おおぎやなぎちか/作 江頭大樹/絵 くもん出版
時代は都が長岡京から平安京に移行しようとする時期だ。
その時代、朝廷は東北地方を日本国に組み込もうとしていた。東北地方には蝦夷の民が住んでいた。そして、戦いは起こる。朝廷から送られてきたのは「征夷大将軍」の坂上田村麻呂。
北の地の日高見に住む蝦夷、エミシたちの抵抗は続いた。その長がアテルイだ。
幼少のころ、アテルイは母を亡くす。身代わりのようにして、アテルイをオオカミからかばって襲われてしまった。それを境に、父親カンガから疎まれるようになり、祖父に連れられて、巫女シンラの息子ヤソシマの家で育って行く。並外れた体格と武術と戦い方を会得して行ったのだ。
アテルイは少年期に田村麻呂になる前の鶴丸と出会っている。弓で勝ち、危ないところを助けた。
この出会いこそが、運命となって、両者の戦いになったのだ。武人の父親は、鶴丸が将来、またこの地に来ることを予想して、見分のために多賀城に連れてきていた時のことだ。
出会いの章で、鶴丸が父から、蝦夷の人々のことを聞く場面が出てくる。
蝦夷の人々は、そまつな家で、何人もの家族が住んでいる。歌を詠むことも、書をたしなむこともない、文字を持たないのがエミシで、放っておけない存在なのだと。
そして、金が採れる。頑丈な馬もいる。都を作るための人手も手に入ると。
ここから、アテルイの成人、戦いの前の小競り合いがあったり、蝦夷の長たちの裏の顔となる信念や思惑を知っていくことになるのだが、東北の「舞」の意味までもが興味深いものになってくる。
アテルイと田村麻呂の成人期、成年期は戦いだ。そして、戦いは終わり、蝦夷は朝廷に攻められることはなくなるが、従い組み敷かれることになる。その間の、二人のドラマ、人間関係の表裏は時代を越えて楽しめるものだ。人は何一つ成長していないような気がする。
参考文献の紹介の後に、作者の短い言葉があった。本書がフィクションで事実認識の違いは作者の責任だと書いてある。
それでいいと思う。歴史書の根本には、勝者と上にへつらった精神で書かれることが常である。興味を向けてくれたことで、この本の意義があったということだろう。例えば、青森のねぶた祭りにどうして坂上田村麻呂が描かれるのか、ただの侵略者の征夷大将軍ではなかったことを意味しているように思えるのだ。
創作日誌
今日は、絶対、映画に行くぞう。リハビリもあるぞう。
お仕事を半分終わすぞう。
その半分は明日。ZOOMの会議もある。
明後日、釣り堀に行きたい。
期待していた雪は降らなかった。

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