どのチームにもエースプレイヤーは存在するものだ。
ミランのカカしかり、マンチェスター・UのC・ロナウドしかり。
彼らはチームの主役であり、チームの、そしてサポーターの期待を集める。
パスも自然と彼らに集まり、彼らはチームの中でも特別な存在となる。
そんな中でも、そのカリスマとチームの中での絶対的なプレーの質を持った選手はそのチームの「王様」と呼ばれ、監督及びチームは彼らを中心とした戦術を立てる。
守備の負担を限りなくゼロにし、彼らの稀有な攻撃力を存分に引き出してやろうとする。
プレーに自由を与えられた彼らは、その自由の中て自分を表現し、サポーターを魅了し、チームを勝利へと導く。
彼らはチームの中でも別格なのだ。
さて、そんな選手だが、代表格といえばやはりロナウジーニョだろう。
ドリブル、パス、シュート、どれを取っても世界トップクラスで、そのトリックプレーの数々は見る者を酔いしれさせる。
また、ボカのリケルメも美しいパスとフリーキックでチームの核となり、ミラン在籍時のシェフチェンコも世界最高のフィニッシャーとして得点を量産していた。
チームには欠かせないアンタッチャブルな存在。それこそがチームの王様と呼ばれる所以である。
さて、何人か「王様」と呼ばれたプレイヤーを紹介したわけだが、彼らの名前を見て気付いた方もいるだろう。
そう、彼らは最近、その「王様」たる輝きを失いつつあるということである。
ロナウジーニョはコンディション不良でティエリ・アンリやサミュエル・エトオ、果ては10才年下のボージャン・クルキッチにレギュラーの座を開け渡している。
リケルメはボカの王様として鳴り物入りしたビジャレアルでフィットせず、果ては戦力外通告を受けてボカに逆戻りをしている。
シェフチェンコもミランでバロンドール受賞後大金でチェルシー移籍も馴染まず、獲得を熱望したフロントも今は放出をやむなしと考えている。
彼らに共通する点は一つ。環境の変化に伴う自身の絶対性の欠如である。
ロナウジーニョは自分の創造的なプレーをエトオ、メッシのサポートによって可能にしていた。
しかしアーセナルの「王様」アンリの加入やメッシの台頭、ボージャンの加入によって、プレーに以前のような自由度が失われてしまった。
ロナウジーニョ自身も守備に参加しなくてはならなくなり、仲間を助けるプレーが必要となった。
メッシはもはや対等以上となり、サポートし合わなければならないレベルに達した。
これらの点がロナウジーニョから輝きを奪ってしまったのではないだろうか。
シェフチェンコとリケルメの場合は、理屈はもっと簡単である。
彼らが君臨したチーム−ミランとボカのことだが−では、攻撃の決め手は常に彼らであった。
パサーとフィニッシャーとして求められるものこそ違えど、攻撃時にはボールを回すときのファーストチョイスとして存在していたのが彼らである。
シェバ(シェフチェンコの愛称)に出せば決めてくれる。
リケルメに出せば決定機を作ってくれる。
そういった信頼の元、彼らにはパスが集まっていたのである。
しかし、彼らの移籍先はそうではなかった。
移籍前に勝ち取った信頼はなく、自身の絶対性もない。
あるのはチームを機能させるための責任と、仲間との連携を確立させる義務である。
仲間が彼に合わせるチームではなく、仲間がお互いにカバーし合うチームに変わったのだから当然といえば当然と言えよう。
だがプレースタイルというものは劇的に変化させられるものではない。
それゆえに彼らはチームに馴染めず、その類い稀なるスキルを半分も発揮できないのである。
「王様」もそれを支える「民」というチームメイトがいなければ成り立たないというわけだ。
さて、ここまで言うと「王様」なプレイヤーを批判しているように思えるかもしれない。
確かに私は連携の取れた、お互いを助け合うチームの方が好みではある。
しかしチームプレーに徹する選手には出せない「強さ」が彼らにはある。
その輝きは鮮やかで、目に焼き付けるに相応しいものだ。
そんな魅力が彼らにはある。
余談ではあるが、ロナウジーニョのミランへの移籍が決定しそうである。
今のバルサで居場所を失ったロナウジーニョが新天地を求める理屈も分かるし、反対でもない。
しかし今のミランはカカを中心としたチームの組織力がウリのチームである。
船に船頭が二人いても沈むのみ。
ロナウジーニョが王様扱いされるとは思えないのである。
あの誰もが魅了されたプレーをサンシーロで見るのは難しいだろう。
彼のためにも、どこか他の、中盤か前線で彼を自由にしてくれるクラブが獲得に名乗りを上げてくれないだろうか。
彼の魔法のようなプレーをまた見たいと望んでいるのは、私だけではないはずだ。

0