「天正十四年六月十七日、長尾喜平次(上杉景勝)上洛する」
史料紹介
大河ドラマ「天地人」、いきなり1回目から見逃しました、あほやんですΣ(T▽T;)グワーン
『福島県史』七、五八九頁、四七 貞慶書状〔青山文書〕
(前略)
将又、天下之模様、定其隠有間敷候、以三介(織田信雄)殿、御取扱、家康被成御縁辺、去々月廿八ニ御輿入ニ、当秋中ニ出頭可被申、相受申候、長尾喜平次(上杉景勝)事、去月廿日令上洛候、関東之儀も、為御使、先山三道義、被差遣候、何成共、違背 上意之輩、可有御追罰之旨候、(後略)
六月十七日 貞慶(花押)
田村大膳大夫(宗顕)殿御宿所
どうも色々なブログを見ていると、1話目は長尾喜平次(上杉景勝)や直江兼続が天正十四年(一五八六)に上洛して秀吉に会ったとこから始まったみたいなので、その辺の史料です。
差出人の「貞慶」は、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)。『Wiki』によれば「1585年、家康の宿老であった石川数正が家康のもとから出奔したとき、それに従って数正とともに豊臣秀吉のもとへ行き、その家臣となった」そうです。
宛所の「田村大膳大夫(宗顕)」は、『Wiki』によれば「陸奥国の戦国大名。田村氏顕の子で、伯父の田村清顕の養子」で、天正十四年当時は「田村氏の当主」となっていたそうです。
したがって、ここで貞慶は秀吉の使者となって陸奥国の田村氏と連絡を取ってたということでしょう。
大体の内容は、家康が(たぶん秀吉と)「御縁辺(婚姻による親族関係)」となり、「去々月(四月)」二十八日に「御輿入(ここでは秀吉妹朝日姫のことか)」し、当秋中に出頭されるということを承った。このあたりの話が本史料を天正十四年に推定する根拠となりそうです(参考文献は、藤田達生『日本近世国家成立史の研究』(校倉書房、二〇〇一年)。但し、『福島県史』は天正十六年に推定しているようです)。
「長尾喜平次(上杉景勝)」のこと、「去月(五月)」二十日に上洛し、関東のことについても「御使」として「山三道義(山上道牛ヵ)」を差し遣わされた。なんなりとも(秀吉の)「上意」に違背するものは処罰するとのことです・・・ぐらいでしょうか。
この史料では、景勝(当時はまだ「喜平次」と言われてたようです)の上洛は書かれてますが、兼続のことは書かれてません。
このとき、兼続も一緒に上洛してたのかな(・o・ ))(( ・o・)?
↓ ↓ ↓ ↓

0