昨日の天声人語には
塾と公立校の
連携を、何故悪いのかという論調で賛成していた。
今日は大きな記事で、
各地の塾との
連携の様態が詳しく載っていた。
私の子育ては終わったし、子どもは塾嫌いで行かなかったし、とやかく言う資格は何もないのだが・・・。
英語で結構難儀していた息子に、
「英語塾でも行けば良かったかねえ」と言ったとき、彼は
「いいや、英語塾行ってたら文系に行っただけだよ」と、言っただけで、後悔してる風もなく
「留学生達と話すぐらい出来るし、どってことないよ」などと暢気だった。
親戚の娘さんが、年内に専門学校に進学が決まったというので聞いてみたら
「英語の専門学校だよ。」
「よかったねえ、英語が得意なの?」
「いやあ、あいつはそれぐらいしかねえんだよ。」とのこと。
これは謙遜ではなくて多分ホントのこと。
義務教育6年と高校3年間の教育って何なんだろうか。
公教育と塾の
連携と言うけれど、連携するものは何かといえば「入試技術の連携」であって、「教育の連携」ではない。
しかし、今の世の中を見れば、それも無理のない考えのようにも見える。
政治家や企業家の子は私学で学ぶから公教育など関係ないのに、その人達がああでもないこうでもないと公教育をいじくり回している。
荒れ狂う大波小波に翻弄されてあっぷあっぷしている公教育の学校現場に、まだなお、これでもかと襲いかかる、改革と称する妖怪たち。
民間校長の登用に異論を挟むものではないが、あらゆる形で企業の論理は学校に挑んでくる。
ついには、塾という営利企業がその触手を伸ばしてきて、やがては「学校民営化」なのだろうか。
子どもは学習を楽しんでいるだろうか。
学ぶことのおもしろさを日々、体得しているのだろうか。
していると思う。
「学校で習ったものを全部忘れたあとに残るものが教育」と、
昨日の天声人語氏が書いていた。
「塾で習ったものを全部忘れたあとに残るもの」それも教育に違いない。
先の学力調査でも
都会の子が学力が高い、僻地の田舎の子は低い、いやそんなことはない秋田県は高い、とかかまびすしかった。
そんなことを学力の平均値から推し量ろうとすることそのものが無意味なのに。
学力とは個人に属するものであって、その平均値をとって何を求めようと言うのか。
学力が高いと言われる都会にあっても、田舎より低い学力の子にとっては都会の高い平均値など何の意味もない。
と、
田舎者の私は小さく吠えたりしているのだが。
塾が悪いとも思わない
公教育がだらしないとも思わない
ただ、どこかで誰かが何のためかはわからないが、子どもの姿をゆがめ、公教育をことさらに貶めようとしているのではないか。
記事を読んで哀しかったことの一つは
「東通村の公営塾の場合、月謝は中3で千円。民間塾では約1万5千円かかるが、差額は村が負担。人口7600人の小さな村には原子力発電所があり、この税収が運営をしたささえする。・・・・・」
こんなことにまで原発が!!!!