帰省から帰った翌日の出勤日の早朝に危篤の報を受ける。
長期休暇明けのため、また早朝で電車がないので会社に出て関係各位に危篤とメール発信。普段なら上司に連絡を取るだけでいいのだが、このタイミングならば仕方がない。打ち合わせなどのキャンセルをするにはこれしかない。
社宅に帰ると死去の連絡。乗用車で帰ることも考えたが、GWもお見舞いなどで「休暇」ではなくしんどかったので電車にする。自動車のほうがよかった。こんなにばたばたするとは。喪主は兄で、兄は休む間もなかった。喪主は大変である。喪主の仕事を分捕ってやればよかった。
死んでしまうと嫌なことはあまり思い出せない。となると、父親に可愛がられてた非常に小さいことのことを思い出す。小生、幼稚園が大嫌いで、その反動かそれ以前のことをよく覚えているのだ。子供だから言葉が分らないので何も分らないと勘違いしている人は己を戒めたほうがいい。大体、理解しているから(おまけ)。
心残りは、父親が2〜5歳くらいに暮らしていた天津に連れて行けなかったこと。大阪に戻った時は標準語だったらしい。べたべたの地元の言葉をしゃべっている姿しか記憶にはないが。共産圏に「自由に」旅行できるようになったときはすでに遅かった。
近代理性主義に反した、あるいは「敢えて」反したことを言い続けてきた父親。フロイト的父親像なんかに全然リアリティーを与えなかった父親。洪水のような「戦後」に反発してきた父親は思えばすごいと思う。父親の言うことが少しだけだが「理解」できるようになったのは、これまた少しだけだが「構造主義」に触れたおかげだろう。父親は明白に違う「セカイ」に生きていたのだ。昭和歌謡大全(昭和45年)の戦前編を良く聞いていたことが思い出される。理性主義(ロゴス)を振り回す者に対する生理的嫌悪感は父親によってもたらされたと思う。ロゴスよりパトスなのだ。