女性の先天性によるものかと思わせるような、自己中心的で野方図な主婦の実態があるが、マスコミも政治も世の男性も、彼女達をもてはやし、”年増こども”のまま安住させている。彼女達の醜態は、後天的な要素の方が強いともいえる。
たしかに男女は先天的なものが違う。男性の愛は外向きだが、女性の愛は内向きだ。男性のほうが論理性を司る左脳(機械脳)の能力が高いが、女性の方が直感力を司る右脳の能力が高い。男性の方が性交欲が強く、女性の方は生命防衛本能が強い。
古代からつい最近まで続いてきた”男は社会、女は家庭”という役割分担は、究極の人類の知恵かもしれないが、女性の社会進出という時代の流れを押し戻すことの是非は脇において、女性の決定力向上とともに繁殖した専業主婦に代表される”年増こども”がたれ流す、精神的退廃をいかに克服するかを考えたい。
”年増こども”は専業主婦だけの専売特許ではない。(専業主婦ではその傾向が顕著だが)我が国の総理大臣である小泉純一郎氏も典型的な”年増こども”といえなくはない。こうした日本全体の幼稚化は、”豊かさの代償”ともいわれている。
何故”豊か”だと”こども”のままでいられるのか?それは自我を制約する外界との戦いから逃げる手段も、豊かに手に入るからだと思う。
子供から大人への転換点は”コペルニクス的転換”といわれる。天動説から地動説への転換、つまり自分中心に世界が回っているのでなく、世界の一部として自分が存在するという世界観の転換である。
元来は日本人が得意な世界観である地動説であるが、いつしか自己保身の為に、天の動きに合わせるという事なかれ主義に変質し、地動説の自己中心バージョンというものにわい曲され、結果的に本質的なコペルニクス的転換というものができないままいい歳になる中高年女性が大量発生している。
今日の精神的退廃から脱却する道は、社会的影響力の強い女性達に、強制的なコペルニクス的転換を強いるしかないと思う。そのために彼女達を”差別”せず戦場に引きずり出すことだろう。豊かさの中で、育児からも家事からも嫁姑の確執からも解放され、上辺だけの友達付き合いという自由な時間を満喫している彼女達は、戦場からもっとも離れたところにいる。
自立した個の自意識に基づく、外界との戦いなくして、真のコペルニクス的転換は獲得できない。”孤立を恐れず連帯を求める”境地の果てに、人は自己愛を、普遍的な愛に昇華することができる。
戦前の日本人と現代の日本人の決定的違いはそこにあるのではないか。すこし前の日本は、男も女も、自意識を貫いて、生きる戦いと恒常的に直面していた。戦後的”事なかれ主義”の中では、本来の日本的”和”の境地には、永遠に到達できない。
敗戦という、祖父や祖母の世代が創った日本の挫折をかみしめ、剣の極意でいうところの”剣を使わずに相手に勝つ”をめざし、戦争を生き抜いた父や母の世代が、今日の日本の繁栄を築いてきた。哀しいかな、その努力の生んだ”豊かさ”が、後の世代に”豊かさにただ乗り”するだけで、戦いから逃避できる土壌を提供してしまった。
”豊かさにただ乗り”してきた僕達の罪は重い。
いまこそ、日本の歴史の中で、命を捧げてきた人々の思いに、立ち返るべき時だ。
事なかれ主義を捨て、あらゆる局面で、戦いを開始しよう。
”年増こども”の群れに、喧嘩を売ろう。
彼等が自己中心的な欲望の追求に安住できる限り、”年増こども”の自我は叩き潰せないのだ。叩き潰されてはじめて、生まれ変わることができるはず。自分の本当の位置を知ることで、本当の愛も知ることができるだろう。
その意味で、家庭や職場での、男の目的意識性が、今ほど問われている時はない。主婦の野方図な実態は、事なかれ主義に徹し、黙認してきた男によるところが多いと思う。
男尊女卑の社会では、戦いはすべて男の役割だった。男女同権の社会では女も戦わなければ、社会は堕落する。男が戦いを引き受けるだけなら、女は成長しない、どんどん戦いを共有するべきだと思う。
それを拒否するなら財布や権限を没収すればいい。別れるというならそれまでと放置すればいい。その時はじめて、彼女達は”自分の愚かさ、ごう慢さ”を見つめ直す機会を得ることができる。
相手の機嫌を伺うことを”やさしさ”と勘違いしている男性が多いが、本当の愛はぶつかり合いの先にか存在しないことを再認識するべきだと思う。それを拒否する相手なら、愛するに値しない存在だと思う。
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