燃えよ!エンドリケリー!!

2011/11/1

ジョフロア・サン・ティレール その2  ジョフロア・サン・ティレール

船上にて

 地中海を進むフランス軍の大船団には、行き先を知らされず徴収された兵士達に加えて、学者・学生達が乗船していた。彼等学者部隊のリーダーとなったのが、天才科学者クロード・ルイ・ベルトレと、幾何学者ガスパール・モンジュであった。共にナポレオンの信頼厚い両者であり、学者部隊の人選はベルトレに一任されていたが、彼の勧誘に対しては思いの外多数の志望者があったため、より優秀な人材をチョイスする事が出来た。

 しかし、そもそも何故軍事遠征に彼等学者・学生が随行しているのか?
 これはすなわち、ナポレオンが英雄アレクサンドロス大王を真似した、という一言に尽きる訳であるが、それ以前に彼は宗教よりも科学をより重視していたためでもある。

 市民革命期までの世の中は王制の天下であり、王制は同時に特に西洋においてはキリスト教中心主義と不可分の関係にあった。この体制下ではおよそ科学者に活躍の場はなく、むしろ迫害されていた。王制対共和制は、見方を変えると宗教対科学という側面を持っていたのだ。
 そういえば、ブルボン王朝最後の国王に嫁ぎフランス革命で処刑されたマリー・アントワネットはカトリック最大の守護者ハプスブルクの女帝マリア・テレジアの末娘である。そしてまたハプスブルク家に皇帝位を独占されつづけた神聖ローマ帝国を最終的に滅ぼしたのは後のナポレオンである。

 「もし軍人にならなければ科学者になっていた」、と公言してはばからない彼は科学者を心から敬愛していたし、実際モンジュとベルトレを信頼出来る側近としてこの遠征以前より常に側に置いていた。
 もちろん、科学者たちもこの若き革命児を歓迎し、彼を保守的で有名なフランス学士院の数学部門会員に加えるという礼節を持って答えた。
 ナポレオンはこれを何よりもの名誉として受け止めていた。
 

 航海中、ナポレオンと学者達とは非常に良好な関係を築く事が出来た。彼は旗艦オリアン号のデッキで夜な夜な学者達を招いたサロンを開いていた。
 サロンでナポレオンは様々な議題についてそれぞれの専門家達に質問を浴びせては悦に浸っていた。
 もちろんジョフロア・サン・ティレールもこのサロンに招かれた学者の一人であった。
 彼は科学に無知な兵隊の好奇心を駆り立てようと、航海中電気の実験やサメの解剖などの余興も行った。
 ジョフロアにとって航海は楽しいものであったが、同時に危険さをも思い知る経験となった。しばしば船員が船上から海上へ転落する光景を目にし、自身も同じ目に遭っていたからである。ある日、彼は船団の別の船に移動する際、ボートに乗り移るのに失敗して海に投げ出された。

 ジョフロアのような立派な肩書きを持った学者には無縁であったが、名もなき学生達が航海中に受けた扱いは酷いものであった。
 身動きが取れないほど狭い船内で、彼らは一般兵達と肩をぶつけ合うようにして吊られたハンモックで過ごさなければならなかった。
 兵士達からは「足手まといの役立たず者達」としか思われていなかった彼等は、壮大な遠征の開始早々から罵声を浴びせられ続けることになる。

続く.......
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2011/10/23

ジョフロア・サン・ティレール その1  ジョフロア・サン・ティレール

出航

 1798年より将軍ナポレオンによって実行されたフランス軍によるエジプト遠征は、少なくとも表面的にはフランス最大のライバル国イギリスとの植民地競争でイニシアティブを取る目的でなされたものであった。
 大航海時代を経て、植民地貿易のもたらす膨大な利益に味をしめた西洋列強諸国にとって、アジア・アフリカは未だ宝の山と思われていた。そのうちでインドの大部分はイギリスの支配下にあったが、エジプトは事実上手付かずの状況であった。
 したがってフランスとしては是非この地が欲しい。もし、この地を手中に納め、地中海の制海権を支配出来れば、それによってインド→紅海→エジプト→地中海→イギリス本土とったルートを遮断出来る事になる。
 もちろん、当時はまだスエズ運河は存在していないが、それでも喜望峰廻りの航海よりはこの地中海ルートは遥かに近道であった。
 したがって、エジプトを抑える事は対イギリスにおいて植民地支配のパワーバランスを大きく変化させる絶好の策であった。それ故、エジプト遠征計画はナポレオン以前にも、これまで政治家や商人からは進言された事はあったのだ。

 しかしながら、同時にこの進行作戦は決して現実的なものではなかった。
 未だ革命の消耗から回復せず貧困に喘ぐ国内、さらに周辺諸国との対立により四面楚歌にある状況下であえて兵力分散の愚を犯す策は無謀と言ってよかった。
 それでも将軍ナポレオンは反対派を押し切りこの作戦実行にこぎつける。
 イギリス遠征軍司令官に任命されていたナポレオンとしては、本来であればイギリス本土上陸作戦を実行したい所であったが、当時のイギリス海軍に勝利出来る確率は皆無であり、本土上陸は事実上不可能であった。
 さらなる武勲を立てより強大な権力者を目指す彼としては、エジプト制圧を足掛かりにし、東方進出を目論むという戦略はやはり自然なものだったのであろう。直接対決で敵わぬ以上植民地争奪戦に持ち込もうという訳である。
 また、フランス総裁政府としても危険実物ナポレオンを本国から遠ざけておきたいという思惑も働いていた。
 様々な事情が作用してこの若き将軍の作戦は実行に移される事となった。

 1798年5月末。
 フランス南東部の港町トゥーロンから300隻の艦隊がエジプトへ向けて出航した。陸軍兵そして水兵及び海兵合わせて総数約5万人を超える大遠征部隊である。
 この遠征が不可解であったのは、乗組員の殆どが航海の目的地を知らされていなかった事であり、さらに異色であったのは兵隊に混じり151人もの学者・画家が参加していた事である。
 学者達の多くは、当時のフランスでも最も優秀な知性を選りすぐったものであり、彼等の殆どはこの未知の冒険に自ら志願して参加していた。

 さて、そんな未知の航海において、密かに目的地を知る数少ない人物の一人として、若き動物学者ジョフロア・サン・ティレールがいた。
 当時まだ28歳でありながらすでにパリで動物園長を務め、教授の地位にもあった彼は奇しくもこの遠征軍を指揮する偉大なるリーダーと同じ歳であり、他の大多数の乗組員同様に将軍ナポレオンの崇拝者であった。
 同国の著名な博物学者ジョルジュ・キュビエと知己であった彼は、誰よりもこの遠征に期待で胸ふくらませていた。
 この点、ジョフロア同様に今回の遠征に誘われたキュビエは参加を断っている事を考えると、両者の性格の違いが理解出来て面白い。
 男児には二つのタイプがいるというが、将来宇宙飛行士になりたいと思う典型例がジョフロア、天文学者になりたいと思う典型例がキュビエ、といったところか。
 いずれにせよ、将来、修復不可能な対立をしてしまう両者であるが、そんなことはこの時点で知る由もなかった。

続く.....
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