歴史のはなし
舊歷史のはなし(完全版)は萬歲安國元年五月廿二日より紹武四年五月廿二日まで存在しました。紹武四年五月廿二日より,新たな「歷史のはなし」として活動を再開致します。
沮授曰く「將軍弱冠にして登朝すれば,則ち海内に名を播せ,廢立の際に値れば,則ち忠義奮發す。單騎出奔すれば,則ち董卓懷怖し,河を濟り北すれば,則ち勃海は稽首す。一郡の卒を振るって,冀州の衆を撮り,威河朔を震せ,名は天下に重し。黄巾猾亂し,黒山跋扈すると雖も,軍を舉げ東向すれば,則ち青州は定まる可し。還って黒山を討たば,則ち張燕は滅ぶ可し。眾を回らせ北首すれば,則ち公孫は必ず喪び,戎狄を震脅すれば,則ち匈奴は必ず從はん。大河の北を横ぎり,四州の地を合せ,英雄の才を收め,百萬の衆を擁し,西京に大駕を迎え,洛邑に宗廟を復し,天下に號令し,以て未だ復さざるを討ち,此以て鋒を爭はば,誰能く之に敵せん。數年に比及し,此の功は難からず。」 袁紹喜びて曰く「此れ吾が心なり。」(『魏志』卷六袁紹傳)
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/22
「大將軍」
袁氏事典(用語)
大將軍
大將軍とは『後漢書』百官志によれば「將軍,常置せず。本注曰く,背叛を征伐するを掌る。公に比す者は四つ,第一は大將軍,驃騎將軍次ぎ,車騎將軍次ぎ,衞將軍次ぐ。又た前・後・左・右將軍あり。初め,武帝は衞青の數征伐して功あるを以て,以て大將軍と為し,之を尊寵するを欲す。古尊官唯だ三公のみ有るを以て,皆な將軍秦・晉より始まり,以て卿號と為し,故に大司馬官號を置き以て之を冠す。」とあり,これより所謂,將軍職が秦官であることが判るが,それについては秦以前の史書に據るとして,漢代に於ける大將軍官の意義については,この一文に據る所が大きい。漢代にあって將軍の官が尊寵せられるようになったのは,外夷への遠征がさかんであった武帝の頃である。特に衞青らは匈奴を征伐するに功あり,大將軍とされたが,いわゆる將軍の官は秦・晉に由來し,かつ漢の王權の認識にあっては,周は天命を受くと為すも,秦についてはこれを認めておらず,實質,周制と秦制が混合し,場合によっては秦の文化的影響を多く受けていたけれども,特にその儀禮・名譽的な部分に關しては,周制に倣うことが多く,この場合も,ただ大將軍とせず,これに周官の大司馬を冠して「大司馬・大將軍」とした。この傳統はその後も承け繼がれ「其の後霍光・王鳳等皆な然り。」と言われる。ただ前漢にあっては,その位,武官の域を出ず,猶お三公に比べて,その地位は低いことが多かった。ただ霍光に見られるように,「領尚書事」のように,尚書系統に影響力を持つことなどによって,大將軍ないし,尚書事を領せし者が,その序列に比べて,實際は多くの權を有することが多かった。特に光の場合は蔡質の『漢儀』にあるように,「漢の興るや,大將軍・驃騎を置き,位は丞相に次ぎ,車騎・衞將軍・左・右・前・後は,皆な金紫,位上卿に次ぐ。京師の兵衛を典り,四夷屯警す」との表現にもっとも合う。前漢末の成帝の綏和元年,「大司馬の印綬を賜りしは,將軍官を罷す。」とあって,それ以前の大司馬ならびに大將軍の両方の印綬を得ることは無くなった。これは思うに制度・文化的な意識の變化であり,王莽らの影響であろう。
後漢,光武の世に至っては大將軍以下前・後・左・右などの將軍については「事訖皆な罷す」と言われるように,主として軍事行動の責任者であって,それが終われば,その官自体が取り除かれ,いわゆる常設の官ではなくなった。この時もなお,大將軍の序列は三公の下にあった。大將軍の官が三公の上に置かれることとなったのは明帝の世である。「初めて即位するや,弟東平王蒼を以て賢才あり,以て驃騎將軍と為す。王故を以て,位公上に在り,數年後罷す。」とあって,帝族であったことから,三公の上に位した。以降,漢の大將軍職には帝の舅,いわゆる外戚家が就くようになり,馬防・竇憲・サ騭・耿寶・梁商などが大將軍の位にあった。しかし騭以前は,就官にあたっていわゆる外夷の擾憂があったが,寶以降,梁氏ならびに竇武・何進を含めて,「常に京都に在り」といわれるように,その基本的性格が變化した。この頃にはすでに『東觀書』に於いて「竇憲の大將軍と作るや,長史・司馬員吏官屬を置き,位太傅に次ぐ」と言われるように,その位は太傅の下,三公の上に居るようになった。後漢の大將軍職と前漢の違いについては『後漢書』袁紹傳の注にある「和帝は舅の竇憲を以て匈奴を征せしめ,還りて大將軍に遷り,公の上に在り,勳戚者を以て常例に拘らず。」との言葉が的確に表しているように思われる。
後漢の大將軍職については,多くが所謂「勳戚者」であるが,ただ末期に至って曹操・袁紹はこの例外となる。紹と大將軍官の關係について,初平元年の時點で,『後漢紀』に「韓馥・袁紹自ら大將軍を稱し,使を遣し大司馬劉虞を推して帝と為さんとせしも,聽かず,復た勸めて虞をして承制封拜せしめんとすも,又た聽かず,然して猶お紹と連結す」とあるが,ここで言う大將軍は漢の文化上の概念でいう所の大將軍ではなく,後の上奏文にあるように,すなわち,「臣時に輒ち制を承り,竊かに竇融に比し」ており,蓋し竇融の河西五郡大將軍事を行せしことを意識したものと思われる。紹が後漢の文化上の大將軍職に就くのは建安二年のことである。その前年,紹の意に反して操が獻帝を迎え,その功を以て大將軍と為った。この間に紹と操の文書上の對立があり,操自身が紹を憚り,また都の官僚,地方の豪族の多くが紹を盟主と考えていたこともあって,「紹を以て太尉と為し,鄴侯に封ず。時に曹操自ら大將軍と為り,紹之の下と為るを恥じ,表を偽り辭して受けず。」とあるように,これを太尉とした。しかし紹は「班の操の下に在るを恥じ,肯受」しなかったので操は「大いに懼れ,乃ち紹に位を讓る」という經緯があった。そこで「將作大匠孔融をして節を持し大將軍を紹に拜せしめ,弓矢節鉞,虎賁百人を錫わりしめ,兼せて冀・青・幽・并四州を督せしめんとし」とあるように,歳が明け孔融をして紹に大將軍の印綬および九錫を賜った。その拝受せし月については,『後漢書』では「三月,袁紹自ら大將軍と為る」との如く三月,『後漢紀』は「秋七月,即ち太尉袁紹を拜みしめ大將軍と為す」との如く七月のこととしている。孔融が至って「然る後之を受」けた。紹の後,大將軍の位に就くものはおらず,漢の大將軍は衞青に始まり紹に終わった。
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投稿者: 北沢杏・袁亮
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2006/3/16
「袁紹對董卓曰」
袁氏事典(袁紹語錄)
此國之大事,請出與太傅議之。(『魏志』卷六袁紹傳)
此れ國の大事なれば,出だして太傅と之を議さんことを請う。
これは國の大事ですから,太傅(袁隗)以下と會議すべきです(內に決するべきではありません)。
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/16
「中常侍趙忠言於省内曰」
袁氏事典(言)
袁本初坐作聲價。好養死士,不知此兒終欲何作。(『後漢書』列傳六十四上袁紹傳)
袁本初坐して聲價を作し,好んで死士を養ふ。此の兒終ぞ何をか作さんと欲するか知れず。
袁本初は(洛陽の自宅)に坐したままで聲望(評価・聲名)を高め,好んで死士(死をも厭わぬ仲間)を養っている。こいつは何をしようと考えているのか判らない(我々宦官を滅ぼそうとしているのではないか)。
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/16
「袁紹」
袁氏事典(評)
紹不妄通賓客,非海内知名不得相見。又好游俠,與張孟卓・何伯求・吳子卿・許子遠皆爲奔走之友。(『後漢書』列傳六四上袁紹傳注引『英雄紀』)
紹妄りに賓客に通ぜず,海内の知名に非ざれば相見ゆるを得ず。又た游俠を好み,張孟卓・何伯求・吳子卿・許子遠と皆な奔走の友と爲る。
袁紹は妄りに賓客と交通することは無く,天下(或は洛陽)に名を知られた者でなければ會見することはできなかった。又游俠を好み,張孟卓(張邈)・何伯求(何顒)・吳子卿(不詳,河內吳氏か)・許子遠(許攸)と皆な「奔走の友」と爲った。
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/16
「袁紹爲人」
袁氏事典(評)
紹爲人政寛,百姓徳之。河北士女莫不傷怨,市巷揮涙,如或喪親。(『後漢書』列傳六四上袁紹傳注引『獻帝春秋』)
紹の爲人政は寛く,百姓之を徳とす。河北の士女傷怨せざるもの莫く,市巷は涙を揮い,或は親を喪すが如し。
袁紹の人となり,政は寛く,百姓は之を徳とした。(袁紹が薨じて)河北の子女に傷怨しないものはおらず,市巷では涙を揮い,或るものにいたっては親を喪くしたよう(に悲しんだ)であった。
(北沢 杏)
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/12
「劉虞叱張岐等曰」
袁氏事典(言)
今天下崩亂,主上蒙塵。吾被重恩,未能清雪國恥。諸君各據州郡,宜共衆力,盡心王室,而反造逆謀,以相垢誤邪。(『後漢書』列傳六三劉虞傳)
今天下崩亂し,主上蒙塵す。吾れ重恩を被り,未だ國恥を清雪する能はず。諸君各々州郡に據り,宜しく共に力を衆せ,王室に盡心すべきも,而るに反造逆謀して,以て相ひ垢誤せんとする邪。
今天下は崩亂し,主上(獻帝)は蒙塵(苦勞)しておられる。吾(劉虞)は重恩を被っているというのに,未だ國恥を清雪することができないでいる。諸君(山東の諸將)は各々州郡に據っており,共に力を衆せて,王室に盡心すべきなのに,反造逆謀し,互いに垢誤(恥辱)しようというのか。
(北沢 杏)
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投稿者: 北沢杏
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2006/3/8
「主簿耿包密白紹曰」
袁氏事典(言)
赤徳衰盡,袁爲黄胤,宜順天意,以從民心。(『後漢書』列傳六四上袁紹傳)
赤徳衰盡し,袁は黄胤と爲り,宜しく天意に順ひ,以て民心に從ふべし。
赤徳(漢家劉氏)は衰えいまにも盡きようとしていますから,袁(氏)は黄胤と爲って,天意に順い,民心に從われますように。
※ 『獻帝春秋』曰く「袁,舜の後。黄は應じて赤に代り,故に(耿)包の此の言有り」と。また『典略』に曰く「(袁)術袁姓の陳に出るを以て,陳は舜の後なれば,土を以て火を承り,應運の次を得」と。
(北沢 杏)
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投稿者: 北沢杏
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