秋の深まりとともに、キャンパスでは文化祭の花盛りです。
写真は先日行われた、息子の通う高校の文化祭の様子です。
仕事柄、この時期、いろいろな高校の進学説明会や、オープンキャンパスに出かけます。パンフレットや資料ではわからない、そこに通う生徒たちの生の姿を確認できるいい機会です。
先日訪れたある私立高校の説明会でのことです。
挨拶に立った校長先生は、あくまでも一個人としての雑感に過ぎないと前置きした上で、次のような話をされました。
最近、世間を震撼させている予想もしない出来事や事件に触れるたび、思うことがある。近くは秋葉原で起きた通り魔殺人事件。マスコミはいっせいにその犯人像に迫ろうと、彼の人間関係や環境、性格や趣味などを書き立てる。そんな中、私が思うのは犯人の青年は、小、中、高とどんな教育を受けてきたのかということである。どんな教育環境で、どんな教師のかかわりがあって社会に出たのか。
第二の彼を出さないために、教育は何をすべきなのか。果たして教育は、第二の彼を出すことを食い止められるのか。教育にその力は残っているのか。
繰り返し自問自答する校長先生の姿は、私には自責の念とも見て取れた。
校長先生がそう考えるのには背景がある。
私立高校の校長として、常に頭にあるのは「この高校の世間的評価を上げたい。」ということである。校長いわく、世間的評価とは、大学への進学率を上げること。そのために、生徒の学力を向上させるための取り組みに骨を惜しまないこと。教師が一丸となって生徒の学力向上のために奮闘すること。その努力が評価され、結果として、○○大学○名合格!という実績がそのままその高校の評価となることを校長先生はじめ、教師陣は熟知している。
これがいわゆる「見える教育」であると、校長先生は言う。つまり、見える教育のキーワードは「学力」である。
一方、校長先生は、高校を卒業して就職する生徒のために、企業にも訪問される。そこで企業側から求められる人材は、学力はあるに越したことはないが、それよりも基本的なことが当たり前にできる生徒を紹介してほしいということであるそうだ。
それは、挨拶であったり、ルールを守ることであったり、人と協調する姿勢であったりと、何も特別なことではない。しかし、それができない生徒が多いから、企業側も苛立っているのだということが感じられたと言う。
校長先生はまた自問する。
学校教育はいつからそんな当たり前の教育をできなくなったのか。「見える教育」に目を奪われている間に、本当に社会が求める人材を育てられているのか。
いわば、この見えない部分の教育こそ時代のニーズではないのか。そして、秋葉原で事件を起こしたあの青年は、そうした今の教育の犠牲者ではないのか。
私は、教育者としての校長先生の真摯な姿勢に胸をつかれた。
そして、校長先生は学校法人の経営者としての立場も持ち合わせている。本当にやらなければならない教育と学校経営という現実のはざ間で、常に矛盾と戦いながら、自分を奮い立たせていかなければならない。
私の前に突きつけられたのは、教育者としてのあまりにも重たい雑感であった。また、一方で
「学は光、無学は闇」
この言葉が真に輝きを放つ社会の構築のために、自分も非力ながら歩みを進めたい。秋の日に思う私の雑感である。
落日や準備トントン文化祭


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