『マンガで読破 破戒』(島崎藤村原作、イーストプレス社)
明治の話。主人公、瀬川丑松の住む下宿でちょっとした追放がある。下宿人が穢多であることが分かり、追放される。丑松は恐れる。自分も穢多であることを。絶対にバレないことという父の言いつけを守りつつ、小学校の教員を勤める。四民平等と言いながら、人々の意識には穢多への差別意識は色濃く「残って」いる。(「 」を付けたのは、小生の読書遍歴から、再生産されていると書きたいからだ。)
学校の同僚、風間先生は没落士族。貧しさゆえ、酒に溺れ体が弱い。教員を辞職する。たった半年足らないだけで退職金が出ない。それはあんまりだと丑松と友人の銀之助は校長に訴える。こういう態度が校長の気に入らず、丑松らを学校から追放することを思う。
退職後の風間先生は「土いじりなどできるか」と士族意識丸出しで働かない。そのうち、後妻にも愛想を尽かされる。
丑松は下宿にいることが辛くなり、蓮華寺を下宿とする。そこには風間先生の娘(お志保)が養子で入っていた。しかし、立派な住職だが、女に見境がない「父」のセクハラを受けている。それにひたすら耐えている。
丑松は、穢多を隠さずに差別と闘う猪子蓮太郎にあこがれ、尊敬し、蔵書を多数持つ。しかし、自分は闘わない。出自を隠す。この段階では何も知らない無邪気な友人、銀之助は猪子にハマる連太郎に迫る。「下等人種のためにきみがそこまで気に病む必要はないんだ! 僕たちは普通の人間なんだから」(p43) 丑松は思いっきり傷つく。
そんな折、代議士の高柳利三郎を知る。と、同じくらいに丑松の父が死ぬ。故郷に帰る。汽車で高柳と一緒であるが、ひたすら身を隠す。船まで同じ。生まれた特殊部落(敢えて)を通過し、金持ちの草履職人のお頭、六左衛門の家前を通り過ぎ、山に隠棲していた父の家に向かい、葬儀をする。父の言いつけを守ることを再び決意する。
その帰り、実はオルグに来ていた猪子先生に出会う。猪子先生は衣鉢を継ぐものを探していた。猪子先生は高柳が金のために、六左衛門の娘と結婚したことを告げる。「普段はあれだけ差別しておきながら 利用できるとなれば 結婚でもなんでもしてしまう これほど人間を侮辱した話はない!」(p98) そして、ラディカルな考察者、猪子先生は丑松に言う。「私にとって悲しい事は 同じ境遇の仲間の中にも真実に目覚めていながら 素性を隠して生きている臆病者がいることさ」(p100) それでも丑松は素性を隠す。
丑松が寺に帰ると、高柳が来る。妻が丑松を知っている、妻のことを世間に話さないでくれ、と。丑松はシラを切る。だが、高柳は丑松の出自をバラす。「報復」である。このことを校長らが利用しないわけがない。陰湿な差別といじめが丑松の身に降り掛かる。猪子先生についてアツくなる丑松に対して、上と同じ事を銀之助は言う。「穢多かそうでないかは 容貌(かおつき)や性格を見ればわかる どこを見てもキミは普通の人間じゃないか」(p137) 恐らくこの時点で丑松は学校を辞める決意をする。
さて、高柳の演説会。猪子先生が乱入、高柳が金のために妻を得たことを暴露する。猪子先生は(逆;なのかな??)恨みの高柳に殺される。丑松は自分に勇気があれば猪子先生が殺されなかったと後悔する。破戒を決意する。生徒に土下座し「私は穢多です 調里《ちょうり》です 不浄な人間です ……すみません」と言う。(p170)
丑松は父の許に行こうとする。冬の山へ。銀之助は寺に助けを求める。穢多であることを告白したことを言う。「知ってる? 瀬川君って穢多だよ」 それを聞いて、お志保は「穢らわしい あなたがですよ 士族とか華族とか平民とか…… 私の知ったことじゃないですよ 瀬川さんは瀬川さんです」(p175)と言う。身分制の残滓、人の表裏で泣きを見てきたお志保は言う。銀之助は深く悔悟する。そして、友である丑松を助けに行く。猪子先生の奥さんにも声を掛けて。救出された丑松は猪子先生の同志にオルグられる。
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ならば、闘士丑松とならないと、話がおかしい。でも、丑松はアメリカに行くんだよなあ。この本では、その話をごまかしている。
この小説を改めて読むまでは、同和事業の関係(恩恵)でムラを出て行った同級生らのことを思い、この小説を差別小説という人間はマルクス主義的な教条主義を振りかざしている了見の狭い人間だと思った。今も、「闘いを振り翳す」観点からこの小説を批判する人間には同じ思いだが、しかし、この結末では猪子先生の思いが無になってしまうのではないか、と思った。勿論差別小説ではない。やりきれなく重い差別の現実を描いている良い小説だが、そうであるならばなおのこと、この結末は活動家諸氏、ひいては差別問題に苦しんでいることに自覚的な方々には受け入れがたいものであることが分かった。
差別の問題はスティグマと社会構造の絡んだ ひょっとして解決不能な 問題である。そのやりきれなさの深さを今は思うばかりである。