2004年8月からアメリカ・インディアナ州ブルーミントンにあるインディアナ大学にて経営学修士大学院(MBA)に通っています。大学生活を中心にアメリカでの生活を通じて日々感じたことを綴ったブログです。
2006/5/7
昨日(2006年5月5日)、29歳の誕生日と同時に卒業式を迎えました。午前に自分の卒業式とレセプション、午後に主人の卒業式とレセプションがあり、私の両親も二泊三日の強硬スケジュールで来てくれたので、バタバタして昨日1日が過ぎました。今日両親も帰国し、少しずつ「本当に2年間の学生生活が終わってしまったんだ」という実感がわいてきました。
この2年間、まだ振り返るには頭の整理も出来ていないですが、自分の人生でとっても貴重な2年間だったと思います。
2年前、ちょうどケリーに入学することを決めた時は、なぜ自分が大枚を叩いて大学院に進学するのか、確固たる理由は何もありませんでした。ただ、主人と一緒に居たかった、できれば子供を作りたかった、仕事を辞めるのが怖かった、2年後に帰国してもなんとか就職できるようにしたかった、主人が勉強するなら私も何かしてみたかった、アメリカの大学に行ってみたかった、人に説明して「かっこいい」と思われる理由が欲しかった、、、そんないろんな気持ちの塊がMBAという選択になりました。そして幸運にも主人と同じ大学から合格通知をもらい、自分でもどうしてそういう結果になったのか分からないままにインディアナ大学に進学することになりました。
そして今になって結果的に思うのは、この2年間で自分が支払った学費とは比べ物にならないくらいのものが与えられたと感じます。授業での知識は残念ながらすでに半分位忘れてしまったかもしれないけれど、新たに出来た世界中の友達と交わした議論、日本では過ごせないような主人との時間(食後のお散歩や週末のフリスビー)、自分に対する自信、日本人としての自覚、頑張ることの大事さなど、今後の自分を支える色々な新しい価値観がこの2年間で形成されたと思います。自分では日々毎日必死に過ごしていただけで、あまり何をしていたか振り返る時間もなかったけれど、目の前のことを必死に誠心誠意行っていけば、結果は自然とついてくることに気付かされる2年間でした。
日本からわざわざ来てくれた両親に「忙しいのに来てくれてありがとう」と言うのが恥ずかしくて、ついつい子供染みて甘えて過ごしてしまったりと成長できていない部分も大いにあるけれど、それでも少しは大人になれた2年間だったような気がします。
6月1日に帰国することが決まったのでブルーミントン生活はあと数週間、帰国までに再度この2年間を振り返ることができればと思うけれど、まずは2年間を振り返ってみました。


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2006/4/19
ようやく引越の日程も大体決まり、インディアナ生活も残すところ1ヶ月ちょっととなった。と言っても忙しいわけでもなく、唯一履修している科目も授業の1時間前に予習するのみで、全然勉強してない・・・(まずいっ)。その代わりに何をしているのかというと、読書(含漫画)。。。
最近読んでよかった本:「国家の品格」、松下幸之助の「若さに贈る」、里中満智子の漫画「天上の虹(持統天皇物語)」。そしてその3冊に共通する言葉が「日本人」。
私は日本人として生まれ、自分の国や文化に誇りを持っている(はず)。一方で、どこかアメリカかぶれだったり、アメリカびいきになってしまっている自分も居る。「自由・平等」がやっぱり一番すばらしいのじゃないかと思うことも多いし、日本的な縦社会よりもアメリカの個人主義のほうが、個人が尊重されている社会なような気がしたりする。
でもこれらの本を読んで、日本には日本なりのすばらしい考え方や文化があることを改めて痛感させられた。そして、ふと周りを見渡して気づいたことは、他の留学生がいつも自分の国の話をしているように、私もちゃんと自分の国のことやその文化を学んで伝えていかないといけないと思った。
日本の考え方としてユニークだと思うこと。ひとつに「分をわきまえる」こと。そして二つに「文化を重んじること」。
「分をわきまえる」飛鳥時代の一夫多妻の世界では、正妻には正妻の、皇族出身には皇族の、豪族には豪族の立ち居振る舞いというのが、江戸時代だって士農工商それぞれの、そして今でも年齢、役職等によって「とるべき態度」というのが暗黙のうちで決められている。勿論、たまたまその家庭に生まれただけで子供の生き方が決まってしまうとしたらそれは問題かもしれないけど、それでも自分が社会の中で果たすべき役割を自覚して、その役割を務めるべく振舞うということは重要だと思う。一方でアメリカの提唱する「自由」や「平等」は人に希望を与えるためにはなくてはならない考え方だ。ただ、「平等」と叫べば叫ぶほど、「平等」の定義が分からなくなる。共産主義だって富の分配という考え方に則れば「平等」だし、アメリカみたいに貧富の差が大きくても機会が均等に与えられることが前提であれば「平等」と言える。「自由」だって「個人が勝手に何かをする自由」なんていうのは認められないわけで、その言葉を過信しすぎたら社会が機能しなくなる。だからこそ、社会の中で自分がどういう役割を担うべきか(担いたいか)をちゃんと自覚して、その役割に適うように振舞うようなことが、意外と大事なのじゃないかな、と思ったりする。
「文化を重んじる」唐が栄華を誇っていた時に、日本人は積極的に唐から色々なことを学んだけれど、それと同時に自国の文化、特に自国のことば、自国の詩を重んじることを忘れなかった。1500年前に「国際化」の最初の波が日本に来た時に日本のことばが確立し、後世に残る詩集が編集され、日本文化が開花したけど、1500年経った今、私たちは「国際化」を「英語教育」と勘違いして、自国の言葉・自国の文化を守ることに大きな注意を払いきれていない。勿論、飛鳥時代のように海外の情報や技術に目を向けて、必要なことはどんどん取り入れるべきだと思う。だけど、それが日本にしかない貴重なことば、文化を軽んじることにつながるのであれば、それと引き換えにすべきではないような気がする。日本人が日本語を忘れたら、日本的な考え方や文化を忘れてしまう可能性がある。そういう意味でも「ことば」の持つ重要性をもっと認識することは大事だと思う。
と立派なことを書いたけど、アメリカに来るまで、恥ずかしながら「日本人」として「日本」のことを考えることは一度もなかった。でも周りの留学生もアメリカ人も誰だって自分の国を誇りに思い、大切にしていることを目の当たりにし、日本人が日本のことを大事に思えなければ、国として恥ずかしいと思うにようになった。日本に帰っても、自分が日本人であること、日本人として日本の文化を伝承すべく役割があること、そして日本人として日本人のためにまた世界のために日本をさらに「すばらしい」と誇れる国にすべきことをもっと自覚しないといけないと思う。
今晩の私の課題図書は「菊と刀」と「天上の虹8巻(天武天皇の時代)」。勿論、もっと読まなきゃいけない英語の本や教科書も沢山あるけど・・・・。

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2006/4/1
すっかり更新がおろそかに。。。何を隠そう今学期は2科目しか履修していないので、先学期に比べると相当時間の余裕がある(はず)。だけど、朝寝坊、テレビ、読書、長風呂、おしゃべりなどと言ったものに時間をとられて、全然時間に余裕がある気がしない。しかも、「忙しければよく働くが、暇になるとだらけるタイプ」であることも影響して、出来た時間でやれること(ブログとか?)が沢山あるはずなのに、結局はソファーでごろごろしている時間が増えただけみたい。
今学期とっている授業でのチーム、おそらく学校に入ってから初めて「色んな人種」がバランスよくとれたチームになった。白人2名、黒人1名、ヒスパニック1名、アジア人(私)が1名。授業をとっている人が少ないから自然とそうなっただけだけど・・・。ちなみに(私は色々な人とチームを組むことが多かったので例外かもしれないが)、一般的には「白人が多いチーム」、「黒人が多いチーム」、「留学生や特定の人種が多いチーム」と人種によってチーム構成がなされることが多い。
白人が白人、黒人が黒人、留学生が留学生と人種別にグループが構成されることは、自然なことだと思う。似ている人のほうが仲良くなりやすいし、理解しやすい。しかも、考えていることが似ていることが多いから、会話もしやすいし、議論の方向性だって「自分が思っている方向」に誘導することも簡単だ。結果的には短時間で満場一致でみんなが満足度が高い結論になりやすく、効率的と言えるかもしれない。実際に一度も試したことはないけれど、もし日本人だけでチームを組んだら、非常に短時間で自分の思惑に近い結論のレポートなりが書けるような気がするし・・・。
一方で、今回のように違う人種なり考え方が違う人の集まりの場合、そもそも「何を議論すべきか」という大きい前提から議論することになるし、自分の考えを説明してもなかなか理解してもらえないこともある。もちろん「人種だけ」の問題じゃないのだろうけど、まどろっこしいと感じたり、結果的に全員の意見を聞いて方向性を定めるのが難しく、折衷案の結論に不満を感じることだってある。他の人が突飛なことを言い出して「何突拍子もないことを。。。もっと違うことに時間を割こうよ」とイライラすることだってある。だけど、一方で「そんな発想私にはなかったな」と刺激を受けることもあるし、自分が平凡なことを言ったつもりが周りの興味を引き立てることもある。コミュニケーションがスムーズに進まない分だけ、自分の意見をしっかり言う努力が必要で、結果的に自分がなぜそう考えるのかを掘り下げて考えるきっかけになる。そして、自分の意見を押し通すことだけが正しいことではないことを再認識する。
世の中で言われている「ダイバシーティー」とかという言葉の意味というのはきっとこういう効用を表しているのだと思う。違うことを考える人たちが共同で何かをすることで、個々人の見識や力を培うことにもなり、総体としての価値も高めるということなんだろう。。。
一方で、最近我が友人と話していて感じていることもある。その彼は日系アメリカ人で、最近お父さんと将来(結婚とか?)の話をしていて「血を混ぜるな」と言われたという。この場合の「血」というのは、いわゆる「血統」なり「人種」とかを表す言葉で、「血を混ぜない」という言葉どおり、多くの人は自分と同じ国籍・人種と結婚して子供を産む。もちろん「出会いの場」が限られているから結果的にそうなるのも確かだけど、アメリカのように多種多様の人種が居る世界でも、やはり白人は白人と、黒人は黒人と結婚することが多い。
社会的な場所(会社など)では、「ダイバシーティー」という言葉を用いて、社会的に人種が交わることが提唱されることが多いけれど、個々人の生活を見てみると、人種交流というのは実際には多く見られる現象ではない。そして、それは「種の保存」という概念が動物としての人間に本能的に、生理的に備わっていることから来るのではないかと思う。
「ダイバーシティー」という言葉が存在する前提には「違う人がいる」ということが在る。もちろん、結婚などは個人がどうしたいかによって決めればよいことなので、人種を超えた/国籍を超えた結婚を否定するわけではないけれど、結果的に似たような人と出会い、惹かれあい、一緒になるというような動物的なシステムはなくてはならないもののような気もする。
日本人なら日本人と結婚すべきだ、という狭い考え持つわけではないが、「血を混ぜるな」といった友人の父の気持ちの裏には、長い歴史の中で引き継がれた「何か(人種特有の性質だったり文化だったり)」を今後も引き継ぎ、それを元に自らのアイデンティティーを確立し、社会的な人との交わりの中で大きな価値をもたらして欲しい、という思いも込められているような気がした。

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2006/3/11
今日は本を2冊読んで、映画を1本見て、テレビを3時間くらい見て過ごした。ちょっと頭が一杯だけど、こんな日も悪くない(ちなみに映画は「Failure to Launch]というサラ・ジェシカ・パーカーの軽い映画。映画館の前のおばさんが開始早々から面白くない画面も大爆笑してたから、つられて私もずいぶん笑ったけど、ビデオで借りて見たらきっと笑う時間が10分くらいの映画。読んだ本の1冊は司馬遼太郎と井上ひさしの対談で「日本人とは」みたいな本。頭の良い人の本はその思考に付いていくのが精一杯だったけど自分も賢くなったような気がする本。もう1冊は唯川恵の「永遠の途中」というので読み始めたら一度読んだことがある本だと分かったけど面白くて読み進めたら現在午前4時)。
その中の唯川恵の本はちょっと考えさせられた。いつもなら、唯川恵とか林真理子の本などは読んでいる最中は「うん、うん」って思っても、読書自体は娯楽のひとつで、読み終わった後に自分の考えをめぐらすことは少ない。だけど、今回はちょっと違う。
本の主人公は2人の女性。たまたま会社の同期で同じ人を好きになったふたり。1人はその人と結婚して専業主婦になり、子供を設け、自分が幸せだと思っているが、旦那の不倫、子供の成長などを経て、自分が何のために生きているのかが分からなくなり時にいたたまれない気持ちになる。もう1人は、会社で出世し、自分の会社も起こし、世間から「やり手女社長」になり、仕事に生きがいを見つけたと思っているものの、ふと自分以外に頼れる人がいないこと、自分を心配してくれる人がいないことに気づき寂しくなる。お互いのことを内心では憧れたり蔑んだりしながらも、見栄で「私は私の人生を生きているわ」という態度を取る2人。最後には「自分の人生はこれでよかったのよ。もう一度人生やり直すなんでめんどくさい」といって終わる。
別にこれを自分の人生に置き換えるつもりはないのだけど、@誰だって他の人の人生が羨ましくなり、A見栄を張っている意識はないけれど「私はこんな生活しています」とどこかで誰かに対して優越感に浸りたくなるものだと思う。私に例えて言えば、@の例なら「お金持ちと結婚して田園調布に一戸建てを建てた友達」、「子供が授かった同級生の奥さん、2人目が授かった友達」、「気立てが良くてかわいくて帰国子女でソニーに勤めて今はアメリカ勤務の友達」。Aなら「MBA」も「ちょっと英語が話せます」も「ロングコートが似合う身長」も「主人」も「年収アップ」も全てがそう。
だけど一方で、どこかで「自分がよければいいや」っていう気持ちもあるし、「万事思い通りにならなくても仕方ない」という気持ちもあると思う。諦めとか限界という言葉が適切化分からないけど、色んなことに対する諦めはついてきた。子供のことだけについては授からないことを想像するのは難しいけど、それ以外のこと・・・例えば「お金のことで苦労すること」だとか「自分がいつか死ぬこと」だとかは、もうどこかで受け入れている自分がいる。もちろん、だからって惰性的になるわけでもないけれど、人と比べてどうであるかよりも自分がそれでよいと思えるかが色んな価値基準になってきた。だから、英語がちょっと話せるかもしれないことよりも自分が納得するように話せるかが重要になったし、たとえ誰かに羨望のまなざしを向けることがあってもそれは嫉妬に近いものではなく純粋にその人の人生設計方法を祝福するような気持ちになる。そして「私は私で頑張ろう」という気持ちを高めるように意識するようになってきた。
実際にそんなにきれいに他人と比較せずに生きていけるわけでもないけど、自信と謙虚さが少し身についたせいか、自分で自分のペースを設定してそれに応じて進むことが少しできるようになってきた。

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2006/3/11
「MBAの価値」だとか「MBAとは」とかこの1年間で似たようなことを何度も考えてきた。多分「MBA」を特別視することもおかしいし、「MBAならではの価値」ということ自体を定義しようとすることも正しくないと思うけど、それでも私の中でこの2年間の意味を見出すとしたら、、、
「自信を持つこと」
「謙虚になること」
この2つだと思う。
多分多くの人がそれぞれの人生で似たようなことを経験すると思う。「自分はなぜ生きているのか」っていう疑問に始まり、「自分のアイデンティティー」を見出そうとして、色々な人と比較しては「自分はこの点で違う」と思ってみたり「自分は結局何も秀でていない」と寂しくなったり・・・。多かれ少なかれ、みんな人生「自分探し」に時間を充てて過ごしているんじゃないのかな?そして、人生のどこかのステップで自信を持ったり謙虚さを覚えていくのだと思う。多分たまたま私はここに来て、ほぼ初めてそれを経験しただけで。
私自身28年間生きてきて、自分について実は深く考えず過ごしてきた。よく分からないけど、周りと同じにしていれば楽しいと思ったし、頑張ることは「自分らしさ」よりも大切だと思った。どこかで答えが用意されているような気がして、何かを言うときも「正しい答え」に近い解を探すのに必死で、自分がどう考えているかを考えることもなかった。また、謙虚の本当の意味も分からなかったけど、「卑下」とか「謙遜」は美徳だと思った。それでも、時に自信過剰になって人を見下したりしたし、時に自信を喪失した。だけど次の日には自信過剰になったことも自信喪失したことも忘れるくらい、能天気に生きてきた。
アメリカに2年来ただけで、真剣に深刻に人生を生きるようになったわけでもないし、確固たる自分の考えが構築されたわけでもないと思う。だけど前よりずっとずっと自分に自信がついた。何か特別なことが出来ると思えるわけじゃないけど、自分が思っていることを言葉にすること、自分が言葉にしたことが正しければそれを説明しようと懸命になること、それが間違っていれば素直に非を認めることができるようになった。何かのプロと言えることな何もないけれど、頑張れば一通りのことが理解できる脳みそがついているということを確認できたし、だから頑張ってみようと思えるようになった。学校の人間関係なんて利害もないからたいしたことないかもしれないけど、真心込めて人に接すれば信頼されるだけの自分であることも分かったから誠意は忘れないようにと思った。間違いも沢山起こすけれど、自分が思ったとおりにすることの爽快感も感じるし、自分の頭と心を信じていこうと、自分をちょっぴり頼れるようになった。20年以上いつも親の顔色を伺っていた娘だったし、今だってやっぱり自分よりついつい主人のことを信じてしまうけど、それでもどこかで「もっと自分を信じてあげようよ」と思えるようになった。
一方で、自分の非力さも沢山学んだ。授業や友達との会話を通じて「あー、こんな発想もあったな」と自分も同じことを考えたはずだったのに至らなかった解を発見したときには自分の脳みその限界を感じた。一方で「これは私だけの発想だろう」と自信満々だったことが、実はみんな似たようなことを考えていたことに気づいて恥ずかしくなったり。深夜2時に翌日提出の宿題をチームで囲んでいて「どうせ宿題なんだから適当にしようよ」という一言をいつ言おうと思っているかという自分に情けなくなったり。「私は頑張っています」という面をしていながら、もっと頑張っている人が沢山いるんだということを感じて、「もっと頑張らなきゃ」と思う以上に「私は頑張りきれてないな」と自分の傲慢さを反省するようになった。そして「謙虚」というのは、自分を卑下したり謙遜したりという体裁上のものでもなく、自分自身を信じないことでもなく、自分が傲慢にならないことであることを感じた。そして謙虚さというのは、自分が正しく進むための「エンジンブレーキ(っていうのか忘れてしまったけど、車が下り坂で自動的に急加速しないように制御する装置のこと)」みたいなものなんだなーと思うようになれた。
多分、私はたまたまアメリカに来て周りの騒音(誰が結婚した、誰が妊娠した、会社の誰がどこに栄転した等)から離れて生活することで、自分自身にもっと集中することが出来たら、結果として人生28年目にしてこういう機会に恵まれたのだと思う。
でも「たまたま」以外の要因として、この2年間、自分を試すための沢山のハードルが用意されていたのも事実だと思う。自己主張が激しい人との英語での議論、学部の頃とは違う就職活動、授業中教授から突然投げかけられる「あなたの意見は?」という問い、日本人学生の奥様方との会話で突然ふっと沸き起こる「私はなぜ今いわゆる『奥様』として生きていないのか」という疑問、自分の力ではどうしようもなかった出来事。この2年間で遭遇したこれらのハードルを一つ一つ吟味して自分でどうすべきか考えていくことで、少し自信もついたし、前よりも謙虚になれた。
これから社会人として家庭人としてどう生きていくかは分からない。それでも「自信」と「謙虚さ」があれば、もっと堂々ともっと頑張れるのであると思える。そして、それらを分かるために、私が今ここにいるのであるとしたら、それは大いに意味があったと思える。

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2006/3/10
実は今週から春休み。といっても今週はGA(先生のアシスタント)で100人分の答案採点があったのでのんびりできるようになったのはここ2,3日のこと。主人は今週一杯授業があるので、私はひとりのんびり。で、こんな片田舎で何をしているかと言えば・・・。
ということで、ブルーミントンの余暇の過ごし方トップ5を発表!!
5位 家事
さすがに家事がたまっているので、洗濯・掃除をし始めると結構やることがある。我が家には計量カップも量りも電動ハンドミキサーもないけれど目分量でカボチャのプリンやらチーズケーキやらを焼いては食べてる始末。「アメリカのケーキよりカロリー低いもんね」ってあまり言い訳になってないけど・・・。もちろんお夕飯もバージョンアップ。主婦って結構大変だと痛感。1日の大半を「次のご飯何作ろうか」考えて過ごしているような気がする。
4位 買い物
これも面白くないけど、いつもは駆け足で通過しているスーパーを一列ずつ見ていって、メキシコフードコーナーで大好きなパイナップルジュースを発見したり。モールに行って新作の香水を試したり、手芸洋品店で絵の具セットを買ってみたり。。。スーパーで面白いお花を見つけたので、それを買ってアパートの庭に生えている木から葉っぱを少し拝借して生けてみたり。義母の誕生日カードを買って書いてみたり。1回の買い物額は5ドル以下で小さな買い物を沢山して楽しんでいる有閑・金無しマダム気分。。。
3位 運動
学校の施設で無料で使えるスポーツ施設(SRSC)がある。週に1回はそこに通うことを目標にしていたが実際は月に2回がせいぜいだった。無料のキックボクシングクラスなどもあるし、雑誌もテレビもあるし、結構快適。そこに行かなくても、天気が良ければ外を歩いたり、家で腹筋してみたり。
2位 おしゃれ
普段なかなか自分の手入れが出来ていない私。。。時間があるのでネットでお化粧の方法を検索して試してみたり、毛先がひどい状態の髪をトリートメントしてカーラーしてみたり。どこに行くのでもないけどスカートはいてみたり。主人が学校から帰ってくると、ちょっと驚いた顔して「今日はお化粧したんだ」って。いつも軽くはお化粧しているんですが・・・・。
1位 読書
実はここに来てからほぼ2年経つが、一度も大学の図書館に足を踏み入れたことがない(入ったことはあるが本を手に取ったことがない。授業の関連文献はネットで入手できるし・・・)。でも噂で「日本の本もある」と聞いていたので、初めて図書館8階の日本語コーナーと地下の雑誌コーナーに行ってみた。8階は日本史だの源氏物語全集などお堅い本が大半だが、新書も文庫も揃っているし、2005年第一版の本もたっくさん!漫画もサザエさんから美味しんぼまで全巻あるし。しかも院生は何冊でも(100冊とかでもOK)120日間借りられるという。さっそく林真理子と篠田節子の新刊とサザエさん2冊を借りて帰ってきた(1日半で全て読み終わってしまった)。地下の雑誌コーナーは、AERA、文芸春秋、家庭画報など結構私好みのものが!!これは借りられないので図書館で読んだが、日本の図書館顔負けのインディアナ大学図書館。侮れない!!
ちなみに、ブルーミントン図書館以外にも大型書店が2店あり、どちらもカフェが併設されていて、そこで本を立ち読み(座り読み)できる。昨日はそこでカフェオレ一杯2ドルで3時間くらい雑誌を読み漁っていた。
本当の1位は「昼寝」なんだろうけど。。日中はいい感じでソファーのところに日の光が入ってきて、これがとっても気持ち良いし、朝も主人を見送った後マーサステュワートの番組を見ながらソファーに横になったりするのも最高。この2年間結構バタバタ過ごしてきたから、これくらいさせてもらっても良いかなとダラダラ過ごしている春休みなのでした。

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2006/2/22
先日書いた「クラスギフト」についてはまだ波紋は大きいものの、今週は色々な人とその件について話ができたのでずいぶんすっきりした。
なんでもそうだけど、直に話すことの重要性を改めて感じる。
最近は特に電子メールが便利になったので、なんでもかんでもメールに頼りがち。「同じ言葉だから、話し言葉もメールでも同じだけのことが伝わるだろう」と錯覚しまいがち。でも、「非言語のコミュニケーション」が会話の7割を占めるというような話が嘘でないと思うのは、たとえ感情的になって言葉がうまく使えていなくても、顔を会わせて会話をするほうがずっとお互いのことを伝え合える。母国語の日本語のメールよりも、英語の話し合い(議論?)のほうがずっと自分が言いたいことが伝わったと思える。
メールは便利だけど、かなり一方通行の媒体だ。相手がどんな気持ちで読むかも分からなければ、コンピューターの字体に自分の感情を込めることは難しい。事務連絡ならメールのほうが便利だけど、本当の会話には心が伴うもの。メールには自分の心を十分に込めることはできないと思う。
と、そんなことを主人に話したら、主人が突然「そういえば、俺も前の職場でメールに頼りすぎちゃいけないなぁっていう教訓があったな」と話をし出した。実は結婚して5年、主人は職場の話(くだらない話は少しはしたが)をほとんどして来なかったので正直話を聞いて驚いた。いつも「俺は職場の話を家に持ち込みたくないし、○○の話を聞いているのが楽しいから」と私の話にいつも付き合ってくれていたので、いつも私が会話を独占していた。去年からの大学院生活においても「今日もあまり英語話してないよ」程度の話はあったけど、結局いつも私がどんな勉強をしたとか、チームメイトの誰が何をしないとか、そんなことを話してばかりいたような気がする(だから私の主人はMBAに通う他の日本人学生よりも私の大学の同級生に詳しいし、どの先生がどんな授業をしているかも全部知っている)。主人とはさすがにメールで会話はしないけど、毎日「会話」していたつもりでも私は全然彼の話を聞いていなかったなぁと反省。「面と向かって話す」だけじゃなくて「面と向かって聞く」ことも大事。

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2006/2/18
私たちの学校を含めて多くのビジネススクールでは卒業時に大学に寄付(クラスギフトと言う)をする慣習がある。日本なら入学時に半ば強制的に「寄付金」が取られていく仕組みだと思うが、我が大学では「あくまでも学生主導の寄付」という位置づけでありながら「目標は卒業生全員から1人平均$1,000の寄付を集めること」という若干矛盾した活動となっている。さらに、その寄付、今週までに全学生に『卒業後3年間で○ドル寄付します」という誓約書を回収する予定になっている。なぜこの活動が半ばむりやり推し進められているかというと、学校が寄付金を活動資金としてあてにしているだけだからではなく、このクラスギフトの参加率(何%の学生が寄付をする誓約書に同意したか)が卒業生の愛校心を計る基準として用いられ、他ビジネススクールとも比較されてその数値が学校のランキングなどに用いられるから。ただ、目的が先行しすぎて、本来の「寄付」という慈善活動が商用的なものと捕らえられてしまう風潮もあり、学生間で大きな議論が起きている。
このクラスギフト、上記に挙げた色々な背景や因果関係は抜きにして、単に「卒業生が学校に寄付をする行為」と解釈した場合、私はその趣旨に大きく賛同する。たとえ数百万円の学費を毎年払っていたとしても、この学校にお世話になったことは確かだし、就職が決まった今、「ありがとう」の気持ちを込めて自分にできるだけのことはしたいと思う。さらに我が大学が州立大学で他の有数の私立校と比べると運営資金が逼迫していることを考えたら、私の寄付で学校が良い教授を引っ張ってきたり、学校内の環境を整えたりして、さらに良いサービスを提供できるようになればよいと思っている。だから今学期から始めた1時間10ドルの教授のアシスタントバイトの収入計10万円をクラスギフトに充てても良いか主人にお伺いととったところ。彼も「趣旨がよく分からないけど、○○がそうしたいなら、○○が稼いだお金だし寄付したら」と言ってくれた。
かくゆう私、寄付に賛同するなんて公言したことは一回もないのだけど、友人が多いことが幸い(不幸?)にして「クラスギフト委員会」の委員になった。委員といっても、突然「おめでとう、あなたはクラスギフト委員に選ばれました」というメールを受け取り「あなたはこの○人を担当して、2月23日までに担当する人から誓約書を回収してください」と突然ノルマみたいなものを課せられるという、極めてわけが分からないもの。クラスギフト委員長が一生懸命やっている手前、協力することにしたが、「学生主導の活動」と言いつつクラスギフト委員長の後ろには学校の影が見え隠れしてしているし、何がどうなっているのか情報もないので、何を根拠に何をしてみんなから誓約書を回収して良いのかも分からない。だけど毎日「あなたの担当者はまだ誓約書を提出していません」というメールが送られてくるので、とりあえず私が「担当してる人」に授業であったら「よろしくお願いします」と頭を下げるのが私の日課。。。とりあえずクラスギフト委員として協力すると言った以上は、やるべきことを一生懸命やろうと思っている。そして、何とか学校のためにと、担当している人たちに「なぜ寄付をすべきか」「クラスギフトはどういうものか」わかっている情報に基づいて寄付をお願いしている。一方で、「担当」をしてる学生からは当然のことながら、沢山の文句が寄せられる。ファイナルウィークで宿題だけでもままならないのに、ここ24時間以内に5スクロールくらいの長いメールを10本以上受信し、クラスギフト関連のメールを20本近く送っているのだから、さすがの私もちょっと閉口気味・・・。
そのメールの内容の主なものは「みんなが喜んで寄付できるようにするのが委員の役割で、半強制的に寄付金を募るのは良くない」という意見や「もっとうまいやり方ああるだろうから新しいプロセスを提案する」といったようなもの。多くの意見、確かにまっとうだったりするけれど、みんな「学生主体の寄付」のはずなのにあたかも傍観者。もし本当にプロセス改善したいのならば、「私が委員なりこのクラスギフトキャンペーンの学校代表者に意見を上げるので、是非プロセス改善の指揮をとってみては?」というと「これはあなたたちの問題で私の問題ではない」と言う。結局は、すばらしい理想像を人に押し付けて自分で責任を取る気はさらさらない模様。
今回の件に限らず、会社や組織の中で似たようなことは多い。現状のやり方やシステムが完璧ではないけれど、なんとかその状況で目標を達成しないといけないこと(企業なら競合より良い製品ではないかもしれないものをなんとか売って経営資金を手に入れなきゃいけなかったり、政府なら現状の法律で物事を決めていったり)は数多くある。また、そのやり方が極めて良くても、すごく良くなくても、文句を言う人、すばらしい論理と理想に固められた意見を言う人は必ずいる(企業なら「それなら競合より良い製品を作れば良いのです」という人がいるかもしれないし、政府に対しては「新しい法律を作れば良い」と言う人もいるだろう。そもそも多くのマスメディアは傍観者として色々なことに口だけ出すのが仕事のようなものだし)。だけど、現実にはそんな理想に塗り固められた方式を採用する前にしなくてはいけないことも多い(企業なら「その製品開発費を捻出するために今はこの製品を売るしかない」のだろうし)。
私は時に立ち止まって、本来のあるべき姿を探求し、自分が納得し多くの人が賛同するものを追及していくことはとても大事だと思う。それが現実の社会でうまく形になるかは別であっても、自分たちが進むべき道を見定めること、理想を形にしようとすることは重要だと思う。また、文句であろうが褒美であろうが、他人の意見に耳を傾け、改善する努力をすることも欠かしてはいけないと思う。しかし、一度その方向性が決まってしまった以上は、決めた方向で最大のことをすることのほうがずっと大事だと思う。もちろん、「軌道修正」できるようにプランBを最初から作っていったり、時に振り返る余裕を持たせておくことも大事だろうけど、決まってしまったら「現状でなんとかしてみせる」という行動力のほうがきっと大事なのだ(ちなみに、先学期の授業で「戦略立案と戦略実行」のクラスでも「どんなすばらしい戦略を立案するよりも、どんなにダメな戦略をすばらしく実行するほうがずっと重要だ」というのがあったけどまさにそのとおりだと思う)。
私は自分が納得して色々なことができるのが理想系だとは思う。また、全ての人にも納得してもらえるように行動できるようにできるならそれに越したことはないと思う。でも、もし企業なり組織の一員として根本的な趣旨に賛同した上で「そのためにはこれをするしかないのだ」という状況であるならば、その現状でベストを尽くせる、なんとか頑張って行動に移せる人でありたい。口は達者じゃないけれど、手と足は人並み異常に仕事ができるほうが、口先だけの人よりも私はすごいと思う。

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2006/2/15
MBAで必要とされる資質のひとつに「論理的思考能力」というのがある。私ももちろん教科書上での「論理構造」とかは理解しているし、外面は良いのでチームミーティングなんかでは「論理的に話す」ことなどを心がけている。
でも、実際は主人曰く「屁理屈王」な上、「全く論理的ではない」。自分で自覚しているくらいだから、きっと本当にそうなのだ。さらに言えば、全くもって論理的でも科学的でもないことで結構気分が左右される性質でもある。
例えば、我が家の朝。私の朝は早起きの主人が優しく(?)起こしてくれることから始まるのだが、どうしてもベッドから起きたくない私は「夢の中でよいことが起きなかったからフテ寝する」と、突拍子もない理屈をこねてなんとか二度寝にありつこうとする。また、日本文化を知らないと時に主人に馬鹿にされる私ではあるが、茶柱を発見したらそれだけで嬉しいし、テレビで今日の運勢が悪いと「今日はもういいや」と朝からかなりげんなりする。さらに、「朝から赤い車を3台見たら今日はラッキー」という自分勝手な占いを作り出して「ラッキーデー」を増産している(そもそも駐車場だけで赤い車は3台以上あるし、学校までの道では前後左右全ての道を確認し、赤い車を3台発見するまでは校舎に入らないわけだから、100%の確立で私はラッキーになれる)。
多分、屁理屈とか非科学的なことに対する信仰(?)みたいなのは程度の差こそあれ、人間の性として誰もが兼ね備えていることだと思う。そしてそれは、論理とか科学なんてものどおりに動けない、完璧ではない人間のために絶対に必要な気持ちのような気がする。
実は最近私の周りは妊娠ラッシュ。学生時代の親友も、学校の同級生(の奥さん)もやたらめったら妊娠している。ついこの前までは、周りの人が妊娠すると聞くと、なんだか恨めしい気持ちになったけど(変な例えだけど商店街の福引で前の人が1個しかない金の玉が出ちゃったみたいな)、なぜか今は「あー、私もあやかれますように」ってすごく前向きに捕らえられる。学校で習った論理を使うと「妊娠は福引とは異なるので、周りの人が妊娠することと私が妊娠することの相関関係はない」ってな結論になるのだろうし、それをわざわざ言葉にしなくても頭では十分分かっているけれど、心のどこかでは「それでもやっぱりコウノトリさんが近くまで来てるんじゃないかな?」って思ってしまったりする。
妙な空想や願掛けに頼るつもりはない。人があきれる屁理屈で自分のわがままを押し通すのもよくないとも思う。でも頭では分かっているけれど、どこかでそうじゃない結論を導きたいとき、どんな形でも良いから前向きに生きていたいとき、そんな時に、他人には理解できないかもしれない非論理的・非科学的な考えに浸ることは、きっと私を含め誰もが持っている権利なような気がする。

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2006/2/1
先日の記事について誤解を招くような表現があったので訂正させていただきます(記事は削除しました)。
京大生3人が女性2人を強姦した事件について。
この事件に関わらず、似たような事件が頻発することは残念だし、今回の事件もやはり同じ女性としても憤りを感じます。被害者の女性にも少なからず非があったとは思いますが、加害者の男性が全面的に悪いと思います。なので事件を起こした人をかばったり女性を非難するつもりは毛頭ありません。
ただ、疑問点は「警察は加害者の男性が『女性を襲おうと思ったのか』を追及している(特に被害者が出ていない鍋パーティーにおいて「参加者の女性を襲おうと思ったか」を追求している)」と報道されていたことです。この事件については「襲おうと思った」=「計画的な犯行だったか」ということだと解釈すべきなので、誤解を防ぐためにも深追いをすることはしませんが、これをこの事件に直結させずに考えた場合、「〜したいと思う」ということを「計画」とみなしてよいのでしょうか?
私は「計画」とはある目的を達成するために物事を推し進めて最終目的を達成することだと思います。したがって、計画は最終目的を実現するための具体的・現実的なステップと考えられると思います。一方で、心の中で「〜したい」と思うことは単なる欲求・想像に過ぎず、「現実の世界」のものではないことが多いと思います。おそらく「計画」と「想像」の間にあるものが「意図」で、かなり具体的にその気持ちを実現しようと思っている状態と言えるのではないでしょうか。また、欲求はあるけれども実現させてはいけない場合に自分の心を制するものが「理性」だと思います。欲求が発端になって「計画を立てる」場合も多いと思いますが、「欲求」=「計画」ではないのは明らかだとも思います。
私も幼少期にお小遣いが足りなくて、母親のお財布からお金を抜き取ってしまおうかと思ったことは何度かあります。でも実際に盗みを働いたことはありません。
もし私が警察に「盗みを働こうと思ったことはあったか?」と聞かれたら「あります」と答えるかもしれません。実際に「盗もうと計画したこと」も「「盗んだこと」もないので、私は「シロ」のはずですが、「そう思ったこと」=「窃盗の意図があった」=「計画しようとした」と解釈されたら、私は「灰色」に近い色なるような気がします。従って「思うことと」「実現させるために計画すること」を区別することは非常に重要だと思うのです。それがたとえ「言葉の絢」というものだとしても、警察であっても誰であってもその人が「何を思っている/考えているか」ということを根拠にその人がどのような行動を取るかを類推するのは、時に正しくないと思うような気がするのです。
私が事件と私の考えを関連させたことは非常に良くなかったと思うのですが、この事件を全く考慮に入れないとしたら「〜したいと思う」ことは個人の自由なのではないでしょうか?誰が何を思おうと、それを行動に移さなければ(また考えたことを胸の内にしまっておけば)、それは誰にも邪魔されない領域なのではないでしょうか?
事件に関して言えば、強姦は明らかに犯罪で、それをさらに計画したのだとしたら罪は重いと思います。「強姦することを想像するのは自由だ」とは言えないですし、普通の人は普通の生活を送るためにも極端な想像をすべきではないとも思いますし、たとえ「想像の世界のこと」だとしても他人を蔑んだり罪を犯すことを想像する自分に羞恥心を感じる気持ちがあるべきだと思います。一方で誰が何を考えようと(考えるだけなら)自由なのも確かだと思います。
昨日の記事については、以上の点で説明不足だったな、と反省しています。
そして最後に、この事件については「このことを考えるきっかけ」になったので、その点説明をさせていただければと思います。そして同じような事件が再発しないようにと思っています。
問題を提起してくださった「るるさん」、ありがとうございました。
私自身が事件と考えとをいっしょくたにしてブログに書いたことは誤解を招いても致し方なかったと思いますし、そうでなかったとしても議論が分かれることなのかもしれませんが、まずは昨日きちんと説明できていなかった点について訂正・補足させていただきました。

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