「国という枠を否定するレーニン、国という枠に固執する日本共産党」
幻論
故あって、『背教者カウツキーとプロレタリア革命』をパラパラする。カウツキーが本当に背教者であったとは小生は思わない。今日、書いておきたいのは、レーニンの鋭い筆致で「他国の社会主義党派」を鋭く批判したレーニンのパトスと、チベット問題で何ら中共を批判しない(懸念だと?)日共のパトスの比較だ。
レーニンの時代、社会主義者は国境を越えた交歓とともに、イデオロギー闘争を国際的に行い、そして、間違ったと思うことに対する批判を他国の党派の指導部に対しても行なっていた。ローザ=レーニン闘争なんかが有名だ。遠慮会釈はない。社会主義者は国際主義者であり、その認識から国家という枠組みを実践的に否定=乗り越え ていたのだ。
方や日本共産党。コミンフォルム指令、中ソ論争などを経て、自主独立を言う。それはいい。だが、それを敷衍して他の国(家)の過ちについて、自分に火の粉が降りかからない限り、何ら批判しないというのは、国際主義の精神から逸脱している。これぞ、精神の一国主義とでも言うべき所作であろう。どうやらチベット問題について中共を批判しないのは(党員各位の多くはブログなどで中共を批判している)、そういう事情とのこと。
もしそうだとすれば共産党は国際的信義を失った。完全に失った。プロレタリア国際主義の旗を掲げる資格を失った。
そして、こんな党にプロレタリア国際主義を前提とする「共産党」の看板を掲げさせている我ら日本の労働者階級も、その力を問われるんだろう。共産党を変革するか、共産党以外に然るべき党を作るか。まあ、仏教徒なので小生がその動きに参加することはないが、気にはなる。