写真は「二宮尊徳」の肖像です。
尊徳先生の像については色々と有って、何れも別人の様に見えます。その原因は、生前に自画像を描く事を固く禁止したからだと言われます。写真は「大日本報徳社の宝物」です。
我が福島県相馬地方と二宮尊徳の関係ですが、これは二宮尊徳の一番弟子の「富田高慶」が奥州相馬藩の生まれで、二宮尊徳の愛娘(文子)を嫁さんに貰った事でも凡その推察が出来るだろう。
この高田高慶が相馬に戻り「二宮仕法」を実施して、大きな成果を上げたのです。二宮尊徳は「南船北馬」の多忙な日々で有ったから、生涯に於いて奥州相馬の地を踏む事は無かったが、「我が仕法」は奥州相馬の地で大成功を収めたと言わしめている。後の幕末の混乱期には、二宮一家は奥州相馬に移住していて、二宮家と奥州相馬の地は関係が深いのです。
さて二宮尊徳の「富国安民」の御仕法は、ここ茨城県及び神奈川県、栃木県、福島県等で実施し江戸時代末期の荒廃した農村の立て直しで成功したから、各地の市町村史には二宮尊徳に関わる話も多いのです。
注
御仕法の実施については「二宮尊徳伝、佐々井信太郎著」が名著の様です。
二宮尊徳は身体頑健で(身長6尺、体重二十四、五貫)有った様です。いま栃木県宇都宮市の
「下野史談、昭和10年1月第20巻」を見ると、二宮尊徳は大の酒好きでも有り、相当にいける口と思われるのです。
下記は、東郷時代の二宮家に九年間下女として働いた菓子商「渡辺梅女」が語ったもので、この梅女は明治41年9月に井口丑二(大二宮尊徳の著者)に語った言葉だと言われます。
「先生はデップリ太ったお方で右の頬に黒子(ホクロ)が有った。気に召さぬ事が有っても怒鳴る様な事も無かったが、恐ろしい顔をされた。が、反面愛らしい顔もされた。先生の夕食は長く、酒が好物であったので肴はなくとも門人を集めて教訓をなされつつ飲まれるのが常で、寝に就かれる時はお嬢様に帳面を読ませ、夜明けには起きられた。尚、先生は毎夜廻られたが思い立つと夜半でも出掛けられて、疲れると土手の上でも路傍でも寝まれた。平常薬を薬を用ひたことは無かった。」(云々)
何事でも頑健な身体と強い意志が無ければ大成出来ないのかも知れません。晩酌は欠かさなかった様ですが、休肝日は必要でしょう。

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