1992年5月、私が鎌倉に住み始めた春だった。駅側から小町通に入り、2.3軒の古本屋を回りながら歩いていた。手に入れたばかりの何冊かの古本の中には、音楽評論家の吉田秀和全集の端本があった。
鶴ヶ岡八幡宮の池の畔の喫茶店で休もうと思った。すると、前方から、白い長髪の男と外国人女性が歩いてきた。音楽評論家吉田秀和夫妻だった。
毎週、彼の朝日新聞の「音楽展望」を愛読していた。NHK−FMの彼の番組を愛聴していた。70代中頃の二人は、寄り添うようにして歩いている。このような姿が、夫婦の理想だろうなと、普段感じない感覚を持った。
鎌倉の街には、かつて、文人、芸術家がたくさん住んでいた。しかし、私が住んでいた1990年代初頭は、次々とその人々が亡くなり、滅多に会うことはなかった。小林秀雄。渋澤龍彦、大佛次郎、川端康成、鏑木清方・・・。思い浮かぶだけで鎌倉に住んでいた作家、芸術家は何人もいる。近郊の葉山にいた堀田善衛や藤沢の阿部昭さえ亡くなったばかりだった。
吉田秀和の著作を読みながら、グールドを聴いた。「私の好きな曲」を参考にして、駅前の本屋の横にあるレコード店でピリスやポゴレビチなどの新しい人々のCDを手に入れた。なかなか、踏み込めなかったオペラの世界を教えてくれたのも吉田秀和だった。私のクラシック音楽への、大きな指針が彼だった。
彼は、2003年に奥さんを亡くした。高齢とはいえ、鎌倉で二人の姿を見たことのあった私はとても悲しい思いがした。FMの仕事は続けていたが、新聞の連載を、彼はぷっつりと止めた。妻を亡くした悲しみに彼は押しつぶされようとしているように思えた。
最近、以前の朝日新聞の連載が復活し続いている。つい2週間ほど前にNHKで「吉田秀和特集」が放映された。93才の彼は、妻の死から立ち直り、背を伸ばし、矍鑠としてインタビューに答え、鎌倉を歩いている。音楽への愛と仕事が彼を支えているようだった。
久しぶりに全集を開いた。音楽だけではなく、文学にも、美術にも造詣の深い彼は、エッセイを数多く書いている。その中に「伊藤整」というタイトルが見えた。
彼が少年の頃、父の仕事の関係で小樽に住んでいたことを知っている。なんと、80年も前の彼が小樽の中学生の頃、吉田秀和は、英語教師として伊藤整に会っていたのだった。詩を書きながら、上京し作家足らんとしていた若き伊藤整。二人はあの小樽で出会っていたのである。
伊藤整の仕事を、かつての先生として見守っていた彼は、その短い文章の最後で先生の仕事の最高傑作は「裁判」であるとしていた。「裁判」とは、ロレンスの問題作「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳者であった伊藤整が訴えられ、法廷での経緯を書いたものである。
吉田秀和は音楽という深い森へ、日本を代表する知性として、長い間、立ち向かってきた。そして、93才の今も、妻の死という大きな試練を乗り越えて、いまだに、立ち向かっている。

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