2006/3/11
今日は本を2冊読んで、映画を1本見て、テレビを3時間くらい見て過ごした。ちょっと頭が一杯だけど、こんな日も悪くない(ちなみに映画は「Failure to Launch]というサラ・ジェシカ・パーカーの軽い映画。映画館の前のおばさんが開始早々から面白くない画面も大爆笑してたから、つられて私もずいぶん笑ったけど、ビデオで借りて見たらきっと笑う時間が10分くらいの映画。読んだ本の1冊は司馬遼太郎と井上ひさしの対談で「日本人とは」みたいな本。頭の良い人の本はその思考に付いていくのが精一杯だったけど自分も賢くなったような気がする本。もう1冊は唯川恵の「永遠の途中」というので読み始めたら一度読んだことがある本だと分かったけど面白くて読み進めたら現在午前4時)。
その中の唯川恵の本はちょっと考えさせられた。いつもなら、唯川恵とか林真理子の本などは読んでいる最中は「うん、うん」って思っても、読書自体は娯楽のひとつで、読み終わった後に自分の考えをめぐらすことは少ない。だけど、今回はちょっと違う。
本の主人公は2人の女性。たまたま会社の同期で同じ人を好きになったふたり。1人はその人と結婚して専業主婦になり、子供を設け、自分が幸せだと思っているが、旦那の不倫、子供の成長などを経て、自分が何のために生きているのかが分からなくなり時にいたたまれない気持ちになる。もう1人は、会社で出世し、自分の会社も起こし、世間から「やり手女社長」になり、仕事に生きがいを見つけたと思っているものの、ふと自分以外に頼れる人がいないこと、自分を心配してくれる人がいないことに気づき寂しくなる。お互いのことを内心では憧れたり蔑んだりしながらも、見栄で「私は私の人生を生きているわ」という態度を取る2人。最後には「自分の人生はこれでよかったのよ。もう一度人生やり直すなんでめんどくさい」といって終わる。
別にこれを自分の人生に置き換えるつもりはないのだけど、@誰だって他の人の人生が羨ましくなり、A見栄を張っている意識はないけれど「私はこんな生活しています」とどこかで誰かに対して優越感に浸りたくなるものだと思う。私に例えて言えば、@の例なら「お金持ちと結婚して田園調布に一戸建てを建てた友達」、「子供が授かった同級生の奥さん、2人目が授かった友達」、「気立てが良くてかわいくて帰国子女でソニーに勤めて今はアメリカ勤務の友達」。Aなら「MBA」も「ちょっと英語が話せます」も「ロングコートが似合う身長」も「主人」も「年収アップ」も全てがそう。
だけど一方で、どこかで「自分がよければいいや」っていう気持ちもあるし、「万事思い通りにならなくても仕方ない」という気持ちもあると思う。諦めとか限界という言葉が適切化分からないけど、色んなことに対する諦めはついてきた。子供のことだけについては授からないことを想像するのは難しいけど、それ以外のこと・・・例えば「お金のことで苦労すること」だとか「自分がいつか死ぬこと」だとかは、もうどこかで受け入れている自分がいる。もちろん、だからって惰性的になるわけでもないけれど、人と比べてどうであるかよりも自分がそれでよいと思えるかが色んな価値基準になってきた。だから、英語がちょっと話せるかもしれないことよりも自分が納得するように話せるかが重要になったし、たとえ誰かに羨望のまなざしを向けることがあってもそれは嫉妬に近いものではなく純粋にその人の人生設計方法を祝福するような気持ちになる。そして「私は私で頑張ろう」という気持ちを高めるように意識するようになってきた。
実際にそんなにきれいに他人と比較せずに生きていけるわけでもないけど、自信と謙虚さが少し身についたせいか、自分で自分のペースを設定してそれに応じて進むことが少しできるようになってきた。

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