[...]能楽師が鏡を使って練習するという意味は、おのずとまた別の意味をもっています。能楽師の身体は、はじめから人に「見られる」身体です。どのような深淵な内面を備えていたとしても、それは見られることに耐えうるものであり、見られることがいつでも前提であるのです。
本来、見せてはならないが「たまたま見られた能」というものはありえません。
能楽の修行過程においても、鏡の効能は、武術のときと同様に身体に貢献します。しかし、武芸よりもさらに虚栄と近しい関係にあるのが能やダンスでしょう。
理想的には、ダンサーは、鏡に映る自分を見るという視線とともに長い生活をしますが、やがて練習のきびしさを経て、自分自身を見る視線は消え去り、自分の視線で観客の視線を代理させようとする機能が生まれることがあり、それはおそらく世阿弥のいう「離見
〔りけん〕」であるといっていいでしょう。この段階で鏡の問題は消えていきます。
舞に、目前心後〔もくぜんしんご〕と云事あり。「目を前に見て、心を後に置け」となり。(中略)
見所〔けんじょ〕より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼〔まなこ〕の見る所は、我見〔がけん〕也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、則、見所同心の見なり。其時は、我姿を見得〔けんとく〕する也。我姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれ共、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗〔しょく〕なるところを[わきまえず]。(『花鏡』より)
私なりに解説してみましょう。
舞において、目前心後ということがある。「目は前方を向いているが、心は自分の後ろにおけ」ということだ。(中略)
観客席から見られている自分の姿は、離れて人から見られている自分の姿、つまり離見なのだ。
これに対して、自分の目で自分を見ようとする意識は我見である。それは離見で見ているのではない。
離見で見るということは、観客と同じ意識で見るということである。このとき自分のほんとうの姿がわかるのだ。
その位に達すれば、目を正面に向けていながら、目を動かすことなく意識を左右前後に向けることができる、つまり自由自在に自分を見ることもできるのだ。しかし、多くの役者は目を前にすえて、左右は見ることはできても、自分の後ろ姿まで見ることができる段階には達していない。
自分の後ろ姿を知らなければ、身体の俗の部分は自覚できないのだ。
(梅若猶彦『能楽への招待』)