私が元気なうちに両親の事を書き残したいと思い、今回は父、お父ちゃんの事を書きます。
私は4人兄弟の末っ子、上3人は戦中生まれです。
私は終戦後、疎開先の高山でクリクリとした目をして元気に生まれたそうです。
お父ちゃんは手先が器用だったので木工の仕事に就いたのですが、家族6人が母の実家に頼っていてはいけないと考え、単身名古屋に出稼ぎのようにして出て行っていました。
3年ほどして仕事も見つかり、住まいも確保できたから全員名古屋に出てくるように連絡があったそうです。
その時のことはまだ記憶にありませんが、幼稚園(1年保育)に行く頃からはかなりの事を覚えています。
日曜日は朝から庭を開拓して畑にした所に野菜を作り、時間があれば遊んでくれました。
お酒が好きで良く飲みすぎて母に叱られていた事も・・・・。
春は花見を兼ねて東山動物園に・・・夏は内海の海の家で仕事仲間の家族と海水浴。
お父ちゃんたちは1泊して帰り私達家族は2泊して帰るのが決まりでした。
秋は紅葉狩り・・そしてお正月と聞いただけでも楽しい1年です。
お父ちゃんには仕事仲間が沢山いるな〜・・・といつも思っていたのですが、小学校3年生になった時、近所の人に「あんたのお父ちゃんは肥汲みしてるんだね〜。」と意地悪っぽく言われました。
家に帰ってお母ちゃんに聞きましたが「そんな事どうでもいいから・・・。」と言うだけでした。
夜、お父ちゃんが帰ってきて聞いたのですが「お父ちゃんは一生懸命に働いて居るんだ。人のことは気にするな。」と言っただけ。
3年生の私はただ・・・恥ずかしい気持ちだけが残ったのです。
そして3年生の秋には借家だった家からバスで30分位離れた新興住宅地に家を建てて引越しをしました。
そのときも思ったのですが、沢山の仕事仲間が家を建てるのも、引越しも手伝ってくれた事も不思議だったのでした。
自分の家が出来たお父ちゃんはかねてからの夢で、「庭には池を作るんだ!」と言ってセメントで岩を入れ込んで池を作り、金魚や鯉を放して上機嫌でした。
ところがセメントのアクを計算していなかったのか?ことごとく魚は死んでしまいます。
そんな失敗を何度も繰り返しては家族に笑われる事もしばしば・・・。
私が5年生になったある日、お父ちゃんとお母ちゃんの銀婚式がありました。
その時にも考えられない人たちが集まって祝ってくれたのです。
それから疎開していた時に何かと世話になった人や、その人の知り合いなどなど、今で言うホームステイかな?下宿屋の如く入れ替わり立ち代わり面倒を見るのです。
当然お金などもらわず家族同様に暮らしていました。
結局、田舎から名古屋に仕事を求めてくる人のお世話をしていたのでした。
そんな私も中学3年生になった時、お父ちゃんがニコニコして話してくれました。
「お前達にもお父ちゃんの仕事の事で嫌な思いをさせたが、仕事を変わる時がきた。あの仕事も、戦後は名古屋市の職員として求人があって、いわば地方公務員だったんだ。でも誰も好んでする事ではなかったがお父ちゃんはお前達に貧しい暮らしはさせたくなかった。今のお前ならこの話がわかるだろう?職場の皆も同じ悩みを持ってお互い助け合って生きてきたんだ。これからはいいぞ!青柳ういろうと言う食品会社の営繕担当だからな。」と。
それ以上多くは語りませんでしたが、充分にお父ちゃんの言おうとした事は理解できました。
それから80歳まで営繕の仕事に就いていたのですが、戦争の体験も話してくれたり、私が産まれる時のことも話してくれたり、楽しい日々でした。
お母ちゃんは60歳の誕生日を迎えることなく他界しましたので残りの人生は淋しそうでした。
色々なことを教えて言ってくれたお父ちゃん・・・私は誇りに思うし大好きですが、同じ兄弟でも考え方が違うのは何だか淋しい気がします。
考え方が違う訳はきっと戦争の後遺症だと思うのです。
私も結婚をしてそれぞれの道を歩き出したのですが「人の傷みの判る人間になれ、人を差別してはいけない。」のお父ちゃんの言葉をいつも頭にいれ頑張ってきました。
それでも言葉の行き違いなどで誤解されたりする事も多々あります。
おとうちゃん・・・間違った方向に行かないようにちゃんと見ててねと夜空の星に語りかける私です。

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