ペリーが来航し、幕府首脳は大困り、時の老中筆頭、阿部正弘は、朝廷
親藩、譜代、外様関係なく、幅広く意見を求めました。と言うのも
前任の老中筆頭だったのが天保の改革を推し進めた水野忠邦で
独断専行のため、大失敗、その轍を踏まないように阿部正弘は
合議制を用いて事を穏便に進めようとしたようです。只、そんな
いろいろ意見を聞いてもひとつにまとまるはずもなく、外様を幕政に
関わらしたこと、朝廷に意見を求めたことなどから幕府の権威を
失墜させ、滅亡に導いたのは阿部正弘であるという学者もいます。
只、大奥や大名たちの調整役は群を抜いていて人望もあり、名君で
あったといわれています。領民たちに学問を身につかせようと
誠ノ館という藩校をたて、人材育成にも力を入れたようです。
しかし、1年を待たず、ペリーが再来航し、日米和親条約を締結、
下田と函館が開港した。条約を結ばなかったら日本はアメリカの
植民地になっていたでしょうか。・・・これはわかりません。
当時としては、仕方なかったかもしれません。
気苦労の多い阿部正弘、幕政につききりで、領国の福山藩は内情は
火の車だったようです。