今回から、Website
「九州王朝説批判」を書いた後でいろいろ見つかってきた九州王朝説の矛盾点を解説していきます。
まずその第一回目は大宰府近辺の地名「内裏跡」「紫宸殿」についてです。
これは、九州は大宰府の近くにこのような地名が有る(有った)というもので、「内裏」「紫宸殿」といえば、都の宮廷の中の名称だから、これは大宰府がかつて王朝の都であった名残であり、これは九州王朝の都が大宰府に存在したことの証拠だ、というわけです。
この件について、吉田東伍『大日本地名辞書』によると、
「又此辺の田畠の字を
内裏趾、
紫宸殿などといふといへり、其は安徳天皇しばらく此所に鳳駕をとどめ給ひしによりての名なりとぞ(此に内裏跡云々とあるは虚誕のみ)」
とあるそうです。
問題は、この記事のソースですが、1703年(元禄16年)、江戸時代の儒学者、貝原益軒が73歳のときに藩主に献上した
『筑前國続風土記』の中に、
「今も太宰府の跡の田地を、土民は
内裏のあとゝ云。又田の字を
紫宸殿などいへるは、安徳帝のしばらく爰に鳳駕をとゞめ給へる故に、かく名付しならん。」
という記事があります(
ここの中の
「筑前國続風土記 巻之七 御笠郡 上」24/46頁参照)。
内容から見て、これが元ネタのようです。
さて、これらの解説によれば、内裏とか紫宸殿というのは安徳天皇に由来するのではないか、ということですが、九州王朝説論者は「これこそ大和一元史観に毒された妄説であり、実際は九州王朝の都があった痕跡なのだ」、と考えているようです。
ちなみに安徳天皇といえば、治承2年11月12日(1178年12月22日)に生まれ、寿永4年3月24日(1185年4月25日)にわずか8歳(満年齢では7歳)で、源平の壇ノ浦の戦いで史上最年少で亡くなった悲劇の天皇として有名です。
まあ、地名というのは古代に付いたものがそのまま残っているという保証は無いわけで、たとえ近世に付いたのではなく、古い由緒があるような場合でも、中世より遡れるかどうか、確たる証拠が残っていることは稀です。
さて、この大宰府近辺の由緒ある(?)地名「内裏」「紫宸殿」についてはどうでしょうか?
以下は次回に。

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