●また来ん春
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが…
暗記したままの記憶で書いてるので間違ってるかもしれんが。
中也が29歳の時、2歳の愛児が病いで死ぬ。中也は悲嘆のあまり精神的に異常をきたし入院する。
中也曰く「何もする気が起こらない“悲しみ呆け”の状態」。
詩集「在りし日の詩」に愛児へのレクイエムがある。
“在りし日”とは、そういうことなのだ。
翌年1938年、急性脳膜炎で中也はわずか30歳でこの世を去った。狂い死にだった。
中也は絶命する寸前に「在りし日の歌」を編集、清書して小林秀雄に託す…。
●映画「以蔵-IZO-」の感想を書くにあたって、なぜまず最初に中原中也の詩を引用したかというと、一緒に観に行った友人二人へのメッセージだ。
劇中に登場する友川かずきが、この「また来ん春」に曲をつけ歌っている。
その最中ひとりの友人は笑っていたし、もうひとりの友人は劇中の「友川の歌はBGMでしかない」と言っていた。
その接し方は極めてナチュラルな反応だと思った。実際この劇中歌にはなんの意味もないと僕も思う。
※この件については後述する。
でも、中原中也の詩であったことに気づけないのはもったいないと思ったりする。
かたやこれから親になろうとする者、かたやほぼ自分と同じ年齢でこの詩を書き、没していった彼にオーバーラップしていろいろ考えてみるのもいんじゃないのと。
少なくとも詩を知っていれば笑うこともなければただの音としても聴こえなかったと思う。
大きなお世話だとは思うが。
●さて、映画「以蔵-IZO-」についてはもはやいろんなところでレビューも書かれているし、かくいう僕も某所に極めて映画評らしい映画評を書いた。せめて自分の雑記くらい“ストレートに思ったこと”を書きたいものだ。
敢えて筋書きなどは書かないし、書いたところでまったく意味を持たない作品だとも思うので、以下、映画自体の実に散文的な構成に倣い思ったことから素直に書いていく。
●良く友人に言うのは、映画はラストカットを覚えているものだが、案外ファーストカットは覚えていないものだ。ファーストカットを覚えておいてくれと。たとえば、同じ三池監督の99年公開“DEAD OR ALIVE 犯罪者”のラストカットは皆覚えているだろうが(いや、これ書いてる時点でこのたとえが極めて正しくないことに気付いた(笑)がそのまま進める)、この映画のファーストカットを覚えている者がどれほどいるだろうか。
以蔵のファーストカットはいきなり男性性器の断面図により射精の仕組みを教える“性教育フィルム”。精子うじゃうじゃ、受精、出産シーン。
いきなり磔にされた罪人が二人の刑吏により下から槍でグサグサ突かれる、えぐられる。もがき苦しむ罪人(岡田以蔵)、ものすげえ量の血(いつも思うのだが、モンティ・パイソン好きの三池は絶対「サラダの日々」がお気に入りのはずだ)。
いきなり生と死。精子と生死。わかり易すぎ。
位相と以蔵。
忌みと意味。
以蔵の怒り(刀)を鎮める母なる女性の名が“サヤ”。
わかり易すぎ。
本編では他にもこういった“言葉遊び”が随所に出てくる。2番目の刺客を演じた内田裕也のセリフ(&声)は傑作ギミックだ!刮目せよ。
そしてファーストカットの生死は、再生を意味するラストカット(残念なのは“牛頭”ほどの迫力なし。ヌルヌルだけど(笑))に繋がる。
●こういったコントラストが随所に散りばめられ、その最たるものが、以蔵(怨念)×殿下(位相の絶対者)という役柄と同時に、その配役にまで及び、ほとんど無名の役者中山一也に対し、日本邦画界の期待、ある意味サラブレッドの松田龍平とのコントラスト。
最後、殿下を斬れなかった以蔵に対し、「ふっ」と息を吹きかけ以蔵を蹴散らす「絶対的な存在」に痺れたというか涙が出た。
正直、斬って欲しかった(笑)。
●以蔵が時空を超え現れるシーンがまるで「マルコヴィッチの穴」で笑った。とにかく上からドサッ!と落ちてくる(笑)。
その唐突さで、古代から戦国時代から幕末、太平洋戦争まっただ中、そして平成の現代にもドサッ!と出没する。
古代ではなんと!ミトコンドリア・イブ(つーか高瀬春奈あれで50歳かよ!たまらん!!)とさえもまぐわってしまう。すげー。
つーかやめれ。人類の歴史が変わってしまう(爆)。
●随所で発せられた「IZOが来る!」というセリフに痺れた。
●以蔵に斬られ、大僧正等「痛い、痛いよー」と声を上げる者が何人かいて笑った。案外ありそうでない描写。んま、痛いだろうな、そりゃ。
●大橋吾郎と山本太郎が演じた“鬼”サイコー!!あんな鬼見たことねえ。つーかすげえ鬼っぷり。いやあ鬼だった。ありゃ鬼だ。
●少々残念だったのは、位相のすべてを掌握する貴族院(アンタッチャブルな殿下含む)のイメージをもう少しなんとかできなかったものかと。挙げ句、殿下の絶対感も今イチと言えば今イチ。思いきって全体のトーンを変えるだけでも受ける印象が違ったかもしれん。
ま、ある意味すべて“子宮の中”で起きている出来事とすればあの箱庭的な閉塞感も理解できなくもない。
●コントラストの件について書いたが、「殿下の蛇」に対する以蔵の姿は「鴉」だった。この辺は本当に上手いと感心したところ。
ご存知のとおり、日本には古代から蛇信仰と鳥信仰がある。
特に日本の古代信仰の中枢をなしていたのは、蛇に関する信仰であったろうことは、これまでの様々な記録、伝承からもわかる。
蛇の交尾をご存知だろうか。蛇は頭から次第に体を巻いていって尻尾まで達するのに4時間もかかり、交尾が終わって離れ始めるのはなんと約26時間後という。しかも完全に離れる寸前まで突出した二本の雄の性器が雌の体内に挿入されっぱなしだ。
古代人が蛇を信仰するのは、この蛇の交尾に生命力、繁殖、ひいては豊穰のシンボルとして見ていたのではと。さらに蛇は脱皮を行う生き物で、つまり新しい身体を得て生まれ変わる様子に、再生や永遠の命を見ていたのかもしれない。
一方の鳥信仰で有名なのは八咫烏だ。道中の安全祈願の神としても知られているし、日本サッカー協会のシンボルマーク、三本足のカラスとしても有名だ。
また、“八咫(やあた→やた)”とは「大きな」という意味もあり、八咫烏とは、字義的には大きなカラスの意であるが、「やあた」→「あた」は「いまわしい」の意という説もある。
また「あた」は「あだ」と同じで、「むなしい」「はかない」の意で、死を暗示するとの説もある。
最終目標の殿下に突き進んでいく様=八咫烏
ピッタリではないか!
恐らくこの辺の意味合いなのか忌み合いを含め、殿下、以蔵ともにそのキャラクターの演出がなされていると思えるところがすごい。
●某映画評からコピペ。
>何事も語らぬ以蔵の内面を代弁するような友川かずきの挿入歌が、魂の叫びとしてライブ感をかき立てる。
これ読んだ時に思わずバッカじゃねえのと失笑した。つーかこの人まったくこの映画を理解できていない。
嘘だろ!代弁て?何も代弁なんかしてねえよ!!!!
あながち友川かずきの存在をどう受け入れるかでこの作品の評価は真っ二つに別れるだろう。
僕が思うに彼の存在は位相に表出したノイズみたいなもんだと思う。
普段の生活の中で突然飛び込んでくる右翼の宣伝カーの声に嫌悪する人もいれば、ギターをかき鳴らすストリートミュージシャンの歌に耳を傾ける人もいる。
で、その真逆もありうる訳で、それらに耳や神経が行くかどうか程度のもんだろうと。
友川はただ歌いたいから歌っていただけという存在だったと思う。
個人的には友川って人間を、そういう“その人にとっての現実”というところに配置したのはすげー面白かったし、成功していたと思う。
位相の総てを掌握しているはずの貴族院の前でさえも、彼は単なるノイズでしかなかったのもとても面白った。
あれほど何かを主張しているようで、どうでもいい存在なのだ。
きっと彼の役はケツメイシのようなヒプホプな人達だろうが、森山直太朗でも良かったんだろうけど、それだとメッセージや存在の意味合いが強くなってしまう。それこそ以蔵に斬られるか貴族院の手の者というつまらん存在になってしまったんじゃないのだろうか。
つーか、以蔵に叩っ斬られる森山直太朗というのも見てみたかったが(笑)。
●現代に現れた以蔵と対峙したヤクザの親分(松方弘樹)が、俺は降りたとばかりに生を選ぶ。体面なんか気にして殺されちゃったらたまらんとばかりに貴族院に背を向ける。この正しさはとても正しい(笑)。
●小学校の授業中の教室に突然現れた以蔵を気にすることもなく、授業は続けられる。「国家とは?」という女教師の問いに対し、する「国家とは、ヒトの頭の中にだけ存在する悪質な妄想です。(以下略)」と答える生徒。淡々と問答は続き、観客に対しても普段見ている風景のパーステクティヴを疑えと問う。民主主義の本質を問う。
教室を出て廊下に待ち構えていたのは生徒のPTAの母達だった。1本の廊下の前後から奇声を発し以蔵に迫るPTA。教室の中ではさらに淡々と授業は続けられすべてのPTAを斬った後、その屍の山にひと組の全裸の幼児が現れる。
以蔵が斬ろうとして、ただひとり斬れなかった存在と、このシーンは非常にリンクしていると思うし圧巻のシーンだった。
ただひとつどうしても理解しがたいのは、授業を終え、屍を除けながら以蔵の方へ歩いてくる女教師に以蔵が頭を下げるシーンだ。
なぜ斬らなかったのだろう。
いや、むしろ斬らなかったことで、この男にはさしたるイデオロギーなどないと言っているのかもしれんし、たぶんそのとおりなのだろうなと理解することにした。
ああ、なんかパンフ買っとけば良かったにゃー。
★とにかくいいシーンがいっぱいあってとても書ききれない。
京都太秦撮影所内で暴れまくるSAT隊(もうバカすぎ!(笑))、新宿の路地裏での「御用だ!」のロケはやってる人達も楽しかっただろうな。
最後の門番、ボブ・サップが斬られた後「Thank you」というシーンもすごく良かった。
何より、ハンペイタ役の美木良介がすげー良かった。初めて役者をやってる美木良介を見たかもしれん(笑)。
つーか日本にはこんなにイイ役者がたくさんいるじゃんと思えた映画だった。
大手で作られる既存の映画とは違うシステムで作られていることも理解でき、そういった意味でもこの作品の存在は“痛快”であって欲しい。
角川春樹が逮捕され、奥山が松竹を更迭され、そして伊丹十三が“謎の死”を遂げてから邦画界は良くも悪くも変わってしまったと思う。奥山が元気を出し、そして現在、角川春樹も復帰作を画策中である。
何年か経ち、この作品が以降のなんらかの指標になっていることを切に願う。