有島武郎という文学者を知ったのは、高校生の頃、「生まれ出ずる悩み」を読んだのが契機だった。
そこに現れる漁師画家のモデル木田金次郎の姿、岩内、ニセコアンヌプリ、広大な農場、羊蹄山・・・。高校生だった私には、同じ北海道とは思えない異国的で印象的な光景が心に残った。
当時、キリスト教に近づいていた私にとっては、有島が、札幌農学校時代にキリスト教と出会い、信仰に入り、そして社会主義的な方向に向かい棄教したことも気になることだった。
時代は違うとはいえ、1970年前後、社会は安保闘争や学生運動に大きく揺れ、一体自分はどのように生きたらよいのかという模索を、自分なりにせざるを得ない状況だった。
有島武郎は、キリスト教も社会主義も芸術も文学も、そしていくつかの女性との愛も、父の膨大な遺産を受け継いだ知的なブルジョワ作家が、人生の途上で少しだけ関心を示した遊びに過ぎなかったのだろうか。
いまだ、人生の途上で、社会へ一歩も踏み出していない少年にとっては、不可解な作家、それが有島武郎だった。
その後、東京へ住むようになってから、北海道への帰郷の際、ニセコ町の有島記念館を訪ねた。父が残した広大な農場の真ん中に建つ白亜の記念館・・。彼は何故小作人に農場を解放し、妻を亡くしたとはいえ、幼い3人の子を残し、人妻であった波多野秋子という女性と軽井沢で心中しなけれならなかったのか・・・。
私はまだ神奈川県に住んでいた頃、彼が波多野秋子と心中した軽井沢にある浄月庵に行った。北海道へ移り住んでから、札幌芸術の森に残された札幌時代に家族と住んだ家を見た。
有島武郎の遺構に、それぞれの苦悩は見え隠れするが、依然として謎は解けず、以前として有島は遠い過去の人にすぎなかった。
私にとっては、有島武郎は既に心離れた作家といってもよかった。目の前へ彼の影が行き来するか、明確な形をとって表れてこない。
しかし、2008年9月、滝川で行われた美術展で木田金次郎の岩内を描いたリンゴ園の絵を見た。力のこもった、木田金次郎にしか描け得ないものを強く感じた。
直後に、ずいぶん久しぶりに有島の木田金次郎をモデルとした「生まれいずる悩み」を読んだ。高校時代と変わりなく、作品に心を深く揺さぶられた。
久しぶりにニセコの有島記念館へ行きたいと思った。あそこへ行けば、何か、今まで分からなかったものにヒントが与えられるかも知れない。
2008年10月、私は函館への旅の途中、有島記念館へ立ち寄った。これで、訪問は3度目になるのだが、つい2年前に訪れた時には記念館の増設工事がおこなわれていて、入ることができなかった。つまり、館内を見るのは2度目であり、実に、30年ぶりということになる。
たくさんの興味深い展示の中で、ティルダ・ヘックというスイス人女性の写真が目に焼きついた。一人だけの肖像写真と、数人の若き青年たちとの記念写真もある。
有島武郎は20代中頃の1903年(明治36年)アメリカへ留学し3年を過ごした。その後、1906年(明治39年)9月にヨーロッパへ旅し、ナポリで弟生馬と合流、ともにイタリア各地を訪ね11月、スイスのシャフハウゼンに着いた。
29歳の時である。
その町で止宿した「白鳥ホテル」の娘が、その写真の女性ティルダ・ヘックだった。たった一週間の滞在だったが有島はティルダに深い愛情を感じ、彼女と別れた翌日の11月24日のミュンヘンから手紙を出し始める。
そして、二人の文通は有島が命閉じる前年の1922年まで、実に16年間にわたり二人の文通が続く。
私は、帰り際、受付で有島がティルダに出した書簡が収められている本を買った。今回読まなければ、一生読む機会を失う。そして、有島のことを深く理解せずに終わるだろうと思ったからである。
もし、その書簡を読むことによって、有島の人間性に私が失望し、文学者としての価値さえも信じられなくなることがあっても、それはそれでいい。一つの賭けだと思った。
ティルダの元へ、その後、一度も会うことなく終わったにもかかわらず、送り続けられた手紙を読んだ。若き頃の、やや押しつけがましい雰囲気は否めないにしても、遠い異国に住む女性へあてた一人の男のひとつの真実がそこにあった。
「1919年3月15日付
「私たちは心で結ばれました。私たちの友情はなんと純粋で、貴く、深いものでしょう。この世にこのような友情がまたとあるでしょうか!ティルダ!これを大切にしまっておきましょう。私の墓までこれを大切にもっていきましょう!」
丹念に読んでいくと、二人の間に流れていたのは友情ではない。国籍や宗教や距離を超えた愛だった。そうでなければ、二人の文通は途絶えたであろうし、英文の手紙は消滅し公開されることはなかっただろう。
有島の芸術家としての真摯な情熱が、ティルダの心を開いていったようにも思える。
ティルダからの書簡は、昭和二十年の戦災ですべて失われ、我々が読む機会は完全に失われている。ティルダは、その後、昭和12年(1937年)に来日、半年間日本へ滞在し、有島の墓や住んでいた家などを訪問した。
ティルダから有島に宛てた手紙の内容は、有島の文面から想像するしかない。婚約者のいたティルダは、理由は定かではないが婚約を破棄し、一生を独身で過ごした。有島の存在がティルダの一生をこうさせたとは言い切れないが、大きな影響を与えたことだけは確かである。
2008年秋の有島記念館で、私は、有島の波乱の人生で、もっとも美しく輝く「一つの愛」を心から感じ取ることができた。
旅の痕跡は、有島の「一つの愛」によって、今また私の魂に深く刻み込まれたように思う。

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