さて、大宰府にあるという地名のうち、「内裏」の方ですが、実はこのような地名は大宰府だけに限った話ではないのです。
長崎県の佐世保に「内裏山」という山があります。
しかも
このサイトによると、
「そこから福井川を挟んで500mの対岸に
内裏山がある。この
内裏山には、その昔『城』が築かれ、名を「直谷城」と呼ばれていた。
平安時代の末期より徳川の初期に至るまで460余年の間、松浦党一族「志佐氏」の居城であった。福井川を外堀にし、牧の岳を軍馬の牧場とした雄大なものであったと言われている。源平の壇のノ浦の戦いの後、
安徳天皇が一時ここに隠れ棲んだという言い伝えによって内裏山城と言われてきた城址一帯である。建設時期、創建者は明らかでないが、一説では鎌倉時代(13世紀中期)松浦氏の祖、松浦久の孫清の次男貞が築いたともいわれている。」
とあるとおりです。この解説にあるとおり、これも大宰府の内裏と同じく安徳天皇に由来するようです。
また、千葉県の房総にも、内裏塚古墳で有名な「内裏塚」という地名があります。
このサイトによれば、
「 旧野栄町にある
内裏塚は,
壬申の乱で破れた大友皇子妃の耳面刀自媛(かんなみひめ)の塚と伝えられる。
媛は,藤原鎌足の娘で,大友皇子に嫁いだ。天智天皇が没すると,子の大友皇子と叔父の大海人皇子が,皇位継承を巡って衝突した。かくして,古代日本最大の戦い「壬申の乱」(672)が起こった。大友皇子は敗走して大津で自害し,勝った大海人皇子は即位して天武天皇となった。
伝承によれば,媛は,従者と海路東国に逃れたが,舟上で病に倒れ,野手浜に漂着した。従者や里人が懸命に看護したが,媛は20歳の若さで病没し,この塚に手厚く埋葬されたという。」
ということですので、こちらは壬申の乱に関する伝承のようで、こちらの方が由緒は古いようです。
更には、門司にも「大里(だいり)」という地名があり、字面こそ大里ですが、これは
このサイトの「大里本町」のところにある解説:
「大里(だいり)は,太宰府から逃れてきた安徳天皇の行在所の跡である。」
とか、「大里」のところにある解説:
「太宰府を追われた
安徳天皇は,柳が浦に滞在した。御所神社大鳥居横には,平家の公達が都を偲んで詠んだ歌が刻まれている。「分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里乃 月をみるかな 経正卿」「君すめは ここも雲井乃 月なるを なを恋しきは 都なりけり 時忠卿」」
にあるように、これまた安徳天皇に由来するようです。
以上でわかるように、「大宰府」にばかり目を向けるから、ここに九州王朝の地名の名残があるように思うだけで、逆に「内裏」という地名で日本全国を探せば、そのような名前を持った所は、別に大宰府だけではないのです。
「そう思えば何でもそう見えてくる」の典型でしょう。
しかし、「なるほど、内裏についてはそうかもしれないが、紫宸殿はどうなんだ。内裏に比べると特徴的で、こんな地名は大宰府にしかないのではないか。」と思う方もおられると思います。
まあ、既に安徳天皇にまつわる伝承としても説明が付くのですから、九州王朝の証拠だという話にはならないのですが、実は、この紫宸殿については、より積極的に「九州王朝とは関係ない」ことが知れるのです。
これについては次回に。