「収容所群島」(ソルジェニーツィン)に関する、三浦小太郎氏の言説を読みつつ、「マルチチュード」(A.ネグリ)を思い出しながら。
かつて、マルクス=レーニン主義は科学的社会主義の極致と認識され、科学というものは理性によって開発されるということであった。物理や数学が一般人に与えるイメージは、所与の方程式を解いていく、そこには冷たい、フラットな世界が広がっていよう。疑問の余地も、何らかの揺らぎも感じられない。唯一の正解に辿り着く、一直線の道。このような共産主義の悲劇について、三浦氏はソルジェニーツィンを借りて鋭く批判する。
マルクス=レーニン主義が真理と言うとき、かような「歪曲された」、俗情と結託した科学のイメージがもぐりこまされた。党は真理である。党と異なることを言うことは、真理から外れている。ここで言う党とは、実は「真理を知っている」とされる党幹部のことである。こうして、党は党幹部のことを“科学的に”指すこととなり、党(幹部)と異なることはいかなることであれ、不正解となった。
マルクスやレーニンの訳文に多少なりとも触れたことのある人は、彼らがいかに現実と向き合い、矛盾の無限の襞に満ちたセカイに対しイマジネーション豊かに切り結んだかが分かろう。レーニンの4月テーゼ。レーニンは同志たちに発狂したと言われた。マルクスによる経済学・哲学草稿の論理構成。労働力(可能態としての労働)の発見。これらをイマジネーションから来たと言わずして、何であろう。
自然科学に携わる仕事をささやかながら小生も行っている。現実を把握するには、様々な場面で学んだことを利用しつつも、結局は、イマジネーションなのだ。このイマジネーションにより、方程式をつくり、解き、妥当かどうかを検証する。一切の公式主義的・教条主義的態度は無効なのだ。理性の機作は夥しい数のイマジネーションによって衝き動かされる。その多数のイマジネーションが、科学的に検証されるのだ。科学での仕事とは、芸術(アート)に似ているのだ。真理? そんなものが予めあるわけではない! 一本道で科学が成立するのではない。数学者の仕事なんか、典型的だと思う。
ネグリは、恐らく労働価値説的な意味とは異なる意味合いで、新たに創造される価値は非物質的労働によって齎されるとされる。非物質的労働は、まさにイマジネーションのセカイが大きな意味合いを持つ。労働の主導権がこのようなものに移動している現在、科学的社会主義に付与されるべき「科学」のイメージは、夥しいイマジネーション――それは失敗の可能性も含まれているが、それを許容すること――に裏打ちされた理性 でなくてはならないだろう。このイマジネーションが交流し、ボケて突っ込みあう、これが本来の意味でのコミュニズム(共産主義)と名づけられるワークであろう。