2007/4/19

I浪人時代の質素な食生活――20070419  自分史


浪人時代に同居させてもらっていた長兄は、残業やら夜間大学への通学やらで、アパートに帰る時間が遅かったので、晩飯は私一人で自炊することが多かった(当時は、コンビニなんてなかったから、外食しない限りは、自分で料理するしかなかった)。安くあがる晩飯は、ウドン玉(5円)を湯がいて醤油をかけたもの、ピーマンや油揚げをフライパンで炒めて醤油を掛けたもの、などである(米は、気になるほどの値段ではなかった気がする)。ちょっと外食するときは風呂屋の周りにあった、「キッチン太陽」という定食屋か、「なんとか」というソバ屋。ちょっと奢るときには、駅前の「日本橋」という大衆テンプラ屋に行った(こういう形式のテンプラ屋は、今は、なくなってしまったようだ)。ソバ屋にあった、70円の「イカ天丼」は、店で最も安いメニューだったが、旨かったことを覚えている。「キッチン太陽」のハンバーグは、焼いた後の肉汁にトマトケチャップやらなにやら入れてソースを作っていて、旨かった(ハンバーグという食べ物は、この店で始めて食べたものだ)。当時の外食の費用は、平均して300円くらいだったろうか。

浪人して家を出て、初めてお袋の賄いから離れたので、食べ物には興味があった。ナポリタンとかミートソースとかいうスパゲッティに初めてであったのは、学力テストのために通った研数学館からの帰る途中の、千葉駅構内の食堂である(今思えば、饂飩のように煮込んだスパゲッティだった)。
日比谷図書館の食堂のメニューには、ナポリタンとトンカツ定食しかなかった。箸がなくて、ナイフとフォークしか用意されていないのに面食らったのは、ナイフ・フォークを使うのはそのときが初めてだったからだ。他人の見様見真似で、皿の御飯をフォークの背に載せる食べ方を習得したが、いまはそういう食べ方は流行らないようだ。
ソバ屋で、カレーウドン、カレー丼やカツ丼を盛んに食べたのは、この頃のことだ(いまは、せっかくソバ屋に入ったのにソバを食べないなんていうのは考えられないから、こういうメニューにはトンと御無沙汰だ)。まだこのときまでは、ハンバーガやビーフシチューには出遭っていない。ピザを食べたのは、ずいぶん後の、大学を卒業した後のことである。

昼飯は、予備校の地下でラーメンを食べたりしたが、あれは不味かった。近所にあった明大の師弟食堂(学食)が安くてボリュームがあった。お茶の水駅の近所にあった中華屋では、タンメン・ギョウザがそれぞれ50円、あわせて100円で済んだから、よく通ったものだ(そういえば、最近は、勿体ぶったラーメンだけしか出さない店が多いが、当時は、ラーメンとタンメンは半々だったと思う。中華料理としては、タンメンのほうが本流だろう)。

予備校が御茶ノ水にあったから、喫茶店がずいぶんあったけれど、一人で入ったことはなかった。モーニング・コーヒーなんて洒落たものは経験したこともなかった。我が家では、父親がコーヒー好きで、家でもコーヒーを立てていたが、初めて飲んだ喫茶店のコーヒーの旨さにびっくりした。まだ18歳くらいの私の若い舌は、繊細な味を見分ける能力があったようだ。「合格さえしたら、コーヒーを思い切り飲もう」と思ったのは、この頃のことだ(このころは、まだ、紅茶を飲み分けるチャンスには出会ってはいない)。酒は飲まなかったが、お遊び程度に、タバコは吸い始めた。若い舌には、「両切りピース」や100%%バージニア葉の「富士」の味が新鮮で、「タバコを味わう」なんてことは、あの頃にしか出来なかったことだ。

食生活は危なっかしく、相変わらずヒョロリとして青白い、モヤシのような男だったが、若さの勢いで、病気もせず、ストイックな一年をやりとおして、東大受験に臨んだ。ところが、皮肉なことに、受験日が近づいた頃に風邪を引いたらしく、第一日目には高熱が出て頭がボーッとした、最悪のコンディションに陥ってしまった。自分ではあまり気にもせず、濡れ手拭いで頭を冷やしながら第一日目を終えたが、フラフラしながら帰る途中で病院に寄ったら、なんと39度近い熱があった。医者に事情を話したところ、熱冷ましの注射を打ってくれて、そのまま帰って寝付いたら、翌日はケロリと治っていたのは劇的だった。薬の効きが良かったのか、精神力で風邪を吹き飛ばしたか、その勢いで、残りの試験はバリバリと解けた。手応えアリ。試験が終わった途端に、合格が確信できた。「不合格」になるなんて予想だにしなかったから、“滑り止め”として予約していた二期校の、横浜国立大学を受験する準備は何もしなかったのは、大胆過ぎたかもしれないが、あの時点の私の“学力レベル”は最高潮に達していたに違いない。

アンスリウム

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2007/4/19

定年退職一年生の初印象ーー20070419  定年退職後の生活

会社を定年退職し、単身赴か任のアパートを引き払ってから、二週間以上を経過した。一時は、果たして、山のように積み重なった引越し荷物が整理できるのかと疑ったが、思い切って本を捨てたりしてスペースを作り、なんとか荷物を治めることができた(そのために、私の精神史を形作る読書遍歴や、過去の活動を記念するメモリアルは、悉く失われてしまったが)。

書斎に詰め込んだ本や小物は、まだ整理がついたとは言いがたいが、それでも、机に座って本を読むことくらいは出来るようになった。持ち込んだパソコンを、ワイヤレスでインターネットに繋いでみたいが、それは後々の仕事として残しておこう。

以前から申し込んでおいたスポーツクラブ(NAS)に通い始め、まだ成果は出ていないが、これは何とか軌道に乗ったようだ。持病の高血圧を見てもらう医者を決めた。年金を国民年金の切り替える手続きも済んだ。先週、会社から離職票が届いたので、職安に行って、失業保険の手続きも始めた。届出などは、順調に進んでいる。

退職して世間に出てみると、案外、世間には人出があるものだということに気がついた。道路も店も、病院もスポーツクラブも、相当混んでいる。ただ、会社勤めのときに会ってきた人たちとは人種が違い、半分以上が元気なオバちゃんで少数の叔父さんが混じった中に、若い女性もチラホラはいっている、という人種構成だ。ここは、サラリーマンや公務員のように時間に縛られていない人たちの世界で、今まで私の棲んでいた世界とは位相が異なるようだ。今後は、こういう世界に馴染んでいかなければならないわけだ。

もうひとつ気がついたことは、物事を為すには、ずいぶん時間がかかるということだ。一日に複数の用件をこなすのは難しい。これは、時間割に基づいて次から次へと仕事を切り替えてきたサラリーマンの世界とは、だいぶ様子が違う。
朝、世の中は10時からしか始まらないから、昼食を家で食べようと思うと、午前中の時間は2時間しかない。昼食を終えてゆっくりとしていると、すぐに2時頃になってしまい、晩飯の準備を始める5時頃までには3時間しか空いていない。夜はTVを見ながらちょっと酒を飲むと、すぐに眠くなってしまうから10時前には寝てしまうので、夜なべ仕事をするわけにはいかない。寝るのが早いから朝は5時頃には起きてしまうから、朝飯前に何かやったら良いのだろうが、今のところは、ボーッとして過ごしている。だから、午前中にスポーツクラブに行ったりすると、それで一日が終わってしまう気がする。こういう世界に入ってみると、現役時代に8時間も会社にいたことが嘘のように思える。

もうひとつ気がついたことは、何度か役所に行ってみたが、どこの窓口も待ち行列でいっぱいだということだ。見ていると、窓口に入った人に対して、挨拶やら世間話から始めて、分かりきったことを延々と説明し続けている。「市民にやさしい接し方」を実践しているのだろうが、そのために何時間も待たされる人の身にもなって欲しいものだ。
総じて、事務の進め方は、民間企業の20年前のレベルに近いかもしれない。現役時代には、本社からのおせっかいな指示に対して「官僚主義だ」と反発したものだが、現実の官僚主義はもっと酷いことになっているようだ。

アロエ

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2007/3/30

「捨てる本の選択」ーー20070330  定年退職後の生活

「男の時間は積み重なるが、女の時間は流れる」という喩えにもある通り、家内は、「もう読むこともない本は、要らないでしょう」と、私の本に対しては如何にも冷たい。それに対して私のほうは、元来の収集癖に加えて、「一度しか読まなかった本であっても、本というのは、自分の精神的ヒストリーを保存しているものだから、本だけは捨てることはできない」と、頑張ってきたものだ。私の「蔵書」のなかには、大学時代の「教科書」的な本とか、当時、流行った「毎月配布の美術書」などもある。それこそ、もう絶対開かない本だが、捨てるに忍びない本たちだった。

ただ、考えてみれば、私の「活動的人生=意味のある人生」の期間は、あと10年しかない。その間に、新しい本も買い込むだろうから、こんなに膨大な‘古本’を、もう一度、開いて読むなどということはありえない、というのも事実である。妥協策として、本のひとつひとつを選別し、しかも、「捨てる本は、その旨をブックリストに明記して(過去帳に記録してから)、捨てる」という手続きを自らに課して、作業を開始することにした。

捨てる本の候補は、まずは、学生時代の本は、全部=すべて。とくに「お勉強」でつかった経済学や経営学の本は、持っていたところで中身はチンプンカンプンだから、全部捨てる。海外で買った、英書も、まずは開くことがないから捨てる。推理小説も捨てる(一時凝った、ハヤカワとか創元社の海外推理小説を捨てるには、決断が必要だった)。読みたくなったら図書館で読めそうな本も、捨てる。私が好きだった、雑学の本やいまさら価値のない流行物の本も、捨てる。

意外と場所をとっているのが、漫画の本だ。「ゴルゴ13」は140冊を超え、「クッキングパパ」、「シェフ」や、手塚治虫の単行本もそうとうの場所を喰っている。「落語名人伝」などの漫画もある。そしてこれが、読み直してみると、けっこう面白いし、これからも手にとる機会はありそうだ。ということで、ここで日寄って、漫画単行本は残すことにした。落語といえば、一時落語に凝っていたので、落語関係の本は、全集を中心に、250冊はある。これも、捨てる訳にはいかないだろう。ただ、次いで、川柳や江戸時代関連本、グルメ本と、命拾いさせていったら、「捨てる本」の範囲がどんどん狭まってしまった(これはマズイ)。

一時、読み込んだことがある人(批評家)の本も捨てられないが、このジャンルは、単行本も相当あるので、分量が多いのが問題だ。会田雄次、青木雨彦、糸川英夫、落合信彦、塩田丸男、竹内宏、長谷川慶太郎、深田祐介、山口瞳、山本夏彦、山本七平などがその面々だが、残せるのは、山口瞳、山本夏彦、山本七平くらいのものだろうか。好きな作家、池波正太郎、司馬遼太郎、山本周五郎、藤沢周平などは捨てられないし土屋賢二、東海林さだお、はまだ読むかもしれない。浅田次郎、明石散人、高橋克彦は大切な作家だ。古代史に関する本はずいぶんあるが、これもキープせざるを得まい。こんなことをいっていると、「捨てる本」がどんどん少なくなってしまうが、まあ、これから時間はたっぷりあるのだから、こんな方針を立てて、まずは、本の整理に取り掛かることにしよう。

アンスリウム
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2007/3/29

蔵書の整理を開始するーー20070329  定年退職後の生活


2007年3月の定年退職によって、10年間の別居生活を解消し、生活の本拠を我がマイホームへ移すことになった。別居といっても、2−3時間の電車の距離で、毎週、「金帰月来」や「金帰日来」で、毎週「我が家」へ帰れるときもあれば、インドのように、年に2回しか我が家の布団で寝ることが出来ないときもあり、濃度には差があったが、いずれにしても「生活の本拠」が不安定で、デラシネ:浮き草であったことは同じじである。これでやっと落ち着くことができるというものだ。ただ、私は家では、長いあいだ‘いない人’であったために、私の場合は、カムバックとはいっても、「自分の居場所を確保する」ことから始めなければならないのが、難儀である。
さし当たっては、「この10年間の別居生活の間に、私個人に付いて回り、溜まってしまった‘個人財産’を、どうやって、狭い我が家に押し込むか」という難題に取り組まなければならない。

‘私の個人財産’にまつわる問題は2件ある。そのひとつは、「生活財産」の処置である。知らない間に、衣類や寝具は山のように溜まってしまった。私の体重が毎年増えているものだから、‘愛着はあるのに、着ることが出来ない’といった記念品的衣類も膨大になっており、これは捨てなければならないだろう。寝具は、家族がきた時のためのものだが、殆ど出番がなかった。食器や調理器具、寝具の類は、家内から「うちには収納スペースがないから捨ててきて頂戴」と命令されている。
これらのブツを、どうやって、誰に頼んで「捨てる」のか、途方に呉れている。また、今の住居に移ったときには、軽自動車、TV、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電気コタツ、その他もろもろの電化製品を買い揃えたが、これを「捨てる」には金がかかるというし、誰かに使ってもらいたい気もするが、その手配も難問だ。

家内は、それぞれを買ったときの状況は知らないから簡単に、「捨ててきてネ」などと簡単に言うが、こんなものでも、それぞれ必要に駆られて買ったものだから、ただ捨ててしまうのは本当に惜しいし、愛着もある。私は、生まれも育ちも貧しいから、なおさらそんな気がしてならない。世に、「引越し貧乏」という言葉があるが、他人事ではない。しかし、「引越しのための家財整理」でいちばん辛いのは、生活に伴って集まった、こまごまとした雑貨は整理されてしまう運命にあり、その間の生活のメモリーすっぽりと消失してしまうことだろう。

家財や家具は、誰かに頼めば処分してもらえるだろうが、二つ目の大きな問題は、蔵書の処理である。年齢とともに、私の興味の対象が変異してきたために、それに伴って買い込んだ本は相当な量になっている。なるべく単行本は買わないで、文庫本を中心にしていても、本というものは、溜まると相当の重さになる。今までは、そういった本が累積していても、転居のたびに別居先に持ち歩いていたので、家内にもバレずに済んでいたが、いよいよ我が本拠地に帰還することになると隠しようがない。それより先に、どうにも、溜まり積もった本は、本拠地の空スペースには納まりそうもない。私は、幸福なことに、別居はしていても、家の二階の一角に、辛うじて‘書斎’のスペースは確保できているものの、すでにそこには昔からの本や雑貨が詰め込まれていて、それが溢れて階下の和室にまで進出している状態なの、日頃から、家内には、「天井が抜けそうだ」と、書籍の撤去を厳命されているのである。いよいよ、一念発起、本の始末にかからざるには済むまい。

アンスリウム
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2007/3/25

>Hストイックな浪人時代  自分史

受験大学は、当然にして、「東京大学」である。それも、深い検討の後の選択ではない。我家には、私立大学に行く経済的余裕がないのはわかっていたから、まず公立大学を選び、そうなると思い浮かぶのは千葉大学と東京の大学くらいしかない。Z会や公開模試の成績で、自分の学力のレベルが東京大学のレベルであることを判定できていたのも、東京大学選択の理由のひとつである。そのなかで、経済学部を選んだのは、「自分は、法学部に入学した兄ほど成績が良くないらしい」という理由でしかなく、そもそも、大学に入って何をしよう、大学を出て何になろう、という、将来の進路目標があっての上ではなかったのである。

現役のときの入学試験には、当然、落ちた。このときは、大胆なことに、他の大学にはひとつも併願しなかった(早稲田大学だけは、「受験料5000円の小手調べ」として政経学部を受験したが、ここには合格した。あのとき、早稲田大学に入っていれば、私の人生もずいぶん変わっていただろうが、当時は、△△高校から東大に受かる者は殆どが浪人していて、法学部に入った兄も、一浪したくらいだから、大学受験浪人は珍しくなかった。また、少なくとも早稲田大学には入れる学力があることことが実証できたから、私も、当然にして浪人生活を選んだのである。

住居は、当時、長兄が住んでいた、六畳一間の蒲田のアパートに転がり込んだ。自分の布団袋を自転車の荷台に乗せ、よろよろ引っ張りながら駅の荷物預かり所へ運び、チッキにして送り出したのが、私の独立のはじまりだった(当時の列車は、乗客の荷物を連結した荷物列車で運んでくれるサービスがあって、これを“チッキ”と呼んでいた)。
長兄のアパートは、窓の外は小さな鉄工所が隣接していて壁に遮られて日が当たらず、室内に小さなキッチンはあったが便所は共同便所で、風呂は銭湯に通った。
若い男兄弟の2人暮らしでは、朝飯は一週間交代で作ることにして、当番のときには毎朝、近所の豆腐屋に、味噌汁用の油揚げや豆腐を買いに行った。洗濯は、小さなキッチンで手洗いしていたが、アルミの洗面器に石鹸水を張って火に掛けると、下着が綺麗サッパリになることは、当時覚えた知恵である。お袋からは、毎月15000円の生活費を貰っていたはずだ。
いま思えば、無理をすれば、実家からでも駿台予備校には通うことができたのだから、「在宅浪人」でも良かったのだが、そこまで思いが及ばなかったのだろう。

毎日毎日、朝早く御茶ノ水の駿台予備校に通った(午前の部のクラスに出席するため)。授業がハネルと、自習室で勉強を続けるか、場所を変えて神田外語学校の空き教室に潜り込むか、有楽町駅からちょっと歩いて、日比谷公園のなかにある日比谷図書館に通うなどして、遅くまで勉強して、アパートへ帰って寝る、というサイクルを止め処なく回していた。授業のない日曜日も、区立図書館の「自習室」で勉強するのだから、まさに毎日が“受験勉強漬け”だ。「受験勉強というのは、要するに記憶力の競争なのだから、どれだけ根気強く詰め込むか、の問題だ」と心得ていたから、受験日当日まで、記憶が消滅しないようにするには、常に勉強を続けて詰め込みつづけるしかないというのが、私の勉強方法だった。

ちょっとセンチになるのは、日比谷図書館に行く途中である。当時流行っていた橋幸雄の歌に、「雨が小粒の真珠なら」という歌詞があったが、きらびやかな劇場や映画館の前を通り、恋人同士が抱き合う夜の日比谷公園を横切って図書館に向かっているときには、「大学に入学できたら、こういう世界が待っているのだろうか」と、叶わぬ夢のような情景を目にしながら、我慢していた情景は、今も忘れない。

とにかく、長兄のアパートに転がり込んでいるとはいっても、この一年間の私は、ひとりっきりの孤独な生活で、友達も相談相手もなく、受験勉強以外のことは何も考えないで暮らした。いま思えば、受かるかどうか不明な大学受験に生活のすべてを掛ける不安定な生活に、よく耐えられてものよと思うが、毎日通うところが予備校だから試験が頻繁にあって、自分の学力の位置付けを確認できたし、しかも、その予備校からは毎年たくさんの受験生が東大に合格していて、過去の実績からいって自分の位置は、悠々と合格圏内にあることが分かっていた、ということが、唯一の心の拠り所だったと思う。
志望校は、いったん不合格になったにもかかわらず、何の工夫もなく“東大一本槍”であった。合格することが前提だったから、「もし、東大に落第したらどうするか」などには、考えが及んでいなかったのも不思議である(実際、“大学卒”の看板もなく、一人で生きて行かなければならなくなったとしたら、このウスラボンヤリした男は、自活してゆくことができたのだろうか)。

アルビニア・プルプラータ
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2007/3/18

G荒涼とした高校生時代――20070318  自分史

私の入学した△△高校は、いわゆる進学校で、就職クラスと、普通クラス(文系クラス)と、選抜クラス(理系クラス)とに分かれていて、私は勿論、選抜クラスにいた。
まだ自意識に目覚めていない私は、運動クラブにも文化サークルにも入部せず、学校と家との間を行き来するだけの、乾燥した毎日を送っていた。具体的な将来の希望も自覚していなかったが、さすがに家で少しは勉強するようになり、二年生のころからは、当時流行りの受験雑誌・「蛍雪時代」の付録についてくるテキストを捲ったり、ラジオの」旺文社受験講座」を聞いたりするようになった。三年生になってからは、Z会の通信添削や、東大文指の模擬テスト、水道橋の予備校・数研学館の公開模擬試験などにチャレンジして、一心不乱に「回答術」を磨いたものである。

△△高校は、田舎の高校だけど、学生のレベルは東大に毎年、2−3人が合格する程度のレベルにあり、県内では二番目くらいに位置すしていたはずである。私の成績はというと、教科ごとに五本指には入っていて、総合点では、1−2番目という、相当高い位置につけていた(前になり後ろになって成績を競った同級生は、戦争による母子家庭の子だから浪人することが出来ず、やむなく二期校の横浜国大に入学したが、学生運動に熱中し、核マルのリーダーになったあと、内ゲバで殴り殺されてしまった。彼は逆に、自意識が過剰すぎるような学生で、その当時から「家永裁判がどうのこうの」と言っていた)。

当時の私は、今のようなブクブクの体型ではなく、母親が相変わらず「栄養不足」を心配するほどスリムだった(身長は170cm、体重は50kg台)顔の造作も、彫りが深くてキリリとしたイケメンで、床屋の姉さんにはいつも、「歌舞伎役者のように良い男だ」と言われていたくらいだ(いま、写真を見ると、自慢ではなく、相当の男前だ)。加えて、そんなに良い成績をあげ続けていたが、兄はもっとデキタらしくて、卒業してしまったあとでも校内の先生の話題にのぼるほどだったし、一年後に入学してきた弟の成績も良かったから、私自身は、まったく自覚がなく、ノロマで暗い性格に劣等感を抱いたままで、オドオドした学生で、注目されることは、却って迷惑に感じていた、内向的な学生だったと思う。

女性の関心の的は、就職クラスにいるスポーツマンだけだと思い込んでいたが、いま思えば、それは勘違いで、じつは、女性にもモテる存在だったのである。高校二年生の学級では、女子学生が、思いを寄せる男子学生の英和辞書に、布製のブックカバーをつくって贈ることが流行した。私も何枚か貰ったが、私はまだ、女性の愛情表現を理解できない朴念仁だったから、ただ単に、「便利だ。ありがとう」くらいの反応しか出来ず、恋愛に持ち込める貴重なチャンスを逃がしていたのも気がつかなかったのである。実をいえば、男兄弟で育ってきた私にとっては、「女性は高嶺の花」だったから、他には何組かのカップルがあるのを知っていながら、それを「自分と無関係な例外的な現象」としか理解できず、まさか私の身に当て嵌まろうとは思いもしなかったのである(いわんや、女性との交渉など、どうしたらよいか分からなかったの)。
あるとき、そういった女性が、休み時間に何気なく会話しているうちに、急に目の前で泣き出してしまってオロオロした経験がある。あれは、彼女の気持に気がつかず、応えてやらなかった私のせいである。あの涙は、勇気を出して表現した恋心を無視された悔やし涙だったに違いない。
ルックスも良いし、試験の成績は抜群に良いのだから、意味もなくオドケて見せているだけでなく、もっと自信を持って勇気を出して級友と交わっていればよかったと、今になっても悔やまれる。

高校3年の時のクラスに、私と同じ苗字の女学生がいた。色白の美人で、物静か。席が近いものだから何かと会話した覚えはあるが、「おとなしい美人」だとしか感じていなかった(事実、学内運動会の仮装行列の出し物では、私のクラスは「エジプト時代」を題材にし、彼女を飾り立てて“クレオパトラ”に擬えたことがあるくらいで、そうとう際だった美人だったはずである)。
十何年か経った後の同窓会で、その人と再会した。彼女は、昔の面影はそのままだが、口数が多くて陽気なオバチャンに変身していて、帰りの電車が一緒になった彼女の言うことには、私は、クラスの女性が気にしていた男子学生の一人で、彼女も私に思いを寄せたことがあった、ということだった。もう両方とも結婚して子供がいる年代だったから、焼け棒杭に火がつくことはなかったが、惜しいことをしたものだ。当時は、読む本は参考書ばかり、行き先は学校の登下校に参考書を注文するために寄る書店だけ、という殺風景な生活の繰り返しで、異性に関心を寄せることを忌避していた感のある私に、もっと自覚さえあれば、「豊かで楽しい高校生時代」を過ごせたのかもしれない。

とにかく、高校生時代3年間の私は、孤独だった。クラスのなかでは、軽い会話や子供っぽい戯れをする相手には不足はなかったが、男にしろ女にしろ、「真の交わり」に歩みだす勇気に欠けていたのが、その原因である。そしてその根底には、私の、思い詰めたコンプレックスがあったことも確かである。下校時には、群れて帰る級友と離れて、いつも荒涼とした気持を抱えて、「このまま自転車を飛ばして、海に飛び込んでしまいたい」という衝動に駆られたことが何度もあったことを思い出す(下校時の一本道の先には、子供のころ、自転車で海水浴にいったことのある“海”があった)。

ゲットウ
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2007/3/4

世界ラン展に行ってきたーー20070304  花の写真

毎年、2月から3月の間に、後楽園のドームで、蘭の展示会が開かれる。去年行ったことがあるから、もう関心は薄れていたが、駅の広告を見て、もういちど行ってみることにした。駅から近いから、電車で行けるので楽だ。家からは1時間程度で着いてしまったので早すぎたと思ったが、10時にしか門が開かないのに9時過ぎにはもう、黒山の人だかりだ。集まってきたのは、おもに伯母ちゃんと、伯母ちゃんに引き連れられてきた叔父さんの二人連れ。たまに、若いカップルがいるが、なにしろあのドーム球場のグラウンド一杯にみっしりの人だかりで、ゆっくると花を鑑賞するどころではない。
毎年のことだが、何しろ色々な種類のランが集められていて、夫々名のある栽培家が、自慢の一品を持ち寄ったものだろうが、あまりのキラビヤカさに目が眩みそうだ。入場料2000円は安いかもしれない。

いろいろある中で、やはり、ランの親分はカトレアだろう。色彩も鮮やかで豊富だし、香りが楽しめるのも良い。
ランといえば、マレーシアにいたころには、街で安く手に入ったのでたくさん買い込んで、アパートのベランダに吊るして楽しんだものだ。
しかし、気候はランに最適な高温多湿の気候だからランを育てるには何の問題もなさそうなのに、マレーシアでさえもランを活かし続け、咲かせ続けることは難しかった。もともとは日陰の花で、水分は空中から自分で取り込むから水やりは要らないとは聞いていても、ついつい水を与えすぎてしまい、結局は根腐れを起こしてしまうのだ。様子を見ていると、現地の人でも、ランを咲かせるのは難しいようだった。そのランを、気候のまったく違う日本で咲かせて、しかも品種改良もしてしまおうというのだから、日本人とは、たいしたものだ。

カメラを抱えていったのだが、ランやベゴニア、ボタン、バラなど、品種改良が盛んで花の色・形も様々に変化する花は、かえって写真を撮ろうとする気力が萎えてしまうのが常である。どれを撮っても美しいが、かといって、花の形を見て品種名を言い当てられるほどの注意力は持っていないので、名前を控えるのも無益な気がする。とくに、今回のように、一挙にたくさんの種類を見せられると、写真を撮るだけで疲れてしまい、従って、後から見るとろくな写真が撮れていないからだ。今回も、はじめのうちは神妙に写真を撮っていたが、一時間もすると投槍な写真ばかりになってしまった(約3時間で、500枚ほど撮影してきた)。

それにしても、こういうところに来るオバチャンたちは元気だ。たいてい3-5人のグループだが、とにかく、ペチャクチャと良くしゃべる。それとなく聞こえてしまう、他愛のない、近所の噂話とか他人の悪口が多いようだが、グループの中にはたいてい花に詳しい人がいて、またこの人が自慢げに解説を始めるものだから、耳障りでしょうがない。ここばかりでなく、最近は人の集まる場所で、叔父さんの影が薄くなっているようだ(競輪競馬場がどうなっているのかは分からないが)。たまにいても、ノソノソと侘しげで、自分もそう見えてはいないかと、心配である。



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2007/3/2

F中学生時代の、あの気持ちは初恋だったのだろうかーー20070302  自分史

〇〇中学校に通うようになって、ガキ大将の遊び集団が消滅してしまうと、私は、家に帰ってからの時間が暇でしょうがなかった。成績には問題がなかったので、「家で勉強する」なんてことは思いもつかなかったし、本を読もうにも、「本は買って読むもの」という意識もなかった。小学校の隣には、古い市立図書館があって、小学生の頃は、そこで「岩波少年文庫」などの子供向けの本を借りたり、唯一の漫画本である「さざえさん」を読んだりして、一時は読書にも熱中したことがあるが、中学生の頃はその「マイブーム」も過ぎていた。図書館といえば、借出証を発行してもらうために、身分を証明する「米穀通帳」を持っていったことがある。懐かしい書類だ。

遊び相手はもっぱら同級生の悪ガキ仲間で、中学校の近所にあった防空壕跡を探検したり、荒地の奥に作った隠れ小屋で漫画を読んだりしたこともあるが、私は、あまり社交的な子ではなかったと思う。表面的な交友に終始して、その証拠に、いまは、その当時の友達とは一切連絡が取れていない、その点では、弟のほうが社交的で、よく級友が遊びに来たり行ったりしていた。弟とは年子だから、遊ぶのも喧嘩するのもいつも一緒だったから、私も、「弟の友達と遊ぶ」ことは多かったが、そうすると、「兄としての沽券にかかわる」という気分になったりしたものだ。それでなくとも弟は気が強い方で、兄弟喧嘩とはいっても、気の弱い私が折れることが多く、どっちが年上か分からなかったくらいである。

やることもなく、手持ち無沙汰で狭い部屋にいると、近所のオバサンが来て、母親と、長い長い世間話を始める。思い出すと、それを聞いていた時間も多かったようだ。「女性というのは、止め処なく話題を持ち出して、止め処なく話し続けるものだ」ということを発見したのは、そのころのことである。

〇〇中学校は、古くからある市立中学校で、生徒もいろいろな生徒がいた。私は、ワアワワ騒ぐだけの無邪気な子供に過ぎなかった。要するに、テストの点数はやけに良いが、自覚も判断力もなく、ボーッと流れに身を任せているだけの生徒だったのだ。中学校も三年生ともなると、色気づいて異性を気にし始めるものだが、私には、「恋愛感情」というものが何者であるのかも、理解出来なかったに違いない。
どういう訳か、いつも、私の隣の席や私の前の席に座っていたマーチャンという級友は、仕草や表情が可愛いく、私にとっては「気になる存在」だったが、しかしその感情が何なのかを理解できなかったため、現実の私の行動は、彼女のお下げ髪を引っ張ったり、座る椅子を引いて尻餅をつかせたり、身体をつついたり、いわゆる「いじめっこ」に回って、嫌がったり困ったりするのを見て、喜んでいたに過ぎなかった。もどかしい自分の気持を持て余していたのだろう。

時が過ぎて、2人とも、地元の△△高校(有名公立校)に入学したが、学級は異なっていた。高校には2人とも自転車で通うようになったが、彼女の通学路は、途中で私の通学路に合流するルートだったが、あるとき、偶然、合流点で彼女と出遭うことがあり、それ以来、私は時刻を意識して出発するようになった。以降、偶然といえない以上の頻度で、彼女と出遭うようになった。前になり後ろになって、タワイないことを言いながら学校に通うのが嬉しかったものだが、あれが、私の「初恋」だったのだろうか。偶然出会うにしては、出遭う頻度が多すぎる。今思えば、彼女も時刻を見計らって家を出てきていたのではないか。今では、私を意識する気持があったに違いないと自惚れている(厭なら、数十秒早く通過すればよいのだから)。
そんなことも理解できず、悶々とした思いを「勉強」に紛らわせ、意を通ずる工夫も出来なかったのは、私の幼さと「不甲斐なさ」の咎による。思い切った一言が足りないために、いつのまにか、私の淡い恋心は波に流されて、高校卒業とともに消えていってしまったのである。
いま彼女は、大阪に家庭を持っているということだが、もう、マーチャンは、「難波の賑やかなオバチャン」になってしまっているのだろうか。

アルジュン
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2007/2/25

E両総用水計画は画期的な公共事業だったーー20070225  自分史

もともと、千葉県の中央部に位置する九十九里平野は、水源となるべき大きな川がないために、農業(特に水田農業)用水は、天水や溜池に頼らざるを得ないうえに、とくに、海岸沿いの地方は砂質土壌で水持ちが悪いために、昔から度重なる旱魃に苦しめられてきた土地柄だった。とりわけ、昭和八年、九年や、昭和十五年には、九十九里平野一帯の農家は、「大旱魃」に、たいへん苦しめられたという。

今のように、農業用水をふんだんに使えるようになったのは、この「大旱魃」をきっかけにして、戦時体制下にもかかわらず、昭和十八年に工事が始められた、「両総農業用水」のお蔭である。これは、利根川下流の佐原(下総)と茂原・一の宮(下総)の、約八十キロメートルを用水路で繋いで、排水の悪い「水郷地帯」の水を、九十九里浜沿岸の農業用水として利用しようという壮大なプロジェクトであった。

最終的に「完成」したのは昭和四十年というから、大変な工事だったようで、総工費は、当時のお金で六十億円にものぼったという(ちなみに、当初予算は二千万円弱)。ともあれ、この工事は、農家にとって大変ありがたい事業だったはずである。私たちが子供の時代は、ちょうどこのプロジェクトの完成が見通せる時期にあたり、九十九里浜の住民の生活が如何に悲惨なものであったか、この「両総用水」のおかげで沿線の農家が如何に便益を受けたか、特集映画まで使って「教育」された覚えがある。いまでこそ、公共工事というとウサンクサイ目で見られがちだが、当時の房州の住民にとっては「両総用水」事業は、「黒部ダム」と並ぶほどの、エキサイティングな事業だったことは確かである

小学生の頃は、近所の友達と一緒に、よく、近くを流れる小川に行って、小魚を掬って遊んだものだが、あるとき、川の水が茶色に濁って、それ以来、魚が一匹も取れなくなってしまった。上流に建った化学会社が、化学肥料を製造するプロセスで出る廃液を垂れ流し始めたためらしい。行政の方向は、自然の保護よりも、産業の誘致=貧しさからの脱却にあったといえるのだろうが、いまなら公害で大騒ぎになることでも、当時はそれで済んでしまったのだから、大らかな時代だった。
アリストロキア
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2007/2/22

D小学生の頃は、ヤンチャな子だったーー20070222  自分史

私は、団塊の世代の真っ只中にいたから、まず、小学校が満杯だった。市内の学校も増設されて、二年生になるときには、田舎に新設された〇〇西小学校に転校した。新しい学校には、しばらく、畦道を辿って遊び遊びしながら楽しく通ったものだが、父親が応募していた、新築の県営住宅に当選して引っ越すことになったので、同時に、学校も前の〇〇小学校の、同じクラスに戻ることになった(当時の小学校のクラス替はは二年ごとだった)。

新しい家は前の家から4kmほど離れた、駅に近い市内にあり、ブロック造り二階建ての洒落た前庭付きリンクハウスで、部屋数は3部屋もあったし、便所は、当時は珍しい水洗便所だった。風呂場はついていなかったが、どの家も、庭に付設された物置小屋に風呂桶を据えて、内風呂にしていた。全部で6棟、24家庭が入居できたが、敷地内に広い空地もあって、子供が遊ぶには快適だった。しかし、公営だから家賃は安いとはいっても、前の借家の比ではなかろう。父親は相当の決断をしたらしいが、少しは、父親の給料も増えていたのだろうか。この建物は、30年ほどあとに取り壊されて、今はない。

いま思うと、私はずいぶんイジマシイ子だった。家が貧しいことは分かっていたから、文房具などでも、「新しく買って欲しい」と思ったこともなく、たとえば、図画の時間に使う絵筆も、満足に毛の残っていない古い刷毛を使いつづけていた。今残っている当時の絵を見ると、良い筆を使って絵の具もふんだんに使っていたら、もっと良い絵が描けたと思う(それでも、いろいろな賞をもらったものだ。市の文化祭の絵画展覧会で、学校を代表して賞状を受け取る役をしたこともあった)。

弟が年子だったから、弟の教科書は、私の使った物のお下がりだった。当時、教科書の値段は百何十円という安さだったが、今と違って有料だったので、兄弟で教科書を使いまわすのは不思議なことではなかったのである。そのため、私は学年が変わるたびに、新学年の新しい教科書に、カレンダーの紙を使ってカバーを掛けるのが決まりになっていた。そして、教科書はできるだけ綺麗に使うこと、書き込みすることなどはもっての外のことで、弟に回すときにカバーを外せばいくらかでも新しく見えるように気を使ったものだ。いかにもイジマシイ心根だが、その“お古”の教科書を使わされた弟も、よく我慢した。

ランドセルも、母親がどこから手に入れたのか、皮製ではなく、ボール紙を芯に入れた模造品だった。よほど丁寧に使わないと、小学校6年間もたない。服装はそれほど見苦しくはなかったとは思うが、今思うと、季節ごとの衣装は一種類しか持っていなかったと思う。母親は、衣類は数年間着せたくて、正月に新調するときには大きめのサイズを選ぶから、新しいうちは身体に合わずブカブカだった。低学年の頃は、学校にはゲタを履いて行ったのを覚えている。
いかにも貧しい小学生だったけれども、そんな子供は周りにいくらでもいたから、全然気にもせず、私は、ノホホンと元気に暮らしていた。低学年の頃には給食はなかったが、弁当箱のオカズは何だったろうか。昼飯のときには、弁当箱のフタを立てて、脇から中が見えないようにして食べる習慣があったのだから、どの子の弁当も、中身の程は知れている。冬の間は、毎朝、当番の子が皆の弁当を集めて弁当保温庫に運び、昼休みには温かい弁当が食べられるようになっていたが、暖められて良い匂いのする弁当もあったから、商売人の子などは、贅沢な弁当を持ってきていたのだろう。

それでも私は、他の子のように、新聞配達・牛乳配達のようなアルバイトをすることはなかった。父親の給料は僅かなはずだから、3人の男の子を育てるために、母親が、セーターを編む手内職などで必死になって働いてくれたお陰である。子供の私も、自由に遊んで暮らしたものだ(そうはいっても、掃除や買い物などの「手伝い」や、糸繰りなどの内職の手助けなどはやったし、母親に何かを親にねだったりすることもなかったと思う)。しかも、高学年になると、「算盤の稽古」にも通わせてくれた(出来の悪い私の腕は3級止まりだったが、弟は、1級の手前までいったようだ)。

親戚に聞くと、私の父も母も、子供の頃は、頭の良い優等生だったようだ。小学校に入ってからの私の成績も抜群によかった。いつもボーッとして、運動神経が鈍かったが、ロクに勉強もしていないのにテストの毎に良い成績をあげるものだから、本来はイジメに逢ってもおかしくないトロい子が、まったく危害にあわなかったのは、そのおかげだったのだろう。小学校卒業のときには優等賞(「学校賞という名だった」)を貰ったが、その賞を授けるために、6年生の3学期だけは、体育の成績を4にしてもらったのを覚えている。
そのかわり、いちど度教科書を眺めただけで内容を把握し、授業の内容など「分かり切っている」ものだから、授業中は落ち着きがなく、「授業妨害」などをするものだから、学期末の通信簿にはいつも、「落ち着きがない」と指摘され続けてきた。

ただ、常に劣等感を引きずっている子だったから、私にはリーダーシップの能力はなく、隅のほうで、フォロアーの立場に立つのが好きな子だった(学級委員長には、いちども選ばれたことはない)。家に帰れば、近所の子供と集団で遊び呆けるが、リーダーのガキ大将に対しても、「付かず離れず」の中途半端な立場に立っていた。そのころは、ガキ大将の絶大な権力は公認されていて、たとえば小学校の運動会では、「部落対抗」の競技さえあったのである(私たちは、そんな旧い子供社会を経験した、最後の世代かもしれない)。私が小学校を卒業する頃には、リーダーが社会に出たりしたのか、そんな、ガキ大将集団は、消滅してしまった。
アリアケカズラ

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