最近、海に出ると物凄く幸せな気分になれる。
ので最近、小型船舶操縦士免許証の最高峰である特定1級の免許の取得に成功してしまった。
元々釣り好きな俺自身、とことん海を深く知りたくなった理由の根本として一番のきっかけは、会社の同僚の先輩を海難事故で失ってしまったからだ。
もしその時に、海に対して今の知識があったならばと思うと本当に考え深い。
船舶事態の構造や操舵は自動車の運転のように慣れるかも知れないが、海には道路もなければ、一般道路にある当たり前のような標識も街灯もない。
海上は沖にでてしまい、夜になってしまえば闇以外は何もみえない。
かろうじて頼りになるのは灯台や陸地に見える物をトランジットして距離を目測で計る。
気象、潮、水域、海流、航海計画などなど、全ての知識がなければ自然界と共有していく事はできないからね。
話は変わるが、バブル以前の、日本の高度成長期には、日本人にとっては「幸せ」は、わりとわかりやすい形で存在していたと思う。
それは、「いい大学を出て、いい会社に就職し、すてきな相手と結婚して家を買い、子供を作って、幸せな家庭をきずく」という。
いまだにあると思うけど、これはまさに自分の親の世代が本気で信じ、子供を教育する際にも、最も重視したことだとおもう。
ただこれはその後、そうやって育てた子供がグレたり犯罪を犯して、「本当にそれが幸せなのか」という疑問を生み、さらにバブルが崩壊し、就職から結婚、家を買うこと、すべてがむずかしい時代になった現在では、これが日本人の「共通した夢」であるとは言えないと俺は思う。
そのような、強力な「幸せのステレオタイプ」がなくなった今、
「いったい幸せとは何ぞや?」とは、一人ひとりが個々で考えざるを得ない世代になっている。
何故ならば幸せとはは、「人生の目標」になるからだ。
その際、最も考えないといけないことは、そもそも『幸せ』とはどういう性質のものなのか?だとおもう。
それを間違えてしまうと、ステレオタイプが薄れきっている今現在、「幸せが見つからない」「俺より不幸な奴はこの世にいない」と、人生に迷うことになりかねないし、いとも簡単に自らが命を絶つ恐れだってある。
(そのような人の後始末も私の仕事の一貫だが…)
バブル以前、幸せとは一般的に存在し、あたかも幸せが「物」であるかのように考え、お金を注ぎ込めば買えるかのように思われていたところもあったんじゃないかとおもう。
でもそれは、あまりにも多くの日本人が、共通しておなじ夢をもったからで、「幸せ」は本来、一般的に物的に存在するものではないと、俺は思う。
幸せとは、一人ひとりが、「実感」として感じ取るものだ。
ひとつの例として、「好きな仲間同士呑みに行ってバカ騒ぎや熱く語り合うのは幸せだ」という、俺には一般的な楽しみがあり、自分もまさに幸せに感じれる。
(暴走してしまう場合もなきにしもあらずだけど(笑))
好きな仲間や家族と食事をすると、一人で食事するのとはケタちがいの幸せを感じるでしょ。
また小さな幸せには「プラスアルファ」っつうもんが存在し、+αを積み重ねる。
例えばラーメンに+チャーハン+餃子。
これは、大飯喰らいの俺にとって、幸せの上乗せ以外、何物にも変えがたいもんがある。
また、真っ昼からビールを飲む背徳感とも、大きく関係しているだろうな(笑)。
それから最近俺は趣味である釣りを再開し、釣った魚を捌き、家族やご近所さん達に振る舞う「料理を作る」ことにも、実はかなり大きな幸せを感じている。
ちょいと前、自分はラジコンが好きで、そのモデルを作るのと似たようなところがあり、時間にいっさい束縛されず、「思う存分手をかけるぞ」と決めたときなど、酒のいきおいも手伝って、食卓の上や寝床にまでもちこんで恍惚となるほどだ。
だから俺は、幸せ探しの名人だと勝手に定め、それを中心に据えてスーパーポジティブに誰よりも幸せに生きていこうと思ってる。
でもそれはもちろん、あくまで「俺」の話であり、人それぞれがそれぞれで、「自分の幸せ」とは何かを見つけて生きていけばいいことである。
たまには、思った事を文章にして書き殴るのも脳のトレーニングになりますなぁ〜っと、思った今日この頃。
まぁ、たんなる私的な日記ですが、「最近ブログの更新が全然ないから寂しいです」なんて嬉しい言葉もチラホラ頂いていますので、ボチボチと私的な事も更新していくっかな。
押忍
千葉記位

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