弱いもの相手だと田原総一郎という人は本当に意地悪だなあ。
先日の”朝まで生テレビ”ですごいシーンを見てしまった。
なんと田原氏、あろうことか福島瑞穂相手に、人格否定につながりかねないすごい質問をしていた。
”ぜひ聞きたいことがあるんだが、あなたは国の為に死ねますか?”
手馴れた人間なら”失礼だろう!何を期待してそんなことを聞くんだ!”
と逆に切り返して、話題を変えるはずだが、クソまじめの彼女はまともにその質問に答えようとして、おろおろしてしまった。
F”。。。。。”
F”国のためというのじゃなく、国民のためということなら、、、”
T”いいよ、国民の為で、あんたはそのために死ねるの?”
F”国じゃなく国民の為に全力を尽くします、、、、”
と、どぎまぎしながら応えていて、ものすごく気の毒だった。
その時の田原総一郎の顔は、一瞬残虐の笑みをよぎらせていて、この爺さんひょっとして”真性サド”かもしれんと思ってしまった。
”命を守ろう”というスローガンに重きを置いている政党の党首が、おいそれと”命を軽んずる”かのような返答はできまい、という読みに基づいて自己破綻のジレンマを演じさせようという、すごい意地悪な質問だった。
※ ※ ※
このやり取りを見ていて、本質的なことを思い浮かべた。
かって多くの日本人がもっていた”死生観”という”強力な”精神兵器”を、現代の日本人はどれだけ保有しているのか?
”すべての人は必ず死ぬ”
”死んだら天国も地獄もない、すべては無に帰する”
”イエスと共に復活できる来世”を夢見る欧米人と違い、日本の歴史でリーダーシップを担ってきた階層の人は、”すべてが無に帰する”という過酷な現実を受け止め、そこから逆算して”いかに生きるか”ということを見据えてきた。
だから結果より過程に重きをおく哲学を重視してきたと思う。
”生きる”とともに”生かされている”天命をいかに全うするか?
宗教教団の規範に頼らない、主体的な”真””善””美”へのこだわりはここから生まれてきたし、無駄な殺生を戒める姿勢もここから生まれてきたといえる。
しかし、そうした人生哲学は、”いかに生きるべきか”ということと共に”いかに死ぬか”ということを重ねる”死の哲学”をも育んでいく。
”武士道とは死ぬことと見つけたり””武士道とは死に狂いなり”
中世武士団ではごく普通に共有されてきた”過激な思想”であるが、先の戦争では、欧米人に恐怖を感じさせた”特攻自爆”として実現させられた。
これらは、欧米人が想像したようなマインドコントロールによる”狂人化”によるものでなく、日本側からしたら、より”人間らしい生き方”としての”死に様”だったといえるが、”自決”はある意味で、”天命”の”冒涜”である。
その意味で、当時の日本人が現在にタイムトリップして、現代の戦争に参加したとしても、”自爆攻撃”については”最終局面”まで”封印”されるべきだと思うし、その高潔な精神性は、より有効な戦闘力として機能させられると思う。
問題は、そうした重要な役割を演じるはずの高潔な精神性が現代の日本人に残っているか?ということにある。
福島党首の話に戻るが、彼女の”一生懸命力を尽くす”という返答は、”天命”より”私の命”を重視する響きに聞こえてしまった。
もし、アメリカ軍人に同様の質問を投げかけたとしたら、同じようでいて全然別な明確な答えが返ってきただろう。
”私は死なない、死んだら国のためにならないじゃないか”
アメリカ人の”個”と現代日本人の”個”と古の日本人の”個”、、、、
現代日本人は、アメリカに”個”の重要性を教えられ、”民主”的に育ってきたが、古より引き継がれたきた”天命”と重ねる日本古来の”個”を超克するどころか、”民主”の教育者である当のアメリカの”個”よりもさらに脆弱な”個”を育ててきてしまったのではないか?
”個”の立脚点である明確な人生観、世界観を捉えることのできない、魂の抜け殻のような”個”を大事に抱え、”死”を意識することなく、宙を漂うごとき”個”、、、、。
今日の日本の病理は、そうした魂の抜け殻に魂を注入することなく、抜け殻でしかない”個”までも、至上命題であるかのように形式的に重んじてきたんではないだろうか?
”天”と結びつく”個”の”魂”を注入し”命”を再生する、現代日本人ひとりひとりにつきつけられたテーマではないだろうか?今のまま、今後予想される”大不条理”の時代を乗り切れるとはとても思えない。
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