転載許可が出たので、転載。まずは小生のメール(やや小さい文字)から、そして、中野様のメール(普段より大文字)
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前略
はじめまして。愛媛県新居浜市在住のTAMO2と申します。1965年生まれで、1980年代後半からしばらく共産主義運動に関わっておりました。そういう経験から、貴殿の『ゲバルト時代』を先輩たちの体験記として興味深く読みました。
概ね共感し、納得して読み進めることが出来たのですが、一つだけ引っ掛かっていることがあります。それは、唯物論的認識に到り、観念論的な日本左翼に愛想を尽かしつつあった貴殿が、日本左翼の観念論と好一対と言える三島由紀夫の切腹に「やられた!」と思ったところです。
勿論、人間の思いは矛盾しており、論理整合的なものではありません。それにしても、と小生は思うのです。唯物論を選択しつつも、観念論に呪縛されたのか、あるいは、論理を超えたところの感情の世界によるものなのか。年齢を重ねられた今、どのように考えておられるのか。読者として思うところは尽きません。
蛇足かも知れませんが、小生は三島由紀夫は好きです。彼の西欧コンプレックスは、日本に強く刻印されていると思います。
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さてご質問の三島由紀夫自決の叙述の箇所ですが、その部分は当時の心情をそのまま表したつもり
です。当時の私の心情の流れとしては、次のように思い出されます。
まず10・8羽田闘争で山崎博昭君が死んだ(殺された?)ことについて、彼の遺品の中に、哲学書や実存系の書物があったことから、私と同じような読書傾向があったことに共感し、事故ににせよ警察の撲殺されたにせよ、まさか彼は自分が死ぬとは思っていなかったはず・・・・人の運命は紙一重だなあという無常観を始めて体験しました。
それから三島由紀夫の著作は三島が死ぬまで私が読んだものと言えば、「金閣寺」「潮騒」だけで、それと東大全共闘との対話集会の後に出した「若きサムライのために」(日本教文社 昭和44年7月初版 =今は文春文庫になってます!)だけでした。それらを読んで三島の精神論、三島の耽美主義(この中に西欧コンプレックスも入るでしょうか?)が寄って立つべき絶対精神=象徴としての「天皇」、大義に身を捧げる「自衛隊」の美を、観念的に夢想していたことはおぼろげながらも解っていました。
ただ私は60年安保の樺さんの死の時もそうですが、山崎君の10・8羽田闘争の後、燎原のごとく広がった学生たちのあとへ続けとばかりの学生運動の盛り上がりに驚き、日本人は人の自死(命を掛ける!)を美化して行くところがあるなと覚めた眼で見ていたのも事実です。
三島は全共闘との対話集会で「君達が天皇を認めるならば、君達に同意してもいい!」と言い放ってます。これは左翼の観念論と好一対というより、「革命」と「天皇」の二つの言葉の「表現のすれ違い」であり、錯覚であり、その論理内容は同一の性格を持っています。右とか左の問題ではないのです。
それと前後しますが、不謹慎ですが安田講堂の決戦の時も、だれか時計台から2,3人飛び降りれば、これはさらに情勢は高揚して大変なことになるぞ!と期待じみた考えが私にあったことも事実です。自分が安全地帯に居て、そんなことを願う私自身の卑怯さ・自己嫌悪もあり、内心複雑な気持ちでした。(これはあとから後藤田元警察庁長官と警備部の佐々淳行の回想記を読み、絶対死者を出すな、出すと大変なことになるという指令が警察機動隊に行き渡っていたということを知り、敵の方が一枚上手だと後で感じ入りました!)
結局、東大全共闘も各党派もそんなことは微塵も考えていなくて、ああこれはパフォーマンスだ、革命運動ではない、表現運動だと思ったのです。日本人を動かすことは出来ないなと思いました。
その後、三島の自決に接した時は、以上の経緯から正直言って「先を越された!=やられた!」と思ったのです。三島の観念論にせよ美学にせよ、論理の一貫性に命を掛けた完ぺき主義とニヒリズムには、参ったと思ったのです。
ですから311ページの「自己の論理回路を・・・・」の文章は現時点での認識であり、当時の心情ではありません。当時の心情の叙述と、現時点での評価的文章叙述がごちゃ混ぜになっているので、多少混乱されたかもしれません。

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