2016/4/12

チェリビダッケのブルックナー  指揮者


クリックすると元のサイズで表示します
a Universal Music UCCG-1033 CD 2001


欧州楽壇では所謂、頑固爺さんみたいな人が現在は居ないせいか、この世界に有り勝ちな厳格さや荘厳な感じが薄れてきたように感じる。そんな思いからか、巨匠逝去後にヴァントが注目を浴びたのも理解出来るが、経験がものを言うような職人タイプの指揮者も居なくなった。更に残念なのは存在で圧倒するような人物も居ない事だ。正に「巨匠の時代」の終焉だが、日本でも朝比奈隆のような人も居ない。それにこの手の音楽家は作る音楽も大きかったと思う。だからそれらの巨匠達が存命だった時代は可也夢中になってクラシック音楽を聴いていた人も現在では「なんか寂しい」と思ってる事だろう。現にレコード業界も振るわない。小生もそうだが結局、音楽鑑賞で利用する媒体は未だにアナログが中心なのだ。だからこのblogとてレコードの視聴記ばかりである。なんだか愚痴みたいな前振りだが、本当にそう思う。カラヤン、ベームの時代が懐かしい。此処ではチェリビダッケのブルックナーを取り上げるが、真のブルックナー・ファンとされる人からは意外と敬遠されている。それは聴けば一目瞭然だが、オーストリアの田舎者で素朴な作曲家の作品を「あまりにも磨きすぎないか?」と。そのチェリビダッケと言えば、生前は随分とカラヤンに対し、何処のドイツの新聞社の記事かは忘れたが、「彼が大衆を興奮させることは知っている。コカ・コーラのように」と評したのは有名だ。確かにあれ程にオーケストラの威力を示した指揮者は居ない。これは私見だが、カラヤンの音楽性は演奏効果に対して敏感な音楽家だったと思う。極度に磨かれた音楽が何よりもそれを証明しているではないか。カラヤンと言えばレガートレガートの連発で分厚い音の層で音楽を作った達人だ。それと似た指揮者にはカルロ・マリア・ジュリーニが居るが、この人のレガートは気持ちが悪かった。それこそカラヤンの二番煎じだが、名盤との評価の高い、シューベルトのグレイト交響曲なんぞは楽曲の美しさが過度なレガートで台無しになっている。だが名盤だ。そこに疑問がある。「作曲家はそこまで求めたか?」と。しかしながら此処まで話を伸ばして何だが、チェリビダッケのレガートもその対極にある。それこそ「西の横綱がカラヤンならば、南に居るチェリビダッケは大関か?」と言う事になる。なのでこの二人の巨匠の共通点は凝り性なのかなとも思う程だ。そこでチェリビダッケだが、レガートのデリカシーと言う点では恐らくカラヤンに勝ると小生は思っている。神経が透けて見える程のレガートはチェリビダッケならではだ。だからこのシュトゥトガルトで行われた放送楽団の演奏とて変わりない。曲はブルックナーの交響曲第3番ニ短調である。この演奏は嘗てNHK−FMでも聴いた。然もエアーチェックもしている。それがCD化されたので懐かしい演奏だ。1980年11月24日にリーダハレで行われたものだ。これはラジオ放送が目的のものなので当然、元マスターからでは音響バランスも違う。つまりプリレファンスをされていないバランスだ。だがそこにとやかく文句をつける批評家も居る。さて演奏だが、透けるようなレガートは満開だ。そこに好き嫌いが出るのも当然だが、その放送当時に聴いていた小生は、連続するレガートに「此処まで」と感心をしたものだ。それはあまりにも理屈っぽい巨匠の音楽性に感心をしたからだが、そこから録音が極端に少ない事を残念に思った。話は戻るが、このブルックナーは最終稿とされるものだ。処々に巨匠の掛け声が入る。それが巨匠のファンには堪らないと思う。だからスケルツォはそれで気合を入れている。その上、巨大な造型で質実剛健なのだ。結構肌合いの変わったブルックナーだが、嫌いではない。こんな文章でCDの紹介になっただろうか?

人気ブログランキングへ 

0

2016/3/14

バックハウスのベートーヴェン Part.3  器楽曲


クリックすると元のサイズで表示します
King-Londn(Decca) MZ 5003 LP 1969



鍵盤の獅子王ことウィルヘルム・バックハウスが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタである。尚、巨匠のレコードを御持ちの方は、御存知かも知れないが、英.Deccaには、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの全集が、モノーラルとステレオ録音双方に在る。此処では、旧全集であるモノーラル盤を紹介する。どちらが良いかは、個人の好みかも知れないが、私は、旧全集の方を好む。何故かと言えば、後年のものと比べて巨匠が嘗て技巧派として腕を鳴らした面影を知るには、とても最適なレコードだからだ。しかし巨匠はこの頃から上手いのに下手そうに弾く。なのでこれから紹介するものも、そんな傾向の演奏だ。さて最初は第7番だ。第1楽章は、Prestoでソナタ形式だが、とても快適だ。それで此処で聴けるバックハウスは、嘗ては技巧派で評価があったピアニストだったのを彷彿とさせる演奏をしている。然も堂々としており、骨格が骨太なので、これこそベートーヴェンだと感心する。そして自由自在だ。それに駆け抜ける推進力さえ感じる。第2楽章、即ち Largo e mestoで三部形式だが、ベートーヴェン自身が「心の憂鬱を表し、そのあらゆる陰影や相を描く」と言ったとされる主題は悲しいが、巨匠は必要以上の悲劇性は表現せずに淡々と弾いている。ゆっくりと内面を見つめる表情が印象的だ。第3楽章は、Menuetto,Allegroだが、その主部は四声体的に書かれている。そんな構成の楽章なので、とても立体感がある。その主題の描き方だが、聴けばその通りみたいな演奏をしており、余計な解説をせずとも音楽の方から語り掛けてくる。終楽章はRondo,Allegroである。此処でも淡々と弾き込んでいるのは変わりない。だが主題の描き分けも適切なので、聴いているだけでも楽曲が理解出来る。此処でも作品そのものの姿を素直に表している。そして淡々と曲は閉められる。次は第9番である。第1楽章は、Allegroである。演奏はとても明確で、あるがままなのが良い。途中鮮やかで目が覚める。そしてテンポの速い個所は結構早い。そんな処に良い意味で巨匠の若い気持ちが出ている。第2楽章は、Allegrettoである。これも巨匠ならではの作為のない演奏だが、何もやっていないような演奏にも関わらず説得力がある。そこが巨匠の音楽性なのかと改めて思う。第3楽章は、Rondo, Allegro comodoである。目まぐるしく交差する主題が面白く表現されている。音色は地味だが聴くべき点は多い。コーダのトッカータ部分も見事だ。そして次は「悲愴」で知られる8番だ。この表題は珍しく作曲家自身が付けている。第1楽章は、Grave - Allegro di molto e con brioで、ソナタ形式だが「悲愴」と言う表題に捉われない演奏は寧ろ評価すべきだろう。だから深鬱な序奏部分も殊更強調をする事なく進む。それから駆け上がるのだが、その辺の鮮やかさに巨匠のヴィルトゥオーゾ的な一面を聴く事が出来る。それが聴けるのは、このモノラル盤の全集だけなのだ。後年のステレオ録音による再録には、それが消えている。しかしながらそれは奏者には仕方がない事だろう。ゼルキンやホロヴィッツの晩年もそうだった。ルーヴィンシュタインもそうだ。此処で変に細工をしない巨匠の音楽性が遺憾なく発揮されているのは第2楽章だろう。これは、Adagio cantabileで小ロンド形式だが、楽曲の味わいが滲み出ている。深さに於いてはこの楽章は再録の方が勝るとは言え、この演奏も捨てがたい。第3楽章は、Rondo; Allegroである。この演奏も何の作為もないので素直に耳に届く。小生はこれでも充分だ。最後は10番である。第1楽章は、Allegroでソナタ形式、対話をするような第1主題に特色があるがほのぼのとする。此処に温かみを感じるのだが、巨匠の演奏は、数々の艱難辛苦を共にした夫婦が昔話をする趣がある。そんな演奏である。第2楽章は、Andante主題と3つの変奏を伴うが、とても素朴な表現ながら聴き手に語り掛ける。そこが良い。第3楽章は、Scherzo,Allegro assaiでロンド形式なのだが、地味な鮮やかさが素敵だ。表現は変だが本当にそうなのだからどうしようもない。聴き終わった後からじわじわと感動した演奏だった。

人気ブログランキングへ 

0

2016/1/26

フルトヴェングラーのフィガロ  歌劇・楽劇


クリックすると元のサイズで表示します
King K19C-9390-2 3LP


フルトヴェングラーがザルツブルク音楽祭で指揮をしたモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」のレコードである。こちらの音源は、オリジナルのオーストリア放送協会のものではないが、意外と鑑賞をするには不自由しない。そこが不思議なのだが、この頃の海賊盤とされるものは後から正規音源を元にCD化なりをされたものよりは良好なものがある。収録年は、1953年である。実は前年にも同音楽祭で指揮をする筈だったが、体調の不備で実現に至らなかったが、巨匠を知る者なれば今更か?このレコードの解説には何日の演奏かも記載はないが、8月7日だそうだ。以前には、11日ともされていた。配役は当時のベストとされていて賛辞も多いが、演奏本位で聴いてみるとどうしたものか?フィガロは、エーリッヒ・クンツ(Bt)、この人は同音楽祭では、戦時中のクレメンス・クラウスの指揮下でも歌唱が聴ける。スザンナは、イルムガルト・ゼーフリート(S)である。そしてアルマヴィーヴァ伯爵は、パウル・シェフラー(Bt)、伯爵夫人は、エリザベート・シュヴァルツコップ(S)、ケルビーノが、ヒルデ・ギューデン(S)が主要メンバ−だ。それで脇を添えるのは、バルトロが、エンドレ・コレー(Bs)、ドン・バジリオが、ペーター・クライン(T)、マルチェリーナが、ジークリンデ・ワーグナー(A)、アントニオが、アイロス・ベルネルシュトルファー(Bs)、バルバリーナが、リゼロッテ・マイクル(S)、ドン・クルツィオが、エーリッヒ・マイクート(T)である。さて演奏だが、序曲を聴く限りでは雑な感じがする。何となく指揮者の気持ちにウィーン・フィルが乗り切っていない。つまり巨匠のテンポ感に感覚だけで乗ろうとしている印象がある。だがどちらかと言えば遅めだ。それで斬れも甘いのだが、思えばこの楽団は、フィガロではそんな処がある。それでも曲が進むと感情が湧き上がるのが面白い。その点では人間味のある演奏だと思う。幕が開くと伴奏が序曲に比べて立ち直っている。歌手に細かく絡むのも。この楽団が如何に歌劇との経験が深いかが解る。クンツとゼーフリートの歌唱も安定している。歌詞はドイツ語である。現在では言語上演が殆どだが、そうなるのも、この公演からは数年後である。それがクローバル化なのかな?とも思う。「お殿様が踊りとなさるつもりなら」の歌唱も淡々としているが慣れたものだ。バルトロの「復讐の甘さは」と歌うコレーも朗々とした感じで良いものだ。ワーグナーとゼーフリートとの叙唱も安心して聴ける。しかし「僕は自分が自分がわからない」と歌うケルビーノのアリアは、ギューデンだが、思春期の少年の心を歌うには若さが足りない感じがした。それに対し、スザンナとバジリオ、そして伯爵が加わる三重唱は安定の極致だ。それが贅沢な気分になる。それに変な歌い崩しもないのでモーツァルトの音楽を傷つけていない。第一幕は「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」で終わるが、流石に此処ではクンツの自信に溢れた歌唱が聴ける。それこそこれを自家薬籠中と言うのかと思った。巨匠の指揮も感情に任せずに遅いテンポを通すが、クンツの歌い方も落ち着いているので、そんな感じにしたのかとも思う。第二幕は、伯爵夫人が「私の願いをお聞き下さい」と歌うアリアから始まるが、シュヴァルツコップの歌い方にはある種の癖があるので気になる人には気になるだろう。あまりにも立派過ぎる。「教えて下さい。優しいご婦人方」で始まるのはケルビーノのカンツォーネだが、ギューデンの声にもう少し清純な処があればと思う。風格があり過ぎて聴いていると、こちらが伯爵夫人のようだ。上手いのは認める。スザンナが「もっとこっちへ、私の前にひざまづいて」と言うアリアも別に文句はない。ゼーフリートは、この辺あたりからが全盛期なのが解る。それもあるのか、伯爵と夫人と共に絡む三重唱が充実している。此処ではシュヴァルツコップの立派過ぎる声が功を奏している。終幕に向けてテンポの速い場があるが、歌手のコンディションも良いようだ。混然一体となって幕を閉める様が素晴らしい。第三幕は、伯爵とスザンナのやり取りから始まるが、こんなに人間味のあるモーツァルトの演奏が最近はめっきり聴けなくなったと残念でもある。この幕は動的な場が多い事もあり、巨匠の指揮も積極的だ。なので歌手に食らいつくような楽団へのドライブが目立つ。それで演奏の表情も油が乗ったように濃い。だから伯爵夫人のアリアで「あの愛と優しさに溢れた喜びの時はどこに行ってしまったのかしら」と歌うシュヴァルツコップも、この辺になると丁度良い感じに聴こえるのだろう。さて終曲の「もうお祝いの行列がやってくる」での軽い行進曲風の間奏曲がなんと重い事か?モーツァルトにしては彫りの深い幕締めとなる。第四幕は、バルバリーナの「可哀想な小さなピン」で始まるが、そこでのマイクルの細かい表情描写が見事だ。「ああ目を開けろ」のアリアはフィガロだが、流石にクンツは独断場だ。そこで演奏によっては聴き処になるホルンが意外とあっさりしているのは残念だが?「おお、もうこれ以上はためらわないで」とシュヴァルツコップが歌う伯爵夫人のアリアも圧巻だ。此処では変な癖もない。それで皆で心から許し合うフィナーレは聴いていても幸福な気分になる。終始落ち着いた印象の演奏だったが、やはりウィーンフィルの美音に助けられているのか、絶えず伴奏がものを言うので、それだけでも聴き処はある。尚終章になってテンポが飛ばし気味になるのが巨匠らしい。紹介が遅れたが、合唱は、ウィーン国立歌劇場合唱団である。

人気ブログランキングへ 

0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ