2011/10/31

トスカニーニのワーグナー Part.1  指揮者


クリックすると元のサイズで表示します
RVC-1544(JVM1-7249) LP 1979


意外な事だが、米国で録音されたワーグナーは、とても多い!其れは、嘗て新天地を求めて亡命等をして移住した欧州音楽家が、多いのも其の理由だが、編成が大きい事からレコード・メーカーには、デモンストレーションの意味合いも在り、コロムビアやビクターが、競って録音していた。名歌手達の名盤も在るが、此処では、トスカニーニが、RCAビクターに残した録音を紹介しよう!日本では、御存知の通り、RCA社のものは、RVC社が、発売していたが、現在では、BMGと時代と共に変遷を遂げている。楽団は、勿論、NBC交響楽団である。このレコードは、1980年代前半に「トスカニーニの真髄」と言うシリーズで発売された廉価盤だが、枚数は、25枚と限られたものだったので残念ながら、このワーグナーのレコードに於いても全容が明かされる事は無く、抜けている曲も在る。なので其れを前提に感想を述べよう!尚、このレコードは、全2集に渡って発売された。最初は、「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死である。嘗てバイロイトでも振った曲だけに気に成る処だ!しかし新即物主義の神様的な存在の巨匠としては、何とも流儀の合わない演奏をしている。つまり必要以上に重く、粘る演奏だ!特に其れは、前奏曲に其の傾向が強いが、主観的であり、何かを意識している様にしか思えない!アクセントも強く扱われているので尚更である。どうも巨匠の新即物主義は、道理が違う!巨匠の規律は、性格上のものであり、音楽性も其の主張で在ると言えるだろう!次は、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕の前奏曲である。此方は、何の不純物の無い、アッサリとした演奏で、巨匠の流儀を通したものなので好感が持てる。しかし巨匠特有の終止部は、些か異議が在り、賛同出来ない!次の2曲も巨匠によって終止部に独特の処理をされている。最初は、楽劇「神々の黄昏」から「夜明けとジークフリートのラインの旅」である。是は、夜明けの部分から正しく刃金のカンタービレで、剛直ながら熱いメロディーラインが印象的だ!全ての旋律が、とても明確に扱われており、音の粒立ちも良い!聴いていると結晶化された響きと言うのは、この事を言うのかと思えるフォルテシモは、物凄い迫力で寸分の隙も感じられない!其れと一気呵成に突進するラインの旅も爽快だ!金管は、輝かしく強剛な弦の調べも美しい!しかし惜しいのが、やはり終止部で、とても安っぽい終わり方をする。巨匠は、若き日に「トリスタンとイゾルデ」を聴いて作曲家を断念したそうだが、確かにセンスが無い!次の「ジークフリートの葬送行進曲」も同様の演奏で、素晴らしい処も在るが、此処でも終止部には、手が加えられており、とてもくどい終わり方をする。尚、この曲は、丁寧にジークフリートの死から演奏されている。

人気ブログランキングへ 
0

2011/10/30

ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲  協奏曲



クリックすると元のサイズで表示します
PILZ CD 78 004 CD 1988


フルトヴェングラーは、嘗て作曲家を目指しており、本人も作曲家としても相当数の作品が在るのだが、指揮者としての功績が、余りにも大きすぎて、作曲家、フルトヴェングラーとしての印象は、今ひとつ薄いが、近年は、ダニエル・バレンボイムが、2番の交響曲をシカゴ交響楽団と録音したり、少しづつ其の作品が聴かれる様に成ってきたが、まだ指揮者としてのメジャーな存在と比較すると地味である。だからメジャー音楽家が、敢えて録音をする事は無い!それは商業ベースに乗せるには難しかったと言う単純な理由だろうが、事実、現在でも御世辞にも人気曲とは言えない!だが、巨匠自身の自作自演盤も在る2番の交響曲は、其れなりの存在感を示していたと思う!是から紹介する「ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲」も実は、英国HMVに1939年に第2楽章のみを録音している。さて、このCDだが、この演奏が収録されたのは、1939年1月19日のベルリンフィルの定期演奏会であった。勿論、会場は、旧フィルハーモニーホールである。是は、ディスク収録だが、時代から想像するより音質は良い!原盤は、東西ドイツの壁が無くなり、1989年に東独VEB放送録音保管所から見つかった18枚のアセテート盤が元である。実は、存在は既に知られており、オルセン2版(1973刊)に記載されていた。だが当時は、東独放送局は、録音の存在を否定している。オルセンでは、現存よりも収録の事実のみに言及していたと思われる。だから後に探してみたら見つかったと言う事に成ったと思う!さて演奏だが、ピアノは、エドヴィン・フィッシャー、指揮は、勿論、フルトヴェングラー自身である。第1楽章は、絶望のどん底状態で非常に悲惨な気分になる。ベルリンフィル自体の音色も現在の其れと異なり重厚な低弦と決め細やかで繊細な高弦は、燻した銀の様な輝きで、正しくドイツの楽団である。巨匠自身もこの頃が全盛期と言われているが、オケへのコントロールも緻密で感心せざるを得ない!エドヴィン・フィッシャーの粒立ちの良いピアノも世相を突き刺す位の鋭敏さがある。当時の世相は、ドイツでは、ヒトラーが、1934年に首相に成った事で、国内では暗雲が漂い始めていた。しかし其れに気がついたのは、一部の知識人や芸術家だった。この曲が出来上がったのは、1936年だったので、作曲中に思うものが在ったと思う!曲の感想に戻るが、最初に聴いた時は、「随分、取っ付き辛い曲だな!」と正直思った!だけど最近は、日本の国内情勢でさえ防衛権の事を真面目に考えないと成らない状態なので、余計にそう思う!そんな事も在って、非常に考えさせられる第1楽章である。第2楽章は、悲壮感よりも神秘的な楽想で、感情が、徐々に膨れ上がり頂点を極めた処で引いて行く感じで、心の内側を見つめる様な内向的な曲であり、演奏である。終楽章は、とても陰鬱な始まりだが、演奏者の心の動きが解る程の感情移入が素晴らしくて、特に情景描写は無いものの何かがイメージとして浮かんでくるものが在る。聴き始めは、確かに掴み処の無い曲だが、聴き進めると不思議な手応えが在る。巨匠の作曲した作品に関しては、特色が乏しく掴み処が無いと言う批評家も居るが、其の掴み処の無い処こそ其の特色と言えるのでは無かろうか?尚、この曲の終止部は、希望の扉が開く様に終わる。思えば、巨匠の第2交響曲も同じパターンだった!

人気ブログランキングへ 
0
タグ: ピアノ ナチス

2011/10/30

ルドルフ・ゼルキンのモーツァルト  協奏曲



クリックすると元のサイズで表示します
DGG Gemany 400 068-2 CD 1982


1981年11月に収録されたもので、当時のルドルフ・ゼルキンは、79歳だった。おそらく年齢が起因していると思うが、嘗ては、骨太な主張の強い音楽作りをしていた巨匠では在るが、此処では無我の境地と言おうか、枯れた境地を感じさせてくれる。だが、まだ意気盛んで、同時期の録音では、米.テラークに小澤征爾と共に残したベートーヴェン等は、現在でも評価されても良いと思う!しかし叙情的な楽章では、無我の境地さえ感じさせるものが在ったと思う!そんな時期にこのモーツァルトが録音された訳だが、今になって思ってみれば、とても良かったと思う!伴奏は、クラウディオ・アバドが指揮するロンドン交響楽団だが、K.466は、フリードリッヒ・グリダとの名盤が在る。だが、其れと比較しても適切なサポートをしている感想位しか無いが、歌劇も振れる指揮者なので、其の辺は万全と言っても良い!だが楽団の個性の差は当然で、旧盤伴奏のウィーンフィルとは比べるのも愚かな事かも知れない!しかしロンドン交響楽団特有の順応性は素晴らしく、明るく素直な金管やシルキーな高弦の響きは、とても魅力が在る。さて演奏だが、K.466から聴いてみよう!この曲は、映画「アマデウス」の影響で割りとポピュラーな存在に成ったと思うが、レコードでは、戦前から名盤の多い人気曲でもある。此処から巨匠と言葉を変えるが巨匠自身も過去に3回も録音が在る。人によっては、往年期の演奏を評価するのも当然だが、此処では敢えて其等の演奏には触れないでおこう!さて此方の演奏だが、第1楽章は、巨匠もそうだが、アバドの真撃さが良い!曲に対し、真正面から向き合っているので、巨匠の表現をより引き立てている。だが、主観と言う点に関しては、差程強いものでは無く、どちらかと言うと淡々と音楽を積み上げる印象が在る。つまり曲に浸透した表現なので慟哭や衝動も無理なく伝わってくる。第2楽章も同様で、素直に曲の美しさが理解出来るので、聴いていても曲に身を委ねる事が出来る。表現も深いが自然体の美を感じる。終楽章は、流石に動的な楽章なので走る処が在るが、気持ちの上で情熱を再現している。つまり核に成る部分で炎が燃えている。尚、終止部は、アバドが爽快に終わらせている。其処で敢えて枯れた境地と言えば、寧ろK.414の演奏に其れを感じる。此処でもアバドの伴奏は万全だ!オケも英国らしい品の良い音を奏でている。巨匠の音楽も弾んでおり、とても楽しい!そして何よりも音が澄み切っている。演奏にもノッており、巨匠の唸り声も聞こえる程である。第2楽章は、先に述べた枯れた境地が、此処に在るが、私は、此処を聴く度に真実の音楽を感じる。孤高な美しさと言うべきか?終楽章も見事だ!たまに聴くと何時も感心する1枚である。

人気ブログランキングへ 
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ