『マンガで読破 蟹工船』(小林多喜二原作、イーストプレス社)
連帯、団結、勝利! 小生の少年ジャンプ思考にピッタリの本。かなり語りつくされてきた本。何を書こうか。
まず、この本は古典的マルクス主義の論理的な荒々しさに満ちている。労働者分断のありよう、労働者が「酒」「女」「ばくち」に呪縛され、貧困に落とされること。これに呪縛されなくても、キッチリ型に嵌められて貧困に落とされる多数がいること。「地獄さ行くだ」と船に乗り込む。企業のファロス(権力としての暴力)を体現する現場監督は、ヴィオランス(直接的暴力)を行使する。最初は恐れる労働者。生命を蔑ろにすることを押し付ける監督。仲間の船が沈んでも救援に向かわず、見殺しにしてまで漁獲高を高めようとする監督。うん、ジャンプ的に分かり易いキャラだ。まるで北斗の拳のハート様。
そんな中、主人公森本は小舟の調査の中遭難し、革命ソヴェトの船に助けられ、プロレタリア団結というものを中国人に教えられる。(魂の篭った外部注入論)
プーシキンの詩を思い起こさせる
星火燎原を胸に、森本は仲間を募りストをアジり決起する。
立つなら今しかねェ 殺されたくねェヤツは来い!
これを受け、監督は帝国海軍に打電する。帝国海軍は弱い者の見方だと素直に信じる蟹工船の労働者たち。しかし、軍隊は労働者に襲い掛かり、森本たちを連行する。このシーンは、どうしても近日の出来事――日本の警察は日本人を逮捕し、中国人の暴行を黙認した長野での出来事――を思い出させる。民族の問題ではない。国家というグロテスクなものが何に奉仕するかを想起させるものごととして。(ここに二重の皮肉をこめている)。
帝国海軍もしょせんは資本家たちの下僕だったのだ!!
一旦は負ける。以前にも増して過酷な労働が襲う。そして、森本の意志を受け継いだ労働者は次のリーダー、昭幸に言う。
この程度のことでお前があきらめてしまったんじゃないかってよォ! 前回の失敗はよ 俺たちの人数が足りなかったんだ。今度は しっかりとみんなで力を合わせてやらなきゃならん
我らは寒く飢えたれど なお団結の力あり。しっかりと組織された労働者は監督に勝つ。監督は一銭も貰えずに会社から放逐される。
「組織」「闘争」―… この偉大な経験が僕たちに残された―… 皮肉にもそれを教えてくれたのは資本家側だったのだ
しかし、会社は残り、資本制も残る。射程を遠くに置くと、闘いはあらゆる軛を解放するために、次代を形成するまで続く。次代は永遠に続く。永続革命あるのみ。多分、多喜二の時代に夢想された黙示録的革命ではコトは足りないのだ。
さて、現代について。フリーターなどに多喜二が読まれているらしい。蛇足ながら、多喜二の時代との比較で現代的困難を書こう。蟹工船は労働や日常を通じて気心の知れた仲間が出来たであろう。しかし、現在は、携帯日雇いと言われるような状況で、分断は更に進んでいる。この状況については、以下の本が詳しい。ここまで読んだフリーターらに特にお勧めする。この社会のカラクリがここまで書かれた本はちょっとない。
『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』
http://red.ap.teacup.com/tamo2/165.html
その上で、やはり、団結の力しか働くものにしかない、と思う。団結の本質的困難については、以前ここで触れた。しかし、それでもなお、団結の力しかないのである。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/474.html
以下、思いつくまま。
・「植民地における資本主義侵入史」とあるが、北海道は植民地という認識だったのね。
・キャラメル3個で売春(ケツの穴を貸す)の哀しさをイジメ問題にするのはどうかと思う。
・しょっぱなの新聞は会社の非道を告発している。まあ、基本的にこの本もデフォルメであり、幻想文学なんだろう。しかし、徹底したデフォルメであるがゆえに真実を浮かび上がらせることに成功している。この辺が、多喜二の能力なんだろうな。
・最初にファロス・ヴィオランスと書いたが、ヴィオランスに対抗するには、ヴィオランスしかない場面があるのだ。ヴィオランスを通じてこそ、対抗権力としての民衆のファロスが作られるのだ。ネグリの言うとおり、暴力反対というのは、作戦として言う以上の意味を持たせてはならないのだ。(同じく、「平和」についても)多喜二の時代の共産主義者は明確にこの辺の事情を分かっていたと思う。今の共産党・・・あはは。権力者のファロスは黙認、ね。民衆のヴィオランスには反対、ね。どこが共産主義だか。
・さてさて、資本主義に負けた共産主義。「なにをなすべきか?」