“今さら”ハルヒの話しもないでしょ、という向きのかたは、
まさしく無機な内容だから読まなくていいです…って、これ、
うっかりやりがちなことですよね。
知ってるから別にいいとか、よしんば俺の方が知識があるから関係ないとかね。
そういう閉じ方に気をつけようと思う。
それって「その世界の住人」になってしまっている証拠だ。
多くのことから隔絶されてしまうキッカケを、自ら作っているってことだよね…。
廣田氏のブログで、彼が
「マイマイ新子と千年の魔法」という作品の記事を、
アニメ雑誌に書く機会を得たことが記されている(既刊です)。
彼のように、本当に文力、言葉力のあるかたが、
マスに向かって石を投げてくれるのは素晴らしい。
だが残念ながら、アニメ雑誌を購入する層は相当限られていると思う。
しかしアニメ関係者でさえ、この作品のアウトラインどころか、
存在すら知らない人がいるとも彼は記述している。
これは往々にして起こりうることで、僕が今在職している
「個人飲食業、飲食店のよろず相談所」とも言うべき会社への
問合せの大半を占める様相と被るのだ。
その業界の住人になってしまうと、その業界内でのスケールで物事を計りだす。
そしてそれが常となる。他業種のことは全く「別物」と解釈してしまう。
同じ業界の中でも他の業態、ウチはラーメン屋だからラーメンのことだけ
考えていればいいとか、ウチはイタリアンだから和食流のもてなし方は必要ない、
などと、閉じた考えの人が多いのも事実だ。
で、閉じた結果どうなるか。
店主の考え方、やり方に基づいたサービスの提供の仕方を
支持して下さるお客様しか来店しなくなる。
お客様とてそのお店だけが選択肢ではない。他に良い店があれば他へ行く。
そうして限られたパイを形成した中で、
客離れが起きれば、当たり前だが売上げが落ちる。
ジリ貧になる。
そうして弊社へ問合せがある。
どうにかして欲しいと。
それどころか、特効薬はないかとさえ言われる…。
特効薬なんかありません。
でも、どうにかするのは案外簡単なこと。
あなたの考え方を変えればいい。
だがこれがなかなかできないのだ。
特に腕に自信のある元料理人ほど、ハードルが高くなっていく。
彼らは悩む。
なぜ、こんなに旨い料理を提供しているのに、ウチにはお客様が来ないのか?
本当にわからないらしい。
なぜ来ないって、
その自慢であるらしい料理以外が悪いからじゃないのかな、ぶっちゃけ。
その自慢の料理を、どうやってお客様に提供しているのか?
その自慢の料理をどうやって知って貰おうとしているのか?
いや、その自慢の料理を、
お客様が本当に望んでいるのか考えたことはあるのか?
どんなに作り手が良いものと思い、さらに自信があっても、
それを知ることが出来なければ、お客様に召し上がっていただくことはない。
美味しい料理を作るのと同じくらい、
その美味しさを伝える努力を怠ってはいけない。
そのことを怠る背景には、
料理人の自分のキャリアや腕に対する驕りがあるように思う。
美味い料理、自慢の料理、良いものを作っただけではお客様は来店しない。
…………・・・
「涼宮ハルヒの憂鬱」というタイトルからしてキャッチーな作品の存在は、
角川お得意のメディアミックス展開により知っていた。
作品そのものに触れるに至ってはいなかったが、しかし周辺情報により
なんだかある層において、えらい母集団が形成されるほどの
ムーブメントが起きていることは感じられていた。
一昨年の暮れ辺りだった。
某アーティストのライブ映像はないものかと、
某ようつべ内を徘徊していたところ、
関連映像としてハルヒ12話「ライブアライブ」が引っ掛かってきた。
それがキッカケと言えばそうなのだが、
こうして俺は出会っちまったんだ、ハルヒという作品に(キョン風味)。
正直、キャラクターや物語の背景もわからぬまま見てみた。
まだ名前のわからぬ男性キャラ(高校生でしかもイイ声)の独白で進行する
ストーリーが、この回だけの演出なのか、毎度のことなのかはわからないが、
とにかく彼が文化祭当日に間に合わせるべく、
徹夜の編集作業をし(恐らく自主制作)映画の上映に漕ぎ着けたこと。
タイトルのハルヒ嬢は、率先してバニーガールのコスプレ姿をし
観客集めをしていること。
彼らの仲間(OPに出ていた人達、エスオーエス団という集団のメンバーらしい)は、
それぞれ各クラスの催し物の、占い、演劇、コスプレ喫茶に関わっていること。
そして(キョンという愛称で呼ばれている)彼は、二人の(クラスメート?)と
校舎の廊下で出会う。
独白中“看過できない”とつぶやく用件のひとつ
「焼きそば喫茶どんぐり」へと三人で向かう。
お目当ては、クラス有志による手作り衣装、メイド服姿のアサヒナ嬢。
友人らと別れた焼きそば喫茶以降、あてもなく校内をうろつき、
徹夜明けの身体を癒そうと安息の地を講堂に求めるキョン。
ここならずっと座っていられる…。
まばらな講堂では、吹奏楽部の演奏が行われていた。
さらに、有志参加のアコギデュオ、某殺害バンドを彷彿とさせる演奏が続く中、
パイプ椅子でウトウトするキョン。
降りだした雨に、雨宿り目的で駆け込んできた人々で膨れる場内。
「次は軽音学部ENOZの演奏」というアナウンスが場内に流れ、
その壇上に現れた人物を見て、キョンが声にならない声で絶叫する!
そして、
「なんじゃありゃ?!」
……… ・ ・ ・
ただなんとなくこの12話を見ていた僕は、劇中の講堂に集まった人々
(大半はキョンと同様、目的なく雨宿りに来た人達)が真の聴衆と化し、
大きなグルーヴを起こしていく様を目撃することになる。
いや、一緒に立ち会ってしまったと言っていい。
その描き方に、見事すぎるドライブ感に、
自分の目の前で今起きていること(PC画面の小さな映像)に、
キョン同様、ただただ口を半開きのまま、呆然ボー然と立ち会ってしまった。
なにこのすごい映像?!
腹の底から沸き上がってくる得も言われぬ感覚に酔いしれた。
ヤバい!全部見たい!!!
近所のレンタル屋へ走り、第一話から全て見たのは言うまでもなく、
そうしてシリーズ全体を俯瞰できる状況になり、なるほど理解できた。
文化祭という高校生たちにとって、最大の見せ場
(生徒によっては関わりたくない行事であることも重要)である、
この「まつりごと」を、このシリーズの頂点に据えた構成なのだ。
そう、むしろ関わりたくない人々や無関心な人々を巻き込んでいく力。
何を以てそれを成すのか。
僕自身がこうして「涼宮ハルヒ」という作品に
まんまと取り込まれてしまったことからも推察していただきたい。
サブタイトルである“ライブアライブ”。
余談だが僕は、 私は、ここにいる と訳す。
…まさにハルヒというキャラクターの、
そしてアニメ版
「涼宮ハルヒの憂鬱」の真骨頂がこの第12話だと思う。
未見のかたは、だまされたつもりで見て欲しい。
未見なのに、涼宮ハルヒという作品になにがしかのイメージを持ってる人は特に。
アニメ版(当時はまだ一期分)を見た後、小説もすぐに全て読んだ。
いわゆるライトノベルというジャンルを軽視していた自分を恥じた。
…映画の感想の前に軽くイントロを書こうと思ったら、
またしてもダラ文になっちゃった。
続きまた書きます。
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