日本歴史と雑事記録

行く河の流れ絶えずして、しかも、元の水に有らず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まりたる例なし。世の中にある人、棲みかと、かくの如し(方丈記)
                

 

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投稿者:半杭正幸
永年中国に滞在したから、華南、華中地区の人々の生活(故郷からの手紙なども拝見してる)とか、日本人に対する感情等は存じている心算です。上からの目線では仕事は進みませんから、出来るだけ彼等の中に飛び込むわけです。その中で、江西省九江が故郷のお嬢さん達から、日本人守備隊の善行を色々お聞きしています。日本に帰ってから心当てを探したのですが、消息は今でも判明しません。日本兵士や将校等の蛮行を聞いた事は一度も有りません。日本人に対する悪感情を植え付けようとしたのは「江沢民」ですね。最近、病死説が流れていたようですが、もしも死亡が確実で有れば、反日的感情は徐々に解消するかも知れず、変化するかもしれません。一般的に言って、中国庶民は日本人には好意的(日本兵士には農業出の者も多く、農作業を実演した者も居る)で、中国を旅しても危険な目にあった事は一度も有りません。勿論、自ら日本人だと名乗った事は有りません。世界の工場と囃される現在中国は、貧富の差がますます広がりましたが、これは日本人から技術を教わり、中には宝くじを当てた様な金持ちになった者も居るようです。現在では、日本人様様だとも聞いています。日本人は親切ですから、ナニモカモ教えてしまうのでが、日本の為には害を成しているかも知れません。私等は、中国高官が威張っても、所詮は日本人の真似としか思いません。新幹線しかりですね。滞在中には、中国語の新工学用語をかなり作りましたが、不思議な事に現在でも通用してるそうです。日本政府等は、中国政府に対して優位を保つべきと考えています。
投稿者:愛知県匿名
偶然九江の記事を拝見しました、私の父は生前時々戦争の話をする事がありました、名古屋の部隊で幸○○○部隊で豊橋で工兵隊として訓練を受け、戦地(北京近くからベトナム付近まで)を回った様です。終戦時は九江であったと聞いています。沖縄が危ないと言う事で上海に向けて移動中に九江で終戦。しかし共産軍と蒋介石軍が対立していて、蒋介石軍の依頼で日本軍が町を警護していて待遇は非常に良かったと聞いています。中国人の子供が腹を壊していた時に日本の薬を与えて大変喜ばれ、それから馴染みに成ったとかあった様です。記事の内容に納得いきました、中国戦線では日本軍の蛮行ばかり取り上げられますが、こう言う事例もあるんですね。
 
  
投稿者:津本京子
昨年の10月16日から半年間九江で生活しました。私の住んでいる奈良県大和高田市と九江との19年に及ぶ民間交流が続いていて、そのお陰で留学生として
楽しませていただきました。自分の子供より若い学生達との交流は最高に楽しく、また中国と日本は一衣帯水の間柄だと言って九江の方々にとても親切にしていただきました。先人達が善根を施してくれた同仁会病院の存在を知ったことも喜びでした。
九江会の世話をしてくださっている宇紅さんがその桜を見に連れて行ってくださり、九江でお花見をしたことも楽しい思い出です。
安部総理大臣の就任第一の国が中国で、これからますます交流が多くなるだろうと思われます。
中国と日本が平和に交流できることを願います。
投稿者:池田公栄
貴殿の九江の記事拝読しました。戦時の九江の様子が少しわかりました。実は、私は昭和13年から16年まで九江にいました。父が九江にあった民間医療機関九江同仁会病院のスタッフでした。この病院はいまも名前を変えて九江にあります。故老たちの話で、「あれはすばらしい病院で中国人もずいぶんと世話になりました。」という話を聞きました。また、この地方で九江港の西方30キロぐらいのところに武宇(ウーニン)というところがありますが、ここは武漢攻防の前線だったらしく、激戦があり、日中軍双方に多くの戦死者が出たといわれる地域ですが、ここの古老も「日本軍は非戦闘員にはとても優しく、私が子どものときはよくお菓子をもらったよ」とも話していたそうです(九江学院大学日本語か生徒の談)。これら、生の声は貴重な日中戦時体制下のホッとする話ですね。


投稿者:中川貴之さん
もう16年前ほどですが、留学生の王さんという人と九江の近く湖口まで行きました。私の母の兄が戦争中に戦死したとの事だから。兄は当時通信兵軍曹として湖口に赴任していて、昭和20年1月に渡河訓練中に機雷に当って死んだそうです。湖口に行った日はあいにくの雨で陰鬱な日でした。町は長江の南側、一つの小さな道沿いに僅かの商店がありました。
行きは景徳鎮からバスで4時間程度、帰りは九江からの船便で南京までの丸1日の船旅でした。
投稿者:大謝さん

江西省九江市の貴重なお話を読ませて頂きました。このようなお話を聞くことができる機会が大変に少ないように思います。

私事で大変に恐縮ではございますが、亡父は中国戦線に出た話を生前、時折してくれました。正直なところ、日本兵の一部は中国の民間人に残忍な行為をしたことも知りました。大変に慙愧に耐えないものを感じました。

しかし、1937年の南京のことを知らされていたのどうかも聞いたことがございますが、まったく知らないと言っておりました。亡父は少尉として満州に出ておったようでございますが、中国での話が私自身、針のように刺さった部分を持っておりましただけに「揚子江九江市」のお話に心を開かせられるものがございました。

ありがとうございます。今後ともブログを読ませて頂きたく思っております。
 

 
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