綾波レイ・・・”絆だから”=”新世紀エヴァンゲリオン”が問う人として生きること
あの文学的アニメ”新世紀エヴァンゲリオン”が、有線チャンネル(ANIMAX)で再放送されている。
先週ではもう22話(ミサトの恋人加持の死を暗示)まで来ていた。
当初はテレビ東京の子供用アニメの時間帯に放映されたらしい”エヴァ”だが、再々放送を見て改めて感じさせられるのは、それなりの大人じゃないと理解できない(年増コドモにも無理)、人生の深淵に関わる示唆に富んだ、つくづく深い作品だったなあということ。
こんな深い話を、わざわざお子様向けの時間を選んで放映した、テレビ東京というビジネスチャンネルのプロデューサーの感性の不可思議さには改めて脱帽する。さすがニッケイ系列、二流の政治家みたいに感性がガサツなんだよね。
もっとも、そうしたテレビ東京の、”どうでもいいさ加減”があったおかげで、日本アニメの文学的最高傑作である”新世紀エヴァンゲリオン”がこの世に生まれたわけで、”いい加減”というのもあながち否定すべきスタンスでないといえるのがおかしい。
おそらく他局だったら、こうあるべきというお仕着せがましいパターンにはめられて、作品の持ち味が殺され、説教くさい鼻白むクサイ作品に変質していたかもしれない。
ついくづく人生は、運命のいたずらに満ち溢れている。
”完璧でないからこそ魅惑の光沢を放つ”、そんな人生のパラドクスを、作品自身も体現する中で生まれてきた、”エヴァ”という作品の出生のいきさつも、その神話性をいっそう際立たせることに役立っている。
そんな”新世紀エヴァンゲリオン”という作品の子供向けアニメらしからぬ極め付けが、全編にわたってサブテーマとして横たわる”女という性”の艶かしさだ。
とりわけ19話では、その凝縮としてのエロスというものが象徴的に描かれていて、エンディングの声だけのベットシーンなんか強烈だった。晩御飯の仕度をするお母さんなんか、突然子供の見ているアニメ番組から、ミサトのあえぎ声が響いてきて、さぞアタフタしただろうなとほくそ笑んでしまった。
おそらく、作者は、”女という性”の持つ根源的なエロスの吸引力を、意識的に活用したのだと思う。
さまざまな登場人物の”女の情念”=”求める愛”というものをからませ、人間の宿命である”業欲”と”求め合う心”を感じさせることで、綺麗事で収まらない人生のベースを表現し、スタート地点とする。
そうした前提のうえに、”使徒”との戦いをとおして体現される”絆”=”無償に与える愛”へのベクトルを重ねたからこそ、”生きる根源的意味”という哲学的テーマを打ち出しながらも、説教くささを払拭することに成功したのだろう。
自称”おたく元祖”で、さぞ女性経験も少なかった男性であっただろう作者、庵野秀明氏だが、本当にタイプ違うのさまざまな女性のエロスを表現しつくし、性的本能を大いに刺激してくれたのには恐れ入る。
女性経験の豊富さを誇るヒルズの欲豚の側近連中(こましの宮)とか、スーフリ連中だが、実体験のなかった当時の庵野氏と比べて、どちらが女性の本質に近づいているかといえば、欲豚連中のほうがはるかに劣るのは明白だろう。感性の優れた未経験の洞察者のほうが、軽薄な実践者を凌駕するという、大いなるパラドクスがここにもある。
※
シンジ”綾波はどうしてエヴァに乗るの”
レイ ”絆だから”
エヴァ全編に渡って、登場人物のセリフは人生の示唆に富んでいるが、”ひととして生きる意味”を如実に語っていて、好きなシーンだ。
神の化身である使徒のコピーであるエヴァという生体ロボットは、人間の自我を具象化したものでもある。
つまりエヴァに乗って戦うとは、自意識を持って主体的に生きるということ。
頭で考えるタイプの思春期の僕にとって、”人は何のために生きるの?”というのは答えが見つからない難解なテーマであった。
そもそも最終結果への効率的合理的行動という短絡的視点でとらえたら、生きるとは、最終結果である死への到達を遅らせ、回り道していることに過ぎない。
何か成果を残すためというのなら、その成果が遠い未来に必ず消滅する事実を乗り越えられない。
機械的合理性、論理整合性でとらえた場合、納得いく解答が得られないのが、”なぜ生きなければならないか?”ということだろう。
ある意味成果至上主義では、うまく処理できないのが”生きる意味”というテーマである。
そんなわけで、思春期のころへ理屈の迷宮に入り込み、頭がこんがらがっていたわけだが、アルベート・カミュというフランス人の”シシュポスの神話”という短編に出会ったとき、妙にすっきりしたことを、今でも鮮明に覚えている。
頂上に着くと同時に、必ず落下する定めの岩を、黙々と運び続ける巨人。
結果だけみれば無意味な行為を続ける人生を背負わされた巨人。
だが、彼の人生は本当に意味がないのか?
答えはNOだ。
生きることを、理屈を超えて、体で感じれるようになったとき、人は自らの個としての消滅という宿命を甘受できるようになる。
不条理の壁を乗り越えることができるようになるのはそのときだ。
”そこに山があるから”みたいな理屈をこえたシュールな感覚。
そう、生きる意味は、論理的に導かれる結果ではなく、生きる実感を感じ取る過程、天の摂理に身を任す法悦感に存在するのではないだろうか。
新世紀エヴァンゲリオンでも、”何のためにエヴァに乗るか?””何のためにネルフで戦うのか?”という登場人物の自問シーンとして、生きる意味さがしが具象化されている。
シンジ”褒められたいから”
アスカ”能力を認めさせたいから”
ミサト”復讐したいから”
それぞれの登場人物の人生のベクトルが絡み合いながら、最終章へと物語が紡がれていくわけだが、エヴァ初号機に取り込まれたユイ(主人公シンジの母親)のクローン=綾波レイの”絆だから”という答えに結末が凝縮される。
完璧を求める父性と、不完全ゆえ愛す母性の対比、不完全な少年であるシンジという主人公の周りの女性が放つ女としてのエロスと情念、その対極にある惜しみなく与える愛である母性愛、そうした情愛が絡み合いながら、終末の時”人類補完計画”に向かってストーリーが紡がれていく。
そして”人は愛を紡ぎながら歴史をつくる”という主題歌”残酷な天使のテーゼ”に託された”諦念の上に立つ人類愛”へと収斂され、劇場版”AIR”のエンディングにつながる。
かってアニメでここまで深い文学的作品はあっただろうか?とエヴァの世界の深さに改めて感心させられる。
”もしも二人会えたことに意味があるなら
わたしはそう自由を知るためのバイブル”
(中略)
”人は誰も愛を紡ぎ歴史を創る
女神なんてなれないまま私は生きる”
(残酷な天使のテーゼより引用)
※
以前の記事でも触れたが、僕なりの解釈では、”ゼーレ”の”人類補完計画”とは、死海文書のシナリオに基づく人為的なハルマゲドンを誘発させることで、不完全な存在である人間が消滅し、神と一体化した完全な生命体として生まれ変わり、神の千年王国を築くことを目指すという、いかにも西洋的機械的合理主義に基づくものだったと思う。
そうしたゼーレに対して、主人公のシンジの父親である碇ゲンドウは、その計画実行者のフリをしつつ、別の創世記計画を計画したのだと思う。おそらくエヴァ初号機に取り込まれた妻ユイと二人で理想的な創世記のアダムとイブとなり、人類の新たな歴史のスタート地点に立とうとしたのだと思う。
しかし、天は、そうした人類の作為をあざ笑うかのように、そうした理想的な創世記は与えなかった。結果的に、自閉症のシンジと自己顕示欲が強いアスカという、不完全な二人に人類の未来を託す創世記を与えた。
劇場版”AIR"の傷ついたアスカの病室で、アスカの裸体を見ながらシンジがオナニーをするという意味不明のシーンがあったと思うが、シンジとアスカというように最悪の相性の組み合わせの男女が残ったとしても、エロスにより結ばれ、世代継承が始まるという暗示になっていたのかもしれない。
”人とは、か弱く不完全な生き物だ。不完全ゆえに求め合い、愛し合い、互いに助け合うことでこそ、命を輝かすことができる。”
”お互いに不完全ながらも、それを受け入れ、いかに命を燃やしつくすかが、人として生を受けたものの天命である。”
”お互いに与えられた天命をつくしなさい。”
自分にとっての理想的な形つくりから始め、結果にこだわる西洋と、自然の流れに任せることから始め、過程を重んじる東洋、どちらがいいということはできないが、どちらが好きか嫌いかはいうことができる。
おそらく作者は、アメリカ的な単純志向は嫌いなんだと思う。
新世紀エヴァンゲリオンは、”ゼーレ”として具象化されていたネオりべに代表される機能主義的アメリカ的価値観に対するアンチテーゼの物語だった気がする。

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