前回は、与えられた理論 τ 上の高階の集合論 τ**
…* を用いると、初等的な数学はほとんど展開できることを説明しました。
実用上はこれで十分かもしれませんが、いちいち途中で理論を拡大しながら議論するというのはかなり煩わしいことです。
そこで、このような理論拡大が固定した理論の中で自由に行えるようにできたら便利です。
そこで、次のような考察を行ってみます。
τ項を第0階の項とよび、τ*項を第1階の項とよび、τ**項を第2階の項とよび、以下同様とします。
また、n が 1 以上のとき、第n階の項というのは {x|
R(x)} という形の項ですが、階数が異なれば、これらは記号として本来別の記号を用意しておかなければいけないので、区別のためにこれを {x|
R(x)}
n と書くことにし、また帰属関係 ∈ も ∈
n と書いて区別し、また τ**
…* も、その肩の * の個数を n として τ
n と書くことにします。すると、各 n≧1 に対して
(1) τ
n({x|
R(x)}
n) である。
(2) τ
n-1(
t) なら、
R(
t) と
t∈
n{x|
R(x)}
n は同値である。
が成り立ちます。
このような階層は、ちょうどラッセル=ホワイトヘッドの Principia Mathematica の体系と似ています。ただし、彼らの体系では、各階層ごとに変数の体系も異なるという約束になっていますが、我々の体系では変数はすべての階層で共通で、そのかわり存在述語記号によって階層を区別する、という方法を取っていることになります。
そしてこれが一番本質的なことですが、Principia Mathematica では、その哲学的な立場はともかくとして、その体系はいわば天下り的に与えられているのに対し、我々の立場は、ゼロから形式化の原理のみによって高階の集合論というものをなぜ考えてよいかという根拠が与えられている、という違いがあります。
すなわち、上記の (1) と (2) は、各階における冪理論の推論規則を改めて書き下しただけですから、
高階の集合論として独自の公理は何ら追加していません。
さて、ラッセルは、vicious cycle という概念にこだわった結果、
還元公理を追加したり、また通常の数学を展開するのに必要だからということで
無限公理を追加したりして、論理主義の立場からは導出できない公理を追加したことによって批判を受けました。
この vicious cycle というのは、いわば「ある階層における集合を定義するのに、まだ定義されていない(高階の)概念を使って定義することがラッセルのパラドクスを生んだ元凶だという考えに基づき、そのような定義を禁止するという思想ですが、そのために、それより高階の概念を使って定義したものは、実は既存の階層によって定義できるということを天下り的に決めてしまうのが還元公理で、これは現代的な立場からは、理論の
保守的拡大にこだわる、ということに相当すると考えられます。
この保守的拡大とは、ある理論に新しい概念を追加した新理論を考えるとき、その新理論のもとで証明された命題が新理論の新概念を含まないときは、もとの理論でも証明できる、という性質のことをいいます。
例えば、古典論理に対してε量化記号を追加した体系は、Hilbertのε定理により、古典論理の保守拡大です(これに対し、直観主義論理にε量化記号を追加する理論拡大は保守拡大になりません)。
2番目の例として、クラスの概念を持つ BG 集合論は、持たない ZF 集合論の保守的拡大です(同じくクラスの概念を持ち、BG 集合論の中のある制約条件を撤廃して得られる MK 集合論の方は保守拡大にはなりません)。
さて、我々の“形式化の原理”は、シンタクス的な概念を理論内部の概念に翻訳するという方法を「根拠がある」ということにしており、“根拠があり”さえすれば、保守拡大になっていようがなっていまいが全然気にしない、という立場を取っています。
ですから、vicious cycle など気にしません。ですから、還元公理のような“人工的な”公理ももちろん必要としません。
これに対し、無限公理の方はそうはいきません。
我々の体系では、まだ無限集合の存在は証明できませんし、無限集合が存在しないと自然数の集合が扱えず、まともな数学を展開することはできません。
しかし、上で与えた
高階の集合論を、再度形式化の原理によって理論拡大すると、満足のいく理論体系が得られるのです。
これを次回に解説します。