TAMO2ちんの日常

思想の嵐 猛(たけ)るとも 正しき道を いざ進め 

 

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投稿者:一兵です。
TAMO2様1971年に、スターリンのただ物論を、人間個人の主体性から批判した梅本さんの主張に対して、「バラキン」さんはこう批判してはったんです。

弁証法的唯物論と史的唯物論について
http://www.geocities.jp/mlismtxt001/kokuminbunko205/p096.html
 「弁証法的唯物論は、マルクス=レーニン主義党の世界観である。それが弁証法的唯物論と呼ばれるのは、この世界観の、自然現象の取扱いかた、自然現象の研究方法、これらの現象の認識方法が、弁証法的であり、またこの世界観による自然現象の解釈、自然現象の理解、その理論が唯物論的だからである。」

<弁証法的唯物論は、マルクス=レーニン主義党の世界観である。>
この思想を批判した、「梅本の場合には「世界観というものは簡単にいって人がそこに死んでいい理由のある場所である」(『人間論』P212)とされ、梯の場合には、「我ら今此処に如何に生くべきかという人生観、あるいは実践原理としての世界観」(『ヘーゲル哲学と資本論』P17)とされるのを見てもわかるように、かれらにとっての世界観とはいわゆる人生観にしか過ぎなかったのであって・・・・。このような世界観は、何ら共産主義的な世界観ではないのであって・・・。
・・・・・・・・・・・・
共産主義とは「現実を止揚する現実の運動」であり、すなわち革命的実践であるというマル・エンの規定を我々は継承する。(『共産主義』15号P90「A黒田方法論・弁証法の批判――戦後主体性論論争の総括」――榎原均)

「個は全への背反においてのみ個である」との梅本さんの主張の意味は、獄中18年組の「マルクス=レーニン主義党の世界観」の敗残を、主体性論者の人間「如何に生くべきかという人生観」あるいは、<人間如何に死すべきか>から批判したものであったのです。

「生産様式は、このような取得形態の前提を廃棄するにもかかわらず、この取得形態のもとに置かれるのである〔*〕。」

これは、いわゆる生産の社会的性格と取得の私的性格との矛盾ですよね。この見地からすれば、労働組合は、生産の社会的性格を代表できるのだが、私的所有されているために社会主義の生産様式に移行できない・・・ということになる。これでは資本の意志を克服した協同組合労働を組織することなぞ――問題外であることになるのではないでしょうか?
投稿者:一兵です。
TAMO2様おかげさまで、スターリンの文献から次のところをメーッケ

http://www.geocities.jp/mlismtxt001/kokuminbunko205/p048.html
 『無政府主義か社会主義か?』
三 プロレタリア社会主義
歴史は、所有形態が直接に生産形態に依存していることをしめしている。その結果、生産形態の変化にともない、おそかれはやかれ所有形態も不可避的に変化する。
最後にやってくる時代は、数百数千の労働者が一つの屋根のもとにあつまり、一つの工場で共同の労働に従事する大規模な資本主義的生産の時代である。ここでは諸君は、各人が自分本位にやる、個別的な古い仕事を見ることができない、――ここでは、ひとりびとりの労働者と各職場の全労働者が、自分の職場の仲間ならびに他の職場と、仕事のうえでしっかりと結合されている。どの職場かが仕事をやめさえすれば、全工場の労働者の仕事がなくなる。ごらんのように、生産過程が、労働が、すでに社会的性格をおび、社会主義的な色あいをおびてぎた。個々の工場だけでなく、あらゆる生産部門でも、各生産部門細互のあいだでも、こういうことが生じている。

工場の意志は、工場長に代表されますが、それは資本の人格化である限りのことですよね・・・商品の生産過程が、剰余価値ばかりでなく資本を生産しなければ、資本―賃労働関係の再生産もなく、拡大再生産に基づく資本制的取得法則の転変も無いのですから、自己労働にもとづく所有の廃止も無い?・・・ことにならざるをえないのです。この肝心な《資本を生産》することに意志支配されての
「ひとりびとりの労働者と各職場の全労働者が、自分の職場の仲間ならびに他の職場と、仕事のうえでしっかりと結合」・・・・の外見がスターリンには見落とされているのです。工場の労働者集団の意志が、資本の意志の下に集中される・・当たり前のことを見落としているのです。
投稿者:一兵です。

梅本克巳さんはこういってはりましたと。

「個は人間と起源を同じにする。しかし、個は全への背反においてのみ個である。これは人間を個人性と社会性との否定的統一に見る現代倫理学の根本的前提であるが、この人間規定とマルクシズムの人間規定とはどう関係するか、それを見ようというのである。」(『唯物論と主体性』P52梅本克巳)

主体性唯物論の規定――「個は全への背反においてのみ個」これでは、社会的諸関係の総体としての人間というマルクシズムの出発点がわやくちゃではありませんか。W−Gの人格化として現れる人間なのですが、それは、物と物との関係として現れる物神性によって、A・スミス、リカードの把握のように、自然的超歴史的存在、完成された存在・歴史の出発点としての個人として現れるのです。
(経済学批判序説に、「歴史の結果としてではなく、むしろ歴史の出発点として、」の猟師や漁夫と、スミスをマルクスさん批判しています)

近代人が、《物象的依存の下での諸個人の独立》であるのですから、貨幣関係に象徴されるように、「自由平等」な完成された諸個人として現れているのでした。だから、物と物との関係として現れる貨幣関係が、幻影であるように、「個は全への背反においてのみ個」という把握も現象である幻影を表したものなんですね。
経済学的諸範疇の人格化としての人間なのですから、賃労働の人格化としての労働者として自らを規定できて、始めて、歴史的主体としての労働者階級のなかに自らを規定できると思うのです。これが、ブルジョア的個人を批判する「世界貨幣」を表すに至る資本論一章〜三章のテーマなんですと言ったら驚くでしょうが・・・そう位置づけてこそマルクスの課題が鮮明になると思うのです。世界貨幣の下での近代的個人なのです。

梅本さんは、獄中18年組のスターリン経済学への依拠を、批判する視点を構築できなかったのですね。ソ連社会に残存した商品・貨幣を批判する視点をもちえなかったのです。物象的依存は意識を支配しているのですから、その克服は、全世界的な協同組合労働に基づく個人と全体の矛盾の克服としかありようが無いと思います。
投稿者:一兵です。
>「そんなものかなあ」と思います・・・・・について

中野さんの次の主張
>つまり国家による普遍的な意思として、時間的に迫りくる現実に対応するために、便宜的に投票などの民主主義の形を取り、とりあえず多数決(投票)によって政策を決め、その選択の結果を大義名分として大衆(投票権者)の責任にする、

これは、議会制民主主義に対しての行動的ラディカリズム・直接民主主義ではないのか?これは、「連帯を求めて孤立を恐れず」・・・の全共闘の論理そのものであるはずです。帝大解体・大学解体とは、労働力商品製造工場解体なのですから、今日の言葉で表せば、「社会革命」なんですよ。

日共の民々革命に対しての新左翼の左翼急進主義が、社会革命を実行するところまで辿り付いたことを、中野さんは教えているわけです。そのことではTAMO2様も合意できはるはずです。そしたら、もはやブンドの政治過程論的指導・階級形成論が破綻しているのも明らかなわけです。日共の社会発展の法則と位階制の党組織への批判が、新たな視点から取り組まれなければならないはずです。
それを、
>RG派関連については「そんなものかなあ」と思います。
――それでは、自らの主体性がどこかへ飛んでいくのではありまへんか?

総括点の第一歩は、党宣言の次の立場であります。

『共産党宣言』
http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen4.html
☆ 四 種々の反政府党にたいする共産主義者の立場
・・・ 共産主義者は労働者階級の直接当面する目的と利益とを達成するためにたたかうが、しかし、現在の運動のなかにあって、同時に運動の未来を代表する。

「運動の未来」が、労働者階級の経済的解放を目的にすること、この点から、第一インター一般規約に書かれたように、政治権力の奪取は、そのための手段――と階級闘争の原則を主張したのです。

しかし、原理原則をいくら述べたところで、現実に適合させなければ画餅でしかありません。
それを、
>「他者が自分をどう評価するか」・・・・という。
いかにもそのとうり、破産したのです。
しかし、その謂いは、「愚考山を移す」事なんぞ出来もしない・・・・ということになるのではありまっせんか?
投稿者:tamo2
あ。そうだ。著者にメールしよう。極右としては(爆)、三島評価が気になる。
投稿者:tamo2
それにしても赤間道夫先生は優しいなあ。
http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080731/1217498895

「つまらぬ屁理屈」と謙遜しているが、本音だろう、ということ、そして、著者が今でも革命を窺っているであろうと小生も思う。
投稿者:tamo2
一兵様、こんばんは。

100部しか全国で売れていない(と、発売筋に近いところから聞いた)雑誌のことはともかく、著者を信じるならば、指導部の「旧来の指導被指導の関係の転換」が末端まで貫徹されなかったことは、この本に記されている通りでしょう。

レーニンは「自分が自分をどう思うか」ではなく、「他者が自分をどう評価するか」で自分を評価すべきだと言います。バラキンさんたちにはこの言葉で十分じゃあないでしょうか。勿論、この本の評価が全てというわけではないでしょうが、RG派関連については「そんなものかなあ」と思います。
投稿者:一兵です。



主観主義、単ゲバだけの「行動的ラディカリズム」の中野正夫というお方の、
の悪弊を見抜いてくださいよ、TAMO2様。
中野はいう――
>諸個人の「死」とか「思想」という主観とは関係なく、現実が崩壊し、新たな混乱が現れ、その契機を行動的ラディカリズムで乗り越えて、

68年の叛乱が、スターリン主義と対決し乗り越えての革命運動であるのは、それと対抗しえた政治路線・思想があればこそであって、
>諸個人の「死」とか「思想」
では無いのは明白ではありませんか。
『情況』誌の2008年3.4月合併号に、中野正夫が所属したころのお話しを、榎原さんと八木沢さんその他2名で対談しています。TAMO2様は、この対談を読んでいないでしょう。
そこに述べられているように、政治局=軍事委員会 RG=政治軍隊が何故主張されたのか?ここから、必然的に旧来の経営細胞論的な党観の革命が要求され、末端の党員でさえ階級闘争全体の指導を考えることをこそ中央集権主義とする、旧来の指導被指導の関係の転換があったのです。
>「情報の集中と機能の分散」
ではなく、党中央に対する責任の地方分散化――というのがそのことであり、中野正夫は、その第一歩をも獲得していない人物になりませんか?烽火派とRG派との区別がどこにあるのか?情況誌の対談から、TAMO2様は判読できる筈です。中野正夫のように、
>自己の論理回路を点検できない無自覚な頭脳
すなわち、全くの清算主義、投機主義が、彼の所属したRG派ですか?

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