『ゲバルト時代』(中野正夫著、basilico)
革命運動ってのは、社会のおかしさを「感じ」ることから参加する。これは理性的というよりは、感性的なものである。但し、そのような感性という個人的なものの集積だけでは、現前の権力を打倒し、権力を奪取するという政治革命の本質を果たすことは出来ない。そこで、理性的な集団的存在を必要とする。それが党である。但し、『素描 1960年代』が端的に示したように、集団的な存在というものは「自由のために、一旦自由を放棄する」作業を要求する。そこには個人を一旦潰す宿業がある。無理を要求するのだ。
問題は、指導者が構成員に無理を要求しているという自覚があるかどうかだ。この本を読む限り、そんな自覚はなかったようだ。そして、そのような指導者には当然、大衆や党員はついて来ない。いや、ついていけない。この本で「革命ごっこの親玉たち」と揶揄される指導者もまた、無理をしていると小生は思うが、そのような無理を根性主義(B29に竹やりで! という軍国主義の末裔だね)で突破することを下部に要求した。まあ、かような悲惨が連合赤軍に暴発したのは後段の話。
当たり前だが、党派選択は個人的つながりと好悪の念で決まる。各種イデオロギーは理性的な言葉で書かれているが、その理性の言葉ってのは、今や好悪の念で選択される、ということは常識にさえ属する。まあ、そんなイロハも分かっていないマルクス主義者(残念なことに日本のマルクス主義の最大多数派である日「共」など)も一杯いるので、結局は日本においてはマルクス主義は大衆に受け入れられないのだが。この本の著者は、単ゲバ大好きお祭り大好きな人とお見受けした(笑)。でも、それでいいんじゃないか。人が集まるとはそういうことである。
そして、若い男女がワキャワキャ集まって、しかも夜集まるとなれば・・・。子作りに励んだりする。実際に出来たら大変だが。面白かったのは次の話。ある女性が著者を誘った。しかし、その女性が著者の好みでなかったので手を出さなかった。すると、スパイじゃないか、と噂された話。まさに、好悪の念やらが理性的なコトバを凌駕しているのだ。ところで、実際、著者は子供を作ってしまい、結婚することになる。革命運動というお祭りの実相は、そこら辺にいる欲も理想も侠気も狂気もある人間がやっていた。濃密な時間・空間があった。
さて、この本は端々の言葉が面白くて考えさせられる。抜書きで思ったところを書こう。
私は、戦後現代史を乱読するうちに、日本共産党を中心とした戦後の左翼運動・労働運動の末端活動家の切り捨て=使い捨て、一方的査問、除名の連発と、党官僚の責任逃れのひどさに信じられない思いを抱いていたから、日本共産党を信用していなかった。
(中略)
「天皇陛下のため、国のため」の裏返しに過ぎない「革命のため、労働者のため」を大義名分に、なんでもありの左翼官僚ども、労働官僚どもの言動には反吐が出た。(p49)
『日本共産党』(筆坂秀世著)などを読むと、50年近く経っても日「共」は何も変わらない。そして、ネットやリアルで伝え聞く新左翼や社会党(社民党)も。
これに関する話(長いので抜粋はやめ;p65、日帝の被害者=中国はチベット・ウィグルなどに対しては侵略者だ)
http://www.geocities.jp/tamo2_2/toushu_jikkenbeya/sharon.html
のあと、
認識論的な自己変革なしに世界を捉えようとすれば、必ず自らの属する時空の市民社会の自我意識=エゴに足をすくわれる。(p65)とある。この本の冷めた認識の基調はこの言葉で表されるであろう。なお、笠井潔の名前が出てくる。『テロルの現象学』と『国家民営化論』を読め、と推薦している。
何の効果もない社共との共闘より、三派と組んだ方が実力阻止できると、現地農民も認識を新たにしたのだろう。(p86) リアルの革命家は暴力の効果、「暴力は人間の一部である」(A.ネグリ)を良く知る。社共よりも三里塚農民のほうがリアルなのだ。ただ、革命ごっこの親玉たちは、同時に暴力の限界を知っていたのか??
この頃はまだ致命傷や重症に至るまでは殴らない。倒れて抵抗しない警官は殴らないという、人間としての最低限のモラルというか「武士道」があって、倒れている警官を興奮してまだ殴る学生がいると、「もう、やめとけ!」と止める学生の方が多かった。(p89)
ただ、マルキの側はそうでもなかったようだ。そして、暴力の応酬は今後エスカレートしていく。
日大闘争、日大全共闘に対する惜しみない賛辞が贈られている。なお、右翼学生と全共闘の不思議な共感と共闘に至る話、どこかで読んだが、忘れた……。
結局、「プロレタリア独裁」「世界同時革命」「反帝……」などと、党派の指導者が空疎なカラ念仏を言ったところで、そんな理念やイデオロギーによって動く学生はいないのだと思った。大学当局の使途不明金、不正経理追求をする普通の日大生が、右翼暴力団と機動隊の暴力に性根を据えて対抗すると、これだけ強くなれるし、暴力にも立ち向かえるという現実を私は日大闘争で実感した。「暴力」には「暴力」をという必然性である。
それに対し、
あらゆる暴力否定のエセ「市民主義者」「平和主義者」の言説は、結果的に現状肯定となり、現実に何も対抗できない自己満足、自己陶酔に酔っているだけだと思った。それだけのインパクトが日大闘争にはあった。(p122)
デモシカ教師生産に加担する日「共」(笑)。
教職員組合も日共が強く、自ら指導できない生徒個人の処分には知らん顔で、日共色べったりの上からの政治闘争方針や組合内部闘争方針を上意下達するだけ。雰囲気や流れに弱いのは日本人の常。組合の流れと異なる意見を言おうものなら反組合分子であり、教育委員会に盾つこうものなら処分されるのが普通だった。その結果生まれるのは、年金・退職金目当ての無気力な教師ばかり。(p124)
実際に革命が成就した運動は、党派の思惑を超えて発展する。新宿騒乱もその芽があったようだ。凄い。「プロ」がいなくなった後、群集が暴れたらしい。
全体の逮捕者は一〇二〇名に及んだが、早く消えた学生より一般の野次馬の方が逮捕者が多かったという笑えない話が示すように、この時の新宿での野次馬は量的にも質的にもすごかった。(p140)
チョッパリの会の頃。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/808.html
ゴールデン街には赤塚不二夫さんがいて、いつも泥酔状態だったそうな。
共産趣味業界(?)では有名な赤軍派と京浜安保共闘(革命左派)の野合。近くにいた人の見解。この野合が、日本左翼独特の観念論で突き進み、どうなったかは書くまでもない。
基本戦略は、赤軍派が「世界同時革命」、革命左派は「反米愛国」であり、どこがどうつながるのか今もって理解できないが、革命の本質を忘れた武装ゲリラの路線追求のみに眼がくらんだ結果だろう。結局、亜流の指導者というのは、指導者の本質を理解できず、形式と誤った論理ばかりをまねる。(中略)
共同体や党派集団には、それぞれ一種独特の雰囲気のようなものがあり、それが将来的に何をもたらすか、どういう結果になるか、直感的に理解できない者は政治活動には全く向いていない。(p203)
それにしても、森恒夫と東条英機、被るなあ(爆)。
著者は末端に無理を押し付ける日本的体質そのままの赤軍派に嫌気が差しつつも、第四インターの根城(まっぺん同志!)、芝浦工大の寮を根城に活動をする。やっぱりこの箇所はこれでしょう。熊野寮も同じだった。この辺に、カール・シュミット的な枠を超える何かがあると思う。
第四インター系の寮生諸君も、ヒマな時は政治論議抜きで(マージャンに)参加し、交流(?)を深めた。「あいつは敵だ。敵は殺せ!」の世界ではなく、「あいつは敵だ。でもマージャンやろうよ。やれば味方だ!」の世界なのだ。(p230)
そういう緩さを許さない観念化された世界である連合赤軍では、著者をこの時期にオルグしたりした仲間が粛清される。
二年後、浅間山荘の銃撃戦の後、埋められた者の中に遠山と行方の名前が出てきた。それからしばらくは、本当に自己嫌悪と永田、森への「なんてことをしたんだ!」との思いで一杯だった。あの時芝浦寮でオルグられていたら、私も山の土の中だったかもしれないという無常さ。人生、運命は紙一重ということを初めて実感した。(p233)
ちょっくら長くて面白いので、別の所にメモメモ。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/814.html
著者は段々と運動からフェードアウトする。
「革命」は希望がありかつ面白くないと成就しない。またそうでないと、その規律に人々は付いて来ない。(p246) 失われたのは何か?
しかし、著者の「気分〜論理」にしては、やや不思議な文章が。三島の切腹という話を聞いて。三島の死は観念の散華を思うのだが。刃を自分に向けた点は評価できるが……。著者もやはり日本人ということだろうか?
私は、その昼のニュースを見た後は仕事にならず、夕方まで仕事をやるフリをしながらボーっとしていた。「やられた、負けた!」と思ったのだ。(p267)
三島はクビまで介錯させるというものすごさで、決意に関してとにかく負けたと思った。(p282)
気持ちが運動から離れつつも、著者は高村さんという人への義理と人情で最後のご奉公、RG派に働きをする。しかし、RG派の組織論は、もう、所謂レーニン主義の悪しきところの凝集体。皮肉を込めて以下のように書く。
RG派のリーダーである榎原均(本名=竹内毅)の売りは、宇野経済学批判とレーニン主義的前衛党組織論だった。党内では口癖のように「情報の集中と機能の分散」という原則論を繰り返し、些細なことでも情報は集中させ、下部組織は党の指令をそのまま忠実に実行せよ(=機能の分散?)と徹底していた。しかしそのため、自分で判断する能力のない上意下達官僚が跋扈する羽目になった。(p284)
で、資金作りとして、全く絵の描けていない大麻売りを下部に押し付ける。それを周囲に押し付けた著者も相当なものと思うが、それはともかく。
私は呆れた。RG官僚は情報と金は吸い上げるが、任務は「機能の分散」という大義名分により下っ端任せ、お偉いさんは「突っ込め!」と掛け声はかけるが、突っ込むのはいつも末端の一兵卒。下っ端を切って責任を回避して、最初に逃げるのはいつもお偉いさん。旧帝国陸軍や日本共産党、現在の政府の高級官僚どもとなんら変わりはないのだ。(p295)
そんな組織が上手くいくはずがない。
本来なら、逃亡者が次々と出るような組織であるということは、党の政治局の幹部が自己総括するべき問題なのだ。批判の刃を自分に向けない党派的体質=官僚体質に、もういい加減、愛想が尽きた。(p309)
著者は厳然たる唯物論に行き着く。赤字にしておこう。細かいことを言えば、レーニンの能動主義を否定していない小生は若干異論があるけど。(意識=物質は相互連成と思う)
自己の論理回路を点検できない無自覚な頭脳が現実を変えるのではなく、「革命」とは現実が現実を変えるだけのことなのだ。我々は、その契機となるちっぽけな導火線に火をつけるだけ。諸個人の「死」とか「思想」という主観とは関係なく、現実が崩壊し、新たな混乱が現れ、その契機を行動的ラディカリズムで乗り越えて、新しい体制を作ることができるかどうかが「革命」の分水嶺なのだ。(p311)
そして、たまたま一緒にいただけと言える女性活動家のゲロから、著者は逮捕される。そしてお勤め、出所後、子供や奥さんと生活し、理工系出版社に勤め上げる。
何か、無茶苦茶なメモだな。それにしても、「日本人」批判《クリティーク》だなあ。とはいえ、最後は日本人がついに身に着けなかった民主主義批判ってのも、面白い。p380の注1より。民主主義の危機のときの「民主主義を守れ」という叫びはは虚空にこだまするしかないのだ。
近代市民社会では政府機構に限らず、あらゆる集団は自己目的化し、必然的に利権集団に転化する。(中略)集団として自己批判を繰り返し、脱皮を試みることはありえない。(中略)
近代の国家は責任を回避するために、民主主義という擬態を取るが、現在の政治は隠れた裏原理で動いていることが多い。本来民主主義とは、一種の便宜主義なのだ。(中略)
つまり国家による普遍的な意思として、時間的に迫りくる現実に対応するために、便宜的に投票などの民主主義の形を取り、とりあえず多数決(投票)によって政策を決め、その選択の結果を大義名分として大衆(投票権者)の責任にする、壮大な無責任主義の出現だ!(中略)特に日本人の場合、その責任追及には伝統的に寛容である。(中略)
政治家にせよ革命家にせよ、権力に携わる者は責任逃れの「大義名分」を得るために、カリスマ性やマスコミを使って大衆の情念と力をつかむが、「民主主義」の擬態を取るのは共通している。そして世界的な資本・金融制度と現実のバランスが崩れた時、「革命」や「恐慌=バブル崩壊」や「戦争」に転化していく。
リベラリストの泣き言にも関わらず、危機の20年@カー はやってくるのである。個人の情念を纏め上げ、ケツモチをする連中はやはり、湧いてくるであろう。革命運動の親玉たちのヘタレっぷりを乗り越えるには?