諸聖人(B年)
2009年11月1日(B年) −幼子のように−
作成者 Fr.YASU — 投稿日 2009年10月30日 21時00分 最終変更日時 2009年10月30日 21時30分
諸聖人(B年)(マタイ5.1〜12a)
幼稚園での昼食後のひと時。子どもたちが三三五五、聖堂に行く姿が見られます。手にはそれぞれにロザリオを持っています。聖堂の後ろの方にポストならぬ紙の箱が置いてあります。箱の表には「イエスさまへ、マリアさまへ」と書かれてあります。ロザリオの祈りをするわけではありませんが、一人ひとりが祈った内容を紙に書いて、開いた口から手紙を入れるのです。
そして、先日オリジナルの歌ができました。内容は、子どもたちが毎日書いていた手紙を補作したものです。
「走り回っている時も、静かに寝ている時もわたしたちは元気です。神さまお恵みありがとう。でも、世界には家もなく、苦しんでいるたくさんのお友だちがいます。イエスさま、お友だちを喜ばせてください。マリアさま、笑顔と元気のプレゼントをください。そして、わたしたちは祈ります。神さまが心からのわたしたちの手紙を受け取って、叫び声を聞き入れてくださることを。わたしたちは感謝します。世界の子どもたち、どんなときにも元気になろう!どんなときにも笑顔になろう!だって、神さまがいつも一緒にいてくださるから。ありがとう、心からありがとう」
子どもたちの中から出てくる言葉に嘘偽りはないでしょう。大人から聞いたこと、教師と一緒に祈ったことを通して自分たちの祈りにしています。この歌詞を見る限り、「健全な」子どもの育ちを感じます。
イエスさまは、「天の国ではだれがいちばん偉いのですか」という弟子たちの質問に答えて言われました。「あなたたちによく言っておく。あなたたちは心を入れかえて幼子のようにならなければ、天に国には入れない」と(マタイ18章3節)。今日は諸聖人の祝日です。「天の国」に入られた方はみな、「聖人」です。なによりもわたしたち自身、「聖人」になるべくして今を生きています。その具体的な指標は「子どもたち」です。わたしたちの世界では「たかが」子ども、しかし、神の前では「されど」子どもです。わたしたちが「されど」子どもを感じることができたとき、天の国に近づいているのかもしれません。
なんといっても、子どもには誇張がない、駆け引きがない、面倒くさがらない、そして、いつも一生懸命であり、本気であり、手抜きをしないのです。
したがって、大人の無神経な無礼に対して傷つきやすいのです。まさに、今日の福音に出てくる「幸いな人」の中身を子どもたちは保有しているようです。子どものどんなところに、言葉、行動のどこに「幸い」の要素が潜んでいるのでしょうか。「幼子のようになる」とは?幼子から学び取りたいものです。子どもたちは毎日そのヒントを見せてくれています。

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