらたち不良養生グループにだって他の誰とも変わらぬ思いやりをくださるの。
じつわ、くださらないかもしれないけれど、でも、くださる気がしてるから、いいの。

フラシーボ効果ってえのわね、やっぱ、元のクスリが良ければ良いほど効果があるざます。
帯津せんせいご本人が、本当にすっげえ良い薬なのだから、じつわくださらないかもしれないけれど、でも、くださる気がしてるから、それで、すげえ、よいざます。
ああ、そうだわ。今度から帯津せんせいのこと、フラシーボ帯津って呼ぼうかしら?なんだかヒトデから抽出した新しい抗癌剤のネーミングみたい。パンドラね。パンドラよ。ああ、パンドラ帯津。もう、なにがなんだかわからなくなってしまったわ。



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(いつも元気。水輪でのお食事わまかせてっ!の、やのさん。↑)




2008/4/4

3年目、ああ、かつお節  がんになっちゃった

 


♪ ぼ〜くのと〜なりのお〜ばさんわあ〜
 あ〜めりかが〜えりのお〜ばさんでえ〜
 へ〜んなことばでいうんだよお

 アナタノ家ノ ニオイ ニッポンノ ニオイ コレ ハナカツオノ ニオイネ

 そお〜だよまるあいはなかつお〜
 えいよ〜たっぷう〜りいねえ〜♪

というわけで、かつおの削り節わ、実にうまい。

◇え〜、おいら、この3月が過ぎ、術後、いよいよ3年目に突入した。
先月の2年経過検診、胸部と腹部CT、頭部MRIの検査でわ再発、転移、無し、経過良好、との結果であったのである。ぱちぱちぱちい〜

いやはや、とりあえず、2年。
とりあえずわ、2年、あんなに毎日飲んでいたコーラだって、以後、未だ、口にしていない。

がんの代替療法といえばそこそこ基本の玄米菜食。
おいらは術後2年、わりかしまじめに実践してきた。

まあ、1年前、2年目に入ってからわ、動物性タンパクでの白身のお魚とか魚介類を結構、普通に、摂るようになったし、甘味も甘酒、米飴以外のメープルシロップを使うようになってぐっとバリエーションが拡がり、時々わケーキやまんぢう、あいすくりん等のご馳走も頂くようになった。
半年ぐらい前からわコーヒーも解禁、ここにきて平飼いの卵もちょくちょく食べる。いやはや、あなた、卵ってえのわ実にご馳走ですからな。みな、心して食べるようにね。
さらに、乳製品はめったに口にしないけど、やはりここに来てちょっぴりチーズを食べた。


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(3年前から「ゆきやなぎとさくらのコラボ」がおいらの春の認識だ。)


はて、こんなんでまじめ、か?という疑問もおおいにおありかと思うのであるが、さて、白米は基本的にわ食べないし、玄米菜食レストラン以外での外食は、せいぜい御寿司か蕎麦だし、普通のスーパーの食品売り場で買える物は相変らず納豆と豆腐、豆乳、天然のおさかなくらいで化学調味料や添加物入りの加工品等、一切、買わないでいる。
お肉わ、ずっと食べないでいたら、特に牛肉わ食べれなくなったし、不思議とあまり食べたいとわ思わなくなった。たまああ〜〜〜〜〜に、ハムサンドが無性に食べたくなることがあるがまだ実現わしていない。いずれどこかの記念日に喰うぞ、と、密かに決めている。
で、生にんじんジュースは1回400CCを1日2回ずっと続けているし、ま、言い出せばきりが無いけど、そこそこちゃんとやっているのである。


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先日、久々に会った古い友人がおいらより10も若いくせに、これまたがん患者で、ついつい話が盛り上がり〜の、どんな療法やり〜の話に、なった。
彼のかかりつけのお医者は、やはりホリスティック医療系で代替療法も積極的に取り入れているようなのだが食に関してわ玄米菜食だめだめ主義で肉をじゃんじゃん食え、派、であった。
で、彼わ、そのように肉をじゃんじゃん食っているのであると話してくれた。

おいらの話とあわせもってして、まさに、食が全てでわ無い、という話の典型である。


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でもって、いよいよ3年目に入ったおいらであるが、ちょっと、あれだ、かつおの削り節にも、手を出すことにした。基本的な玄米菜食(マクロビオティック寄りの)でわ、かつおだし、煮干だしなど使わない。おいらんちもだしの基本は、今でも、自分ちで作る昆布だしとしいたけだしだけであるわけで。

で、かつお節、といえば、やっぱ、世間わどうあれ、名古屋人のおいらわ、冒頭の「まるあいはなかつおのうた」である。
 つい最近、アメリカ帰りはおばさんじゃなくておねえさんになったNEWバージョンのCMを観たが、なんとも、かゆいところに手が届かない、実に歯がゆい、あの感触なのだ。なにがなくとも、アメリカ帰りは、断固、おばさんでなくてわ、いかんのである。昨日今日の帰国子女に、かつお節のなんたるかがわかってたまるか、ってな具合なのだ。

 それにつけても、ああ、かつお削り節の美味いこと。
かつお削り節でこさえたつゆで喰った釜玉うどんの、ああ、美味しかったこと!
おいらはあまりの美味しさにうるうるしたぞ。



世の中にわ美味しいものが実に身近にごろごろしている、等、すっかり忘れていたそおいうことを一回性の人生において、繰り返し自覚できる驚き、喜び。
なるほど、3年目、いよいよお楽しみは佳境の様を呈してきたのである。






2007/6/10

結・久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった




 流れてきに死について考える。

生きている以上、自分の死を経験できることはまあ、ない。
死んじゃった時は、文字どうり、死んじゃってるんで、自分でそれを感じることは出来ないのである。
ああ、つまらん。
ま、つまらないのであれば、つまるようにしてやればいい。

つまり、死んじゃった後の事わ、自分で好きに考えればよいのである。

だいたい、おそらくわ、死んじゃった後のことは全てが物語であろう。
あの江原氏がもっともらしく語る世界だって、彼の考えたひとつの物語なのだろうし、果たして、自分で考えるに及ばない諸氏がその辺の物語で納得する事も、また、良しなのかもしれない。
でも、おいらとしてわ、自分の事だし、せっかくだから、自分オリジナルのストーリーを考えないとちょっともったいない気がしてしまう。
して、どうせなら、出来るだけぶわぁ〜と、華々しく、壮大なストーリーが望ましい。

帯津先生の語る死後の世界もまた、スケールがでかい。
なんだか、ちょっと、わくわくしてしまう。(笑)

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(↑この野草、名前がわかったのだ!「アカバナユウゲショウ」だって。赤花夕化粧!ううう。かっこええやん!)


死は負けということでわ無い、と説かれ、それを納得することで、果たして、自分の生を諦めたこととイコールなのであろうか?
希望を捨てることになるのだろうか?
がんに、病気に、立ち向かってないのであろうか?

答えは、否、である。

辛く、哀しくたって、自分なりの方法で病気に立ち向かい、希望を、未来を、そして自分の死をも、見据えること、それも揺るがない勇気であり、人生の価値、まさにそのものであると、おいらは確信できる。

そして、それは、帯津先生からもらった確信だ。

どんな状況にあろうと、こころがどうあろうと、ええいっ、弱いひと、強いひと、皆、だれだって同じように命に負けの無いことへの確信。

『人は生まれた限り死ぬのであって、その間にいろいろな目にあう。』
大方、そんなところの人生で、命に勝ち負けなど、ありようが無いでわないか。
その至極あったりまえの、至極当然なスタンスが、ついつい、もやってしまうのも生きている日常の副作用であろう。
なるほど、そんな副作用に惑わされることなく、人生の価値を見失わないで、とりあえず、命の導くまま、もうしばらくやっていきたいものである。







   (この章、おしまい)


2007/6/2

続・続・久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった



◇大方という認識で、でわ、人生をも考えてみると、今年2月、46歳の若さで腎臓ガンのため他界してしまった奇才・池田晶子さんもゆうておるけど、人は生まれた限り死ぬのであって、その間にいろいろな目にあう。と、大方、こんだけだ。
ああそうだ。
これ以上でも、これ以下でもない気が、する。

実際は、いろいろなところで、めいっぱいに、いろいろとあるわけだけど、ま、そこわ、いろいろという、やっぱり大方の範疇である。

さあ、そこでだ。
でわ、(大方の)人生の価値とわ?

再び池田晶子流でゆえば、いろいろあるところの、例えば、生活の安定や生命の保証なんかにそれがあると思っちゃうと、人は萎えてくるんでわないか、と。
生活の安定や生命の保証なんかは時として、リストラだ倒産だ、はたまた、がんだ、脳梗塞だ、っちゅう、そおいうことがあったりもするわけで、して、それは、人生なのだからじつわ当たり前であって、しかし、勿論、とても大変なことでもあるのだが、この大変なことを、どれだけ萎えずに生き抜くか、まさしく、それこそが、人生の価値である、と。

この考えは実にシンプルであり、的確だ。

思うところ、シンプルすぎて、ついつい考えに及ばない。
ついつい人生の価値を、生活の安定や生命の保証なんかにあると思っちゃう。


*****

でわ、がんになっちゃった場合は?
う〜ん、立派な患者会のように、やっぱ、前向き、明るさ、強いこころ、安定したこころ、まさに、そこにのみ、闘病の価値を見出してしまうと、なんだかおかしなことになりわしないか?
病気に勝つことのみの価値は、まるで、人生を「生活の安定や生命の保証」に価値を見出してしまうそれと同じようでわなかろうか?

 どんな状況であろうが、どんな結果であろうが、そも、自分なりの希望を見出し、それがなんであれ、結果がどうあれ、その保障を、誰かに、何かに、ましてや自分のこころに求めることをせずして命の導くまま進むこと、生き抜くこと、それこそが、(がんになってしまったという人生をも含んでの)価値でわなかろうか?


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なんだか絵みたいになっちゃったお気に入りの写真。さて、何の花でしょう?


*****


『なによりも帯津先生のすげえとこは、誰もがすぐ出来そうで、実わ、それが誰も出来ない、すごくあたりまえで、すごく普通な思いのところなのだ。
帯津先生の凄いところわ、どんな患者さんにだってすべて平等に希望を与えてくれる、まさに、それに、そのことに、尽きるのだ。』

そこで、帯津ワールドである。

こころの強い人がどうで、弱い人はああで、しかし前向きな人こそ、いや、そうでない人は、等々・・ 当たり前だけど、そおいう方法論的なものを決して、最重要としないし、そこに価値を見出すこともしない。
ならば、どうでも同じ、というのでも、勿論、ない。

そおいうものはがんそのものが個性であるように、それは、患者一人一人の個性であって、あくまでも、そこが全てではない、とする。
時として、スピリチュアルな哲学を含み、しかし、やはり、今のところ、がんは本当にわからないのだ、とし、そして、故に、治る、治らないは、まさしく厳かに語るべき部分であるにもかかわらず、代替医療側のこれをすれば必ず助かる、また西洋医学側の一方的な余命宣告、に、おしなべて厳しい目を向ける。

がんになっちゃったからって、決してあきらめることはない。
精一杯な闘いを、ちゃあんと自分の死をも見据えて、じゃんじゃん挑もう、ってな具合だ。

闘い方は代替医療一辺倒でわなく、しかして、西洋医学のみでもない。
闘いに武器はたくさんあればあるほど良い。
闘いである以上、時として負ける事もあるけれど、常に勝ちに行く姿勢を忘れない。

と、よく考えれば、これは皆、普通にシンプルに的確なスタイルでしょ?

さらには、闘いに参加した皆は、帯津先生をも含んでの戦友であり、敗者も勝者も無い。
そして、帯津ワールドには死んだらまけ、ということも、絶対に無い。

******


死を見据える。これはがん患者であろうが無かろうが、ある意味、必然だ。生きるうえで、死もまた、必然であるのだから。

おいら、最近思う。
この世で、生と死は、おそらく、きっと、同じ比率なのであろう。でも、どうしても生がでっかく感じてしまう。
生きることの方が先行してしまう。死を無いものにしたくなる。
ま、生きているんだから、仕方がないといえば、そうだけどねえ。

そして、困ったことに、そのうちだんだん、死んだらまけ、みたいな考えになって、んで、ついにわ、死を忌み嫌うようになるんだ、これが。



  最終章につづく  (う、げっ)


2007/5/27

続・久々にがんの事、帯津先生の事   がんになっちゃった




◇ち、がんになっちまったぜ!
がんなんかに負けたくないぜ!

てな具合に、ほぼ、だいたい皆、がんになっちゃったら思う(はずだ)。
でも、だけど、そう思う誰しもが皆、こころの強い人ばっかなのかといえば、そうでわあるまい。
さらに、誰しもが、強いこころに変貌できるとは、これまた限るまい。
明るく、前向きで、何にも屈せず、ひたすらにがんに立ち向かえる、こころ強きがん患者ばかりでわ、おそらくわ、ないのである。
でわ、そうでわないひと、そうなれないひとは、やっぱ、病気にまけちゃってるのだろうか?
病気と闘っていないのだろうか?

絶対、そんなことは絶対、あるわけがないのである。
明るく、前向きでなくても、突然、マーカーの値でトーンダウンしてしまっても、つい、玄米菜食の枠からはみ出た食事をしてしまっても、がんになる以前の自分を悔い改めれなくても、西洋医学一辺倒でも、ええい、とどのつまり、毎日泣いて暮らしていたとしても、そおいう状況を、病気に、がんにまけているなどと、誰が、何故、決め付けれるのだろう?

仮に、そおいう状況で、でわ、志半ばで、残念だけど、哀しいけれど、死んでしまったとして、それを、ほうら、がんに敗けましたね、と、誰が、何故、決め付けられようか?


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(ろくさんたちと遊んだとこで咲いていたおだまき。↑ かわいいねえ。)


*******

でわ、なにか?フィクションであれ、ノンフィクションであれ、世の中でえっへん!と、まかりとおる、壮絶ながんとの闘病生活の末、お涙頂戴、はかなくも散るシチュエーションをよしとするのか?そこにあるがんイコール死、と、決め付ける、この認識をよしとするのか?と、なれば、いやいや、そこが切り口でわまったく、ない。

がんイコール死、でわないし。
(生きるイコール死、ってのがある意味、正解なんだろうけど、そこわまたあとで)
それはどおいう報道がなされようがどおいう情報でかく乱されようが、一寸考えれば、誰だって判る。
果たして、テレビでそおいうドラマを演るから、ついつい、人は皆、がんイコール死、というイメージを植えつけられるのだという訴えには、ああた、そんな簡単に誰しも植えつけられませんて。
 自分ががんになって、ああ、死刑宣告だ(がんイコール死)ってはじまっても、一寸考えれば、いや、まてよ?がんで必ず死ぬわけでもあるまいぞ(すなわち、最初の「ち、がんになっちまったぜ!がんなんかに負けたくないぜ!」)、だ。
でわ反対に、テレビで全部がんが治ったドラマばかりやったら、皆、誰もが、がんになったとき、ああ、大丈夫、がんなんてすぐ治っちゃうんだ、だって、テレビでやってたもん!って、なるものでもあるまい。
少なくともおいらわ、ならない。

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(いやね、あんまし見事だったんで野菜を買いに行った農協でついぞ買っちゃった「並・いわちどり」↑ あえて、並。290円。何が見事ってああた、晴明のとばす式神みたいでしょ?ぷ。いやほんま、すげえ。)


そこんとこは、ちゃんと自分で考えればよいのである。
考えれば、がんはやっぱり、怖い病気であることに間違いなく、でも、必ずしも死んでしまう病気ではない、と、普通に普通のことが認識できるはずである。そして、大方、がんという病気の認識はそれ以上でも、それ以下でもないのである。

そこが切り口でわない、としたのは、そこを切ったとて「仮に、そおいう状況で、でわ、志半ばで、残念だけど、哀しいけれど、死んでしまったとして、それを、ほうら、がんに敗けましたね、と、誰が、何故、決め付けられようか?」の問いかけの意味は出てこないからなのだ。

******


誰が、なぜ、決め付けられようか?

がんの認識は実際のところ、おそらく、大方、それぐらいしかないのに、だ。

こうすれば、がんは治る、ものでわない。
こうすれば、がんは治らないものでも、ない。
こおいう人でなければ、がんを治せるとは限らない。
そうでない人のがんがなおらないものとは限らない。

おそらく、大方、そんなところでわないか?
それ以上でも、それ以下でも、ないのでわないか?

エビデンスが、いや、ポテンシーが、自己免疫力が、樹状細胞の認識が、こころが、想いが、虚空が、あれが、これが・・・と、と、と、いろいろあって、でも、そこわ、おそらく、「大方」の範疇なのであろう。
そして、その大方に、そこに、希望を見出すことの個々の差に区別こそあれど、不確実な生に日々打ち勝つための、人の尊厳としての希望、日々、がんに主体をコントロールされまいと、自分がこの病気の何たるかをコントロールするんだぞ、という希望に、誰が、何故、何のために、優劣をつける必要が在ろうか?

がんと闘うことに、いや、がんになっちまった全ての人に、勝った、負けた、ましてや、生きる思いに優劣など、あろうはずが、ない。
たとえ、がんで死んじまっても、だ。

あまりにこころ強き素晴らしき生還者たちの屈託のない笑顔とその影で、果たして、耐え忍ばれし最大の意思と努力を感じれば感じるほど、おいらはちょっと、柄にもなく、なあばすになったりするのである。



  (またつづいたりして)




2007/5/25

久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった




◇帯津良一フリークなおいらは今回で5回目になるホリスティック養生合宿にこれまた参加、先々週は長野で何日か過ごした。

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(合宿の帰りにわ、ろくさん(てかてか)と国宝近辺で遊ぶ。ろくさんは去年の合宿で友達になった。おいらよりちょっと年上。ちょうどおいらと同じ頃、結構やばめのがん手術をしたのだが、今じゃおいら同様、ほんまに元気だ。)


帯津先生は最近、五木寛之氏との対談本『健康問答 本当のところはどうなのか?』を出版され、これが、なかなか話題なのだ。
万民、是、右へ習えの健康志向 〜 万民、是また、寝ても覚めてものアンチエイジング的姿勢を、ふんわかした帯津節で、とわいえ、さくさくさくと、見事にこれでもかと、斬りまくる。いやはや、帯津先生、五木氏とぴったりかみ合う歯車で、絶好調ざます。
とにもかくにも新旧の帯津語録山盛りで、アルバムでいうなら「帯津ワールド・BEST盤」みたいな本。
お買い得ですぞ。是非、ご一読を!


*****


さて、一見あやふやであるかのような帯津ワールド、厳しい教えのがん患者会などからはそこそこ批判めいた声も。
帯津先生はそおいうことに対して一切反論をしない。
あくまで、そこは論じあう部分では無いとする。
ほうら、あやふやでわないか!と、さらに声は大きくなる。

そんなこたあ、どうでもいいのである。
そんなこたあ、帯津ワールドの中でわ、お釈迦様の掌の中の事でしかない。
そうなのだ。仮にどんなに立派な患者会が束になって帯津批判をしたところで、帯津先生の帯津先生たるすげえとこは、びくともしない。

おいらは思うのだ。
なによりも帯津先生のすげえとこは、誰もがすぐ出来そうで、実わ、誰もそれが出来ない、すごくあたりまえで、すごく普通な思いのところなのだ。
帯津先生の凄いところわ、どんな患者さんにだってすべて平等に希望を与えてくれる、まさに、それに、そのことに、尽きるのだ。


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世にある立派ながんの患者会は素晴らしいと思う。
すべてのがん患者を救おうとして、それは在り、凄い人たちがいっぱいいる。
どんな深刻ながんにだって臆する事なく、見事生還した多くの人たちがその体験を惜しみなく語ってくれる。導いてくれる。あなただって、がんなんかで絶対死にません、がんなんかで死んじゃいけません、と。
がんになってよかった、がんになってそれまでの自分のいけないところを知り、がんになる以前よりもずっと素晴らしい健康と生活を手に入れた。そして、がんさん、有難う! 、と。

おいらは感動する。すげえって思う。
しかしながら、どうにもこうにもなりふり構わず素っ裸でそこへ飛び込んでしまいたいっ!と、いかないのである。

いかないひとつに、おいらは、どうしても、この、がんさん、有難う!ってとこが、自分自身でわだめなのだ。
勿論、そう本気で思える人はいっぱいいるのであって、おいら、決してそれを否定するものではない。
おいらには、そう思うことが、出来ない、ということだ。

おいらにはがんで死んじゃった大事な人がそこそこいる。
がんになったのがそいつのせいであろうがなかろうが、治療方針が違っていたのか、それがどうであろうが、なんであろうが、もうちっと、生きててもよかったのに、がんで死んじゃった。
単純だけど、がんにありがとう、は言えない。
もし、おいらがこの先、がんになった事で改心(笑)し、以前よりずっと健康になって、120歳まで生きたとしても、(ぷぷ。120歳まで生きたかないけど)やっぱ、だからといって、がんさん、有難う!とわ、絶対、思いたくないのである。
そして、極論として書いてしまうけれど、こおいうひねくれた考えをして、がんと闘うことを、立派な患者会では良しとしない。
果たして、良しとしないということはどおいうことかといえば、早い話がそんな考えでわ治らないぞ、ということである。
そして、治らない、死んでしまう、そおいうがん患者は教えを実践できなかった、とし、ある意味、実践できた勝者に対して、残念ながら、と、しながらも、あくまで敗者として位置づけられるのである。

なんだかこう、都合の良いハリウッド映画みたいな感じでわないか。
物語の途中で仲間がばたばた死んじゃって、最後に主人公と何人かが生き残って、ハッピー・エンド、みたいな。それって、ほんとに、ハッピーか?って、思う。


つづく (んかいっ!)


2006/11/30






◇思うのだけれど、凹みっ放しわ果たしていかがなものかと。
なんか、こお、きょいいいいぃい〜〜って、悔しいでわないか。

考えるまでもなく、凹むってのわ何か力が加わって起こる現象である。
でも、指を鉄筋あたりに、ちょいちょいと押したところで鉄筋わ凹むものでわない。
ならばと、むきになってぎゅうぎゅう押してみてもあれあれ、指こそ凹めど、鉄筋、どってことない。

軟式のテニスボールあたりだと、こりわ見事に凹む。
おいらのぷくぷくのおなかも、然りである。
だが、しかし。
ここが肝心。さあお立会いっ!

凹んだボールやぷくぷくおなかわ指を離せばぴよぴよんっ!と凸るのである。

小学校理科、力の作用・反作用『同じ大きさで向きは反対、一直線上ではたらく』だな。
勿論、鉄筋の場合とて同じように反作用の力は働いている。
ぺこぽこしないけど、ちゃあんと働いている。
そのように二つの力は同じ大きさで向きが反対で一直線上ではたらくけれど、この二つの力の関係わ必ずしもつりあう訳でわない、っちゅうこっちゃね。


*******



お病気のことで、まず、凹まないにこしたことわない。
外からの力なんかにびくともせず、ぽいぽいっと反作用の力で押し返してやれば良い。
だが、残念なことに、おいらは鉄筋みたいな質量の剛健なこころは持ち合わせていないようだ。
まあ、筋肉とて軟筋体質なへにょへにょおいらだ。
全身に気合を入れての筋肉硬直とて、もって一分。
そんなやわらやわら体質で53年。
いやはや、まったく、面目ない限りでござんす。


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そおいうことで、凹みわ、どうしても、やってくる。
鉄筋な心わ、気合を入れまくっての1分が限度!
ああ、ぷすぷすぷすす・・

凹むなあ〜。だ。

さあここで前記した小学校理科!!
軟球ボールとて空気が入っておらねばへにゅへにょへろと凹みっぱなし。
反作用はどうした?どこいった?反作用の出番なしか?ってなもんで、そんでおしまい。
実際にはボールの皮のゴムのその辺りで反作用してるんだろうけど、ぽよよよよよ〜〜んと跳ね返す力関係においてわ、なるほど、惨敗である。

おいらといえば、どうだろお?
果たして、空気は入っておらんのか?
惨敗か?

否。
とんでもない!


空気はしっかり入っているのだ!ばかやろお〜!
何が悲しゅうて凹みっぱなしでおらりょうか!

おいらわここまで誰よりもとわいわないけれど、ひといちばいがんばって仕事をして、生きてきた。そんでがんになって、ばかやろお!こんなところでがんなんかにへこまされっぱなしでわ、たまらない。
おいらにわまだまだ希望がいっぱい、詰まっているのだ。のだあ〜このやろお!

凹むにゃあそれなりワケがある。
そおしてやはり今回の凹みにもワケがある。
ここであれこれ言うことわ出来ないけれど、いくつかのワケがある。
そおいうあちこち外からの力に加え、駄目押しの検査数値の結果わ、見事にぺきょん、と、凹ましてくれた。
一時的に希望が、外圧で、押さえ込まれた形。

だが、おほほほほほほ
おいらの希望わおそらく、うたれ強い。
むかしっからそうだけど、嫌なことや嫌なことや嫌なことがあると(そりゃ嫌だ)ええい!ばかやろお!と、反作用の力がどっかから出てきて、次なる凸を形作る。
そこにわいつも決まって、なんらかの希望が在って、そして、おいらの勘違いでなければそりわ、そこそこ、ちゃあんと、いつも、実現されてきた。


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がんなんかに凹まされっぱなしでわ断じて、ない。
断じてないぞ!
おいらわ希望を持って、こうして、小学校理科、その反作用の力をも持って、こうして、生きているのだから。


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♪私は今日まで生きてみました
 私は今日まで生きてみました
 私は今日まで生きてみました
 私は今日まで生きてみました

 そして今 私は思っています
 明日からも
 こうして生きていくだろうと♪


          吉田拓郎



2006/11/28

やっぱ、凹むなあ。  がんになっちゃった




◇がん細胞の状態をチェックする腫瘍マーカーなるものがある。
血液の検査でそのマーカーの数値を調べ、ある程度の判断基準を出す。
もちろん、おおまかな判断基準であって、全てが完璧に反応するわけではないし、反応すべき場合でも数値が上がらないこともあるという。
個人個人の反応もかなり個体差があるようだが、おいらの場合、なんとかかんとかというマーカーがとてもよく反応するらしく、定期検査の時はこのチェックが欠かせないらしい。
このチェックに引っ掛かると、次の段階の精密検査にいくわけだ。
今回、これに引っ掛かってしまった。
ちぇ、である。

平常値は3.5以下。
今回の検査値は4.4だ。

がん関連の本を読めば川柳にまでなっている腫瘍マーカー値。
とにかくその数値はがん患者にとって一喜一憂、いや、まさに天国と地獄クラスの表現で
それらの本には記されている。

ううむう。これね、こんな感じね。
いや、まあ、確かに凹むわあ〜。


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先生曰く
「風邪引きさんの時は数値が10くらいまで上がる時があるのでなんともいえませんが、(おいらは一週間前の血液検査のとき、風邪引きさんであった。今もだけど)一応、転移しやすい脳のMRI検査と、PET検査(全身スキャンのがん検査用CTの親分みたいなもん。転移の検査にはなかなか有効)をやっときましょう」
てことになった。

PETは一回もやった事がないので実わ一寸興味はあるのだけれど、通常のがん検診と違って転移があるかないか?ってことに使われるとなると、そりわそりでなかなかエキサイティングである。

で、検査とて当日中に出来るものでもなく、明日MRIで明後日PET。結果は12月8日。
この待ってる間がね、嫌だね、実に。
ぴょぴょぴょって、なんとかならんかって思うんだけど、どうもね、これが、ほんと、嫌だ。

おいら的には風邪引きさんだったし、大丈夫なはずなんだけど、やっぱ、ね。

きっとこれからもこおいうことの繰り返しなんだろうなあ〜

そう思うと久々こころがちょっとばかし揺れ動いたりしたので、希望のあるタラバガニの足をオーダーしてみることにした。

ちょっとだけバターで食ったろ。ぷぷぷ




2006/11/1

がんと心と毎日と  さいご  がんになっちゃった



◇「検証・免疫信仰は危ない!」というくだらない本がある。副題は「がんビジネスの実態に迫る」だ。
実にくだらない本なので、そおいうくだらない本マニアにはおすすめだ。
第三章の「活性化リンパ球療法はがん患者に福音をもたらすか!?」に至ってわ、もう、くだらない大賞を差し上げたいほどだ。
だいたい、活性化リンパ球療法が通常医療として認められていないからという理由で、アガリクスやサメの軟骨の世界とひとくくりにひっくるめるんじゃねえよ。
自由診療ったって、ちゃんとした医師が行う医学的根拠のある治療である事には間違いないのだ。このやろお。
ひっくるめての「がんビジネスの実態に迫る」とわ何事だ。
ったく、こいつら、代替医療や自由診療に望むがん患者の本質の部分が、なあんもわかっていない。

この取材チームは例えば、「自由診療の医師が本当の意味でがん患者に真摯さを証明するには、まず、その治療の有効性についてデータを提出することだ」と、このように、ことあるごと、「がん患者が本当に望むものはやれ、データだ、やれ、権威のお墨付きだ」みたく勝手に決め付けている。

それが望むすべてであるわけがない。

さらには、自由診療のお医者の患者への接し方に安心感があるとし、さらに、がんに苦しむ患者に対する真摯な思いも随所で伝わり、とし、ただし、その事がイコール活性化リンパ球療法の優秀性を示す事にはならない。と結ぶ取材チーム。
あたりまえだ。イコール、示す事になるわけがない。
そんなこたあ、子供でもわかるわい。

がしかし、「その治療の有効性についてデータを提出することが、まず、自由診療の医師が本当の意味でがん患者に真摯さを証明すること」でわ、ない。
まさか、治療の有効性についてのデータをきっちり提出できていないことで、媚を売って、優しく接し、がんに苦しむ患者に対し真摯な思いを傾けているとでも思っているんじゃあるまいな、こいつらわ。

もちろん、有効性のデータがいらないという事ではないけれど。
でも、「まず」そこに、そこから、と、全ての焦点を持っていってしまうのであれば、現在の西洋医学が抱える「ダークサイド・オブ・がん治療」の轍を踏むだけである。

つい「自由診療以外の多くのお医者が、果たして、効くかどうかいまいちよく解らない有効性についての素晴らしいデータを得意満面に提出してくれるとし、ただし、その事がイコールがんに苦しむ患者への真摯な思いを示す事にはならない。」って言ってみたくなる。


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とにもかくにも、がん患者のおいらが常に、本当に、望むものは「希望」だ。
不確実な生に日々打ち勝つための、人の尊厳としての希望なのだ。
もちろん、病気が治るにこしたことはない。それが一番の希望だ。
でも、日々、がんに主体をコントロールされまいと、自分がこの病気の何たるかをコントロールするんだぞ、と、玄米を食べる、それもまた、立派な希望なのだ。

「玄米でがんが治ったエビデンスなんかないから無駄だ。」
「玄米を薦める医療者はまず、玄米の有効性のデータを。」と、件の取材チームはヒステリックに叫ぶに違いない。
代替医療や自由診療に望む、がん患者の本質の部分が、なあんもわかっていない。

通常医療として認められた抗がん剤のデータを持ってして、がん患者が本当に望む希望だ、とするのであれば、それこそは、あまりに人の尊厳を無視した稚拙極まりない判断だと、言わざるを得ないのである。

この本のくだらなさは”希望がない”まさしく、そこにある。


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一大イベントの手術が終わり、果たして、こころはそこから、まじまじとがんと対峙することになる。
がんという病気はここからが本当の始まりなのだ。
そして、振幅する距離感を感じながら、こころは、何度でも、練り混ぜられるがごとく、その姿を不変とはしない。

最近はそおいうものだな、と、思うようになった。
怖いことは怖いけど、かといって、怖くて怖くて一日中震え上がるものでもないし。
腹のそこから笑えることだって、一日に一回や二回ばかりでわないし。
ご飯だって毎食おいしいし、めだかの冬越しが気になって仕方がない。

再度、尊敬してやまぬエッセイスト、岸本葉子さんの言葉とおいらの想いを重ねるならば、『五年後の未来が、私にあるかはわからない。その保障を、医師や代替医療や心のケアに求めない。先がまだ続くことを祈りつつ、生命の導くままに進むのだ。』

そうなのだ。生命の導くままに進むのだ。
そして、どこかで、こころの希望をこぼしてしまわないよう。



    (おしまい)


2006/10/28

がんと心と毎日と  そのご  がんになっちゃった




◇よく聞く話。

若い時、50歳なんていったらもう、すっげえ大人で、おじいで、もう、どうもこうも、ないだろうって思ってたけど、実際、その歳になっちゃうとなんてことわなく、そこには『基本的』に若い時とあんまり変わらぬ自分がいるんだ、って話。

おいらも、まったく、そう思う。
で、その、『基本的』って部分が、多分、こころだと思ったりする。


********


思うに、歳を経て、ずうずうしくなったり、謙虚になったり、多少ややこしくなるのは、個人差なんかもあったりするんだろうけど、あれやこれ、無意識にせよ意識的にせよ、長く生きた分の知識や経験なんかに基いた技だったりするわけで、結局、こころは、そんな技を作り出すってとこも含めて、その辺りの核として、おそらくわ100年や200年ばかし生き永らえたとしても、なんら変わることはなさそうでわないか?

いろいろ衣をつけてみたけれど、所詮、コアな部分は昔のまんま。
たいしたもんじゃないのかも知れぬ。
なるほど、衣を突き抜けてのこころへダイレクトに届くようないちだいイベントが起きてしまえば、そりゃあもう、こころはゆさゆさゆさゆさ、ゆさぶられっぱなしなのも、納得かもなあ。

とにもかくにも、がんになったおいらは、はだかのこころの揺さぶりってやつを経験した。ような気がする。


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おいらの場合、がんの告知から手術まで、たった7日間。
7日間とはいえ、感情拒絶な、ある意味、安定の時を経て、しかし、揺れるこころは不安の渦にどっぷり飲み込まれたり、そしてまた、みょうにはじけたハイな世界を漂ったり、あっちの虚空、こっちの世界と、揺れを繰り返した。
それでも、渦に飲み込まれた後、そのまま溺れっぱなしでなかったのは、7日後の手術という確定的治療法が決まっていたためだろう。


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手術前のインフォームド・コンセント(お医者が病状や治療方針を分かりやすく説明し、患者の同意を得ること)では胸を開けてみないとわからない最悪の確率とか、辛い部分も説明されてしまうわけだが、それよりもなによりも、お医者先生やみんなと一緒になってがんに立ち向かっているんだっていう意識が高まっていく。
いともよわっちいこころが溺れから這い出てくる。
これが、実にいい。
高ぶる気持ちというか、なんていうか、この感触が、妙にはじけてハイになれるのだ。

じつわ、このパート→『お医者先生やみんなと一緒になってがんに立ち向かっているんだっていう意識が高まっていく』ってのが、この先、とても重要なこころのポイントになるわけなのだけれど。

いずれにせよ、エッセイスト、岸本葉子さんの言葉をお借りすれば、がんという病気の一番の特徴は「不確実性」だ。
「手術で治ったといえるのかどうか。処方されている薬で治るのかどうか。どのこと一つ取っても不確実性がつきまといます。」
心理的な面で、これほどまで簡潔にがんを語る言葉はないとおいらは思う。
そして、その不確実性の中で唯一、まさしく自己主体、不確実性を感じさせないイベントこそが、原発のがんをとる手術だったとおいらはあらためて思う。
もちろん、手術そのものを否定的に捉える患者さんもみえるわけで、皆がそうだというわけではない。
あくまで、おいらは、個人的にそうだった、という事だ。
だって、いくら、術後の再発、転移の可能性があるからといって、原発の手術は一旦、体の中の病巣を取り除く物理的な作業であって、それは自己主体でがんに対しはっきり攻撃に転じる数少ないイベントなのだもの。
掃除だって、どうせ汚れるから掃除はしない、という論理はない。
食事だって、どうせおなかすくから食べない、という論理はない。
掃除をして、綺麗な部屋で、おいしいものをおいしく食べて、それは、もう、絶対、希望ってもんだ。

自らの環境のステージが辛く哀しいものだとしても、いや、むしろそれは普通であって、ちっとも悲惨な事ではなく、それを否定せずきちんと意識して、そうすれば、こころは、希望を捉えるチャンスに大いに恵まれる。
がんという病気を持ってして、こころはこうありたいと思った。
そして、多くの、元気に闘うがん患者さんたちもおそらくはそうなんじゃないかと、おいらは勝手にそう思うのだった。



(がんと心と毎日と  さいごへ)









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