入った側の論理を読む。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html
真剣さは伝わった。ただ、気になったことがあった。「話し合い」=「敵の土俵」 というのは、多少なりとも闘いを経験した者なら知っているのである。
だから、大峯山側が話し合いに乗らなかったのは理に叶っている。というのは、「理性の言葉」だけなら、女人禁制に理がないと思われるからだ。真剣に女人禁制を守ろうとしているのだろう。
また、「話し合い」が守られなければならない正義であるかのような議論は、いかがなものか。
宗教というものは、理屈を超えた世界(擬制)を作ることがある。すなわちこの場合、女人禁制に反対する側と維持する側は違う世界に住んでいるのである。理性的世界が優勢(支配的)な俗世間の土俵に乗るならば、女人禁制側はあっけなく滅ぶであろう。
「それもやむなし」となってこそ、話し合いに応じるであろう。「話し合い」とは、お人よしの日本人が信仰するほど、優しいものじゃないのだ。その意味では、この先生は典型的なお人よしの日本人である。そして、その「善意」は万人に共有されるべきであると考えている点も、日本人的だ。にしては、悪意の感じられる質問書だ。
「話し合い」の「善意」を共通項として開かれたはずの三里塚円卓会議がどういう帰結になったかを左翼的な人は考えてみるとよい。相手が国家権力であるか、どうかの問題ではない。「話し合い」というものが開かれる状況の、論理的展開の問題である。世の中、乗ってはいけない話し合い(交渉)というものがある。宗教は、こういうことを何度も経験しているものである。だから、今回もマトモに話し合いをしなかったのではないか。ゲームとしては勝利である。
なお、登山についてはこの運動の参加者の殆どには責任がないと思うし、彼らの提起そのものは無意味なものではないと思う。ただ、宗教やっている人間(理性の外を見ようとする人間)から見れば、物凄く傲岸で抑圧的に見える行為であることは、知っておいてもらいたい。それでも女人禁制をやめさせようとすることは、提起するだけの価値はあろう。
人間は、理論に基づいた言葉=理屈ではなく、それを通じて感じられる言葉ならぬ「言葉」に動かされるからである。