TAMO2ちんの日常

思想の嵐 猛(たけ)るとも 正しき道を いざ進め 

 

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投稿者:招き猫
補足、あるいは調整

>>
>理性、感情、ロゴス、パトスなど

ナショナリズム、共同体、おとう・おかん
これらは理性/感情の彼岸に位置するものだと思うんですよ。
>>

親は選べないし、構成されない。プラクティカルには教育できるものでもない。

でも、国家なんて選べるんですね。
物質的なものは親と同じでしょうが、体制やシステムは常に更新されるべきものです。

親子の延長で地域共同体や国家を同一視(という錯誤)させる企みは要注意です。

ご遺族として、まだまだこれから本当の喪失感を重く受け止められるであろうということを承知した上でくだらんことを言ってます。

心労に追い討ちするド阿呆をご容赦ください。
投稿者:草加耕助
生前になんらかかわりをもたなかった者として、形ばかりのコメントを返す事は、かえって心がないような気がしていました。それでこういう時、いつも無視したような形になってきたものです。

ですがそれも自分へのこだわり、平たく言えば「ええかっこしい」だったと思います。

御尊父の御逝去の報に接し、衷心より御冥福をお祈り申し上げます。

http://bund.jp/
投稿者:保護者
出張中で、反応が遅くなってしまって
申し訳ないけれど、御尊父のご逝去を衷心よりお悔やみ申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。
ご会葬に参列できなかったことも、重ねてお詫び申し上げます。
投稿者:招き猫
続き

平たく「あばたもえくぼ」とでも言いましょうか。ならば、感情だということになるというのがちょっと違います。
感情は結果です。起源は「おとん・おかん」だからです。これはもう物質的なものでしかない。一つのフェティシズムとは言えるでしょう。一つの倒錯に違いありません。

殺人犯であっても、やはり変わらないというようなもの。でも、血のつながりがないと分かると落ち着かなくなるようなもの。育ててもらった恩義とは別に、血を探してしまうようなもの。

北朝鮮の人のも愛国心はある。それは政治体制や経済事情が比較していいからというわけではない。
北朝鮮の人が、貧しくて食べるものもないけど文化的には誇れるという自負から愛するなんていうことはない。
もっと、絶対的なものだと思うんです。

歴史で驚愕するのは権力争いの場では親子で殺し合いなんて普通ですよね。
昨今の子どもを虐待する親とか、親を殺す子どもとか。
そういうものはすべて、理性/感情が絶対性を比較級で見てしまったんだと思うんです。

ratio → rational
理性的であるとは「比」を見るということになるんです。

おとん・おかん これは感情的にはすかんことも多い。受け継いだ嫌な部分を自覚すると気持ちはすこぶる不愉快なものです。

私の おとん は理性や感情なんて知らない。知らないものは意識されない。そんなものを知らない存在でも/だからこそ見出す何かでしょう。

理性や感情で 父 を後付で捏造してはいけないと思います。そして、背中はそれを拒否していると思えるのです。その強度、その絶対性だけでいいんだと教えてくれるんです。
投稿者:招き猫
>理性、感情、ロゴス、パトスなど

ナショナリズム、共同体、おとう・おかん
これらは理性/感情の彼岸に位置するものだと思うんですよ。

日本が物質的に豊かであるとか、それとは反対に「無常」むにゃむにゃとか、そんなことと日本を愛することとは関係ないと思うんですよ。
ただただ、日本に生まれたということだけにすぎない。それを軽んじ隠蔽し美化することには反対です。嘘だからです。

日本に生まれたから、昔のポストモダンである無常なんていうのを大事にしようと画策するだけのことです。

日本なんて、そんな文化ではない。政治体制でもない。もっと物質的なものだと思うんです。

おとん・おかん も一緒。
おとん・おかん だからムニャムニャはあるけど、その逆は何もない。選んだわけでもないし、構成したわけでもない。
投稿者:TAMO2
あ、そうそう。

猫同志:理性や感情は多くのものを既に捨て去っていると思います。

これは、意識された時点で、ということでしょうか。人間の脳みその業って奴かなあ。


猫同志:単に別のロゴスということであって、パトスではないと思います。

これは、難しいですね。そうかも知れないし、「理性は感情の奴隷」というドストイエフスキー信者からすれば、そうでないと言いたい気持ちもある。で、上に戻る(爆)。
投稿者:TAMO2
「近代のイヌ」の話を少し書きますと、戦前日本を知るお年寄りの幾人かは「戦後になって、皆戦場を職場に変えて闘っただけ、全然平和に見えない」と仰ります。だから、「平和運動」なんて欺瞞、だと。

近代の運動は、苛烈な資本主義の競争を齎し、それにおける勝者たらんことを成員に強制します。

小生思うに、福沢諭吉(偉大な人ですが)らに代表される日本の近代主義ってのは、戦後に本当に血肉化(庶民の内面に秩序化)したんじゃないかと思います。考えようによっては、軍国主義なんかよりも恐ろしいことです。
投稿者:TAMO2
近代の呪縛。これは重い、重すぎる課題です。最近流行のマルチチュードも、それを乗り越えようとして、今のところ完全に失敗していますね・・・、と、仰山党糖酒が言っていいのか?


近代が齎した明治日本。それは昭和の初期に近代の超克を目指し、挫折した。そして、近代のイヌとなった。

小生、ブルジョアの末裔であるがゆえに、戦前の中に残っていた「のほほん」とした日本の残り香を感じて育っているんです。ここでは詳細に書けないのがもどかしいですが。で、わが父は「己に甘く、他人に甘い」昔かたぎのブルジョア(江戸時代から続くブルジョア)の気質を残していたんですよね。それは、反近代というよりも、近代以前の体質であったと言うべきかも知れません。
(続)
投稿者:招き猫
追記

>>
「戦前」をもたらしたのは近代理性主義ってのはそのとおりなんですが(苦笑)。
>>

看過していたわけではないんですが、釈迦に説法したかっこうになりました。すいません。
投稿者:招き猫
続き

私はここを離れることをしません。しかし、理性や感情が肯定しているからとは言えません。理性や感情は多くのものを既に捨て去っていると思います。

例えば、仕事のためにここを離れるということを考えません。そうすれば、もっと楽になるのにとは思いますけど。

ここを離れないということしか父や母にはできない。そうとしか言えません。先祖から引き継いできた猫の額ほどの田畑はもう私の代で終わるでしょう。何もしませんから。共同体においてはその一番後ろから付いて行ってるだけです。

私の父はPCを触りません。見たこともありません。しかも、何も守っていません。
その物質的重さの苛立ちから離れることができません。正気であるために必要な物質を感じるからでしょうか。

表現は異なるでしょうが、同じようなものをたもっちゃんも感じていることでしょう。
たもっちゃんのお父様の話をまたゆっくりとお聞かせ下さい。
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