ASLSP―As SLow aS Possible。ジョン・ケージ1985年の曲。演奏時間が世界一長い曲と言われている(639年かかる)。ASLSP(アスレスプ)は、状況に左右されない長いスパンの思考と運動神経を身に付けるための、芸術を中心とした議論/活動の場。
2008/4/13
「通路からのジャンプ。」
会に不参加だったのですが、
コメントしてみます。
川俣氏の「通路」を通った後、アートレスを読みました。
そこからジャンプしたものをあげます。
1.トニオ・クレエゲル/トオマス・マン
芸術家(詩人)であるトニオは、一般に対する憧憬があり、
詩よりも、早取写真のついた馬の本を読むほうがずっと好きだというような人たち、精神を必要としない人たちに、恋している。
そして彼の判断するところの、芸術に片足を突っ込んだような人たちを軽蔑する。
パーティーで。自作の詩を披露する将校を心底軽蔑する。
(トニオは「超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ、その人間的なことを演じたりもてあそんだり、効果をもって趣味をもって表現したりすることはできもしない」と考えているので。)
けれど友人に、あなたは単に俗人であるだけなのだと一蹴される。
「常識」は「わけのわからないもの」を排除する。
一方で「難解な美術が持っているかもしれない一般的な人たちには理解できない感性」という特殊性は特権化される。
川俣氏が、社会的使命を持つアーティストのことを否定的に考えているのだとしても、公共の場での表現行為自体社会的であるために、かえって、常識も、特殊性も強化され、強化された結果、社会的使命に見えてしまうように思う。
それは高嶋君のレポートにあった、思想があるゆえに一面的であることは免れ得ない、に繋がると思った。
しかし。自分が向かっていると信じていたところに、じつはいなかった、むしろ全く反対だった!
2.ラカンはこう読め!/スラヴォイ・ジジェク
「他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはならない、ということを意味する。」
対してアートレスでは、
「パブリックな場で個人の行為がある程度尊重されるということは、人間関係においてある意味で余裕を持った人たちの、他人に対する対応や受け入れ方のことなのではないだろうか。」
他者から自分に向かうベクトルと、自分から他者に向かうベクトルが同じ幅を持つものだとすると、川俣氏の許容レベルはひろい。
川俣氏は人の接近を受け入れられるし、パブリックな場で個人の表現行為を行える。
でも、人によってその閾値は異なるわけなので、パブリックな場での個人の表現行為に対して許容できない人もいるだろう。
ジジェクは映画『カサブランカ』を例にあげて、1930年台・40年台のヘイズ・コード(映画制作倫理規定)を肯定する。
『カサブランカ』は、「同じ映画館で並んですわっている二人の観客、すなわち『素朴な』観客と『すれっからしの』観客に、それぞれ別々の快楽を与え、両方をそれぞれ満足させられるように、入念に組み立てられている」。
「法が関心を寄せるのは外観を保つということであり、公共領域を侵害しない限り、観客は自由に自分の空想に耽ってかまわないのである。」
「抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。」
こんな例もあった。
ある子どもが日曜日の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。
父親が子どもに与えるメッセージ、2通り。
(1)「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい。」
(2)「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろ?でも無理にいけとはいわないよ、本当に行きたいのでなければ、行かなくてもいいぞ。」
さて。
(1)はしたくないことをしなければならないわけだが、内的な自由や反抗する力を取っておくことができる。
(2)は自由選択という見かけの下に、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志に基づいて実行しろという暗黙の命令が含まれる。何をすべきかだけでなく、何を欲するべきかをも指示する。
自由における不自由さ。
3.カンバセイション・ピース/保坂和志
「通路」のカフェで行われていた会議や、ASLSPのことを考えてみたときに、小説「カンバセイション・ピース」のことを思った。
「通路」における意見交換の場は、自由を求めながらも、強迫観念的に見えなくもなかった。
面白いことをしなければならないというような。
カンバセイション・ピースの話をしようと思ったのだけど、
やっぱり、短編「夢のあと」から。
「なんかさあ、『夢のあとみたい』とか言っちゃうと、それで、何か言ったような気になっちゃうけどさあ。
でも、本当はそういうのって、何も言ってないのと同じことじゃない」
そう言われてしまうと確かにそうなのかもしれないと思って、変な言葉だけど、ぼくも自分の見てきたものに対して誠実じゃなかったと思った。
そうなると今見てきた、もうじき取り壊される幼稚園や、その中で積み上げられていた嘘みたいに小さかった椅子や、何にもなくなっていた子どもたちの部屋なんかをうまく言える言葉が全然なくなってしまって、笠井さんはどうなんだろうというようなことを訊いてみると、笠井さんは、
「わかんない」
と、ぶっきらぼうに答えて、そこで一度笑ってから、
「はじめての経験だから、表現のしようがないよ」
と言って、れい子とぼくを見てもう一度笑った。
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