*菜の庭学舎*は、 天王寺ナーサリーとして、乳幼児の発達と親の学びの親子クラスと新生児の訪問ケアを、天王寺学舎として小学生クラス、大人向けのアントロポゾフィーの講座を開設しています。 場所は大阪市内、天王寺周辺。 すべての講座に関してのお問い合わせ、お申し込みは、kodomonojikan_osaka★yahoo.co.jpもしくはフェイスブックのメッセ−ジでご連絡下さい。(★を@に変えて下さい。) フェイスブックではクラスの様子をお伝えしています。 https://m.facebook.com/kodomonojikan.osaka/

2011/8/28

2011・夏のコドモノジカン日誌・4   コドモノジカン

8月26日(金)、「コドモノジカン」夏休み後半編がはじまりました。

この日は子どもが8名、大人3名のご参加でした。男の子が6歳を筆頭に6人、女の子が2人。

参加した子ども達のうち4人の男の子達はナーサリーを修了した子ども達で、伊藤さんちで何をどんな順番で行うかよく知っているので、率先してお手伝いをしてくれました。子ども達の有り余るほどの力は建設的に使うことが出来れば、「ただ、暴れるだけ」という遊び方はあまりしなくなりますね。いつものようにぬらし絵→お片付け→おやつ(この日はブドウをいただきました)→自由遊び→トイレ→外遊び→お風呂→お弁当→自由遊び、と過ごしました。

生き生きと自発的な衝動に促されて遊ぶ子どもは、大人に「やって〜」と要求することは少ないです。自分で遊ぶ方が自分の思いを再現しやすいからです。芸術と同じですね。

もし、子ども達が「白紙」の状態で生まれてくるとすると、手を出したり口をだしたり、先回りして「与える」事が大事なこととなるので、子どもの行動・動機に干渉することが必要になります。

そして、子どもの模倣の衝動に気づくことがなければ、「○○(挨拶、謝罪)しなさい」と常に命令して躾を行うでしょう。


けれどももし、人間の本質は輪廻転生だとしたらどうでしょう?
子どもの発達が「模倣の衝動とそれを再現する本性を持っている」と発見したらどうでしょう?

親が子どものことを「白紙」のようなものだと信じているかぎり、子どもの中の自発性=意志について観察することは出来ないでしょう。

無いと思ってることは当然ですが、見えません。



「命が宿る」という表現がありますが、この「宿る」という言葉の意味はどういうことでしょうか?

命はどこに宿るのでしょう?


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