自分は内向的な人間です。
音楽聴いたり(演ったり)映画観たり、ゲームしたり、ネットやったり、こうやってブログの記事を書いているのだって
言ってみれば全てが僕の内向的な趣味ってなわけです。
しかし内向的でありながら、イワユル「オタク文化」と自分は、みなさんが思ってる以上に接点がないのです。
まずアニメはほとんど見ないし、漫画も流行りのとかわかんないし全然詳しくない。
幸い(?)そちらの道に精通している友人が多いのも事実ですが、会話についていけないのです。
そんな自分、テスト前なのにバイトに出たショックでふっ切れました。
「どれ、涼宮ハルヒの憂鬱とやらを見てみるか。」
勉強しなきゃいけないのに、自分が見つめていたのはノートではなく、ニコ動のトップページ……。
やっちまった……。
そして!
全14話、今日1日で全部見ましたwww
むーw
面白いww
いつだったか、某有名都立高に通うN氏に「ぱにぽに」なる漫画を借りたときのことを思い出しました。
ストーリーそのものが面白いわけではない。むしろストーリーはグダグダしてるのも多いんですけど。
何故か、もっと、もっと先を見たくなる。登場人物に会いたくなる。もっとその空間に自分を置いていたくなる。
そう、魅力的なキャラクターたちのやりとりや、彼らの人間像そのものが、作品全体の魅力そのものなんです。
これは映画と大きく違う点です。
映画は、ストーリーという「枠組み」に映像表現を重ね、登場人物(キャラクター)たちはその「枠」の中で動くわけですが
アニメはそれと違います。登場人物そのものが自ら作品の全体の「枠」を作りあげ、ストーリーや映像諸々を引き立てるのです。
つまり、キャラクター主本である点において、アニメは映画と違った映像作品の道を歩んできたのでは、と思います。
涼宮ハルヒの憂鬱の人気も、きっとこのキャラクターの魅力によるものなんでしょう。
あのキャラが萌えた、とか、あの台詞がたまらん、とかそーゆー話はこのブログには似つかわしくないと思うので(ぇ
涼宮ハルヒの憂鬱という作品から自分が受け取ったメッセージとゆーものを考えてみようかなと。
このアニメ、最初思っていたよりもストーリーの設定が複雑で難しいです。正直1回見ただけではわからなかった部分がかなりあるんですけど、大まかにまとめるとこんな感じ↓
主人公の涼宮ハルヒは、平凡な日々に飽き飽きし、新しい日常を望んでいるな。
ハルヒは自分の望んだことを実際に叶える力を持っている。本人はそのことに気付いていない。
彼女は自身でも気付いていないその力で、実はこの世界を構築している。(かもしれない)
言ってみればハルヒはこの世界の神であるともとれる。
巨大な存在であるハルヒに関わる宇宙人、未来人、超能力者がハルヒの設立した「SOS団」に所属し、普段は普通の人間として生活している……。
このなんともスケールのでかい宇宙的な価値観を合わせ持つ設定の中で、ハルヒとその仲間たちはごく普通の学園生活を送るわけです。ハルヒの能力やSOS団のメンバーの素性こそが事件のきっかけとなるわけですが、ハルヒはその真相に気付くことはありません。
平凡な日々から抜け出し、自分の人生を楽しくすることを望むハルヒ。
このアニメの設定に則って話をすれば、この世界こそが自分自身の手によって創造されたもので、実は自分の意思によって世界が動いている、というわけ。
なんとも難しい話になってきてしまいましたが、つまり、この作品が伝えたいのはこういうことなんじゃないでしょうか。
人間はみな、涼宮ハルヒなのです。
自分の日々を打開したいから、なんとかしようと必死になる。ときに傷つき、人を傷つけながら。
しかし、自分の周りに広がっている世界が、自分で造れるものだとしたら……。自分で意のままに操れるものだとしたら……。
日々は自分の手で、変えてゆけるものに決まっている。
そう信じて生きてみるのも悪くないんじゃないのか。実際にその力を持ったハルヒが、ちょっぴり不思議で温かいな青春を送れているように。
実は自分にもあなたにも、ハルヒと同じ力があるのです。あなたが世界を変えてこそ、この世界が成り立つのです。
つまり、このアニメの主題ってそんなことなんでしょうか?
なんか哲学的で宇宙的で、見ていながらただの萌えアニメじゃないなあと思いました。
社会の中の一員としてどう生きるか、が問い質される世の中で、涼宮ハルヒの憂鬱は「自己中心」を暗に掲げているアバンギャルドな作品だとも言えるでしょう。
自分の手にによって造られた世界の中を、キョンや、長門や、古泉みたいな素敵な仲間たちに支えられて生きている事実に、誰しもが一生気付かないでいるのかもしれません。
涼宮ハルヒ自身がそうであるように。