2012/9/10

訳在りの1951年のザルツブルク音楽祭  歌劇・楽劇


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EMI 7243 5 65751 2 7 2CD 1995


これはフルトヴェングラーが1951年のザルツブルク音楽祭で振った「オテロ」の演奏をCD化したものです。巨匠にあっては珍しいヴェルディですが、音楽祭の運営委員を務めたアイネム(作曲家)が打診したプロジェクトです。1941年にウィーン国立歌劇場で楽劇の演出(トリスタンとイゾルデ)を手掛ける程に演劇に精通した巨匠なので、シェイクスピアにも造詣が深いとの抜擢かと思いきや、政治的な圧力や確執が裏で在ったと思える節もあります。それは、EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグとカラヤンの関係とザルツブルク音楽祭の運営委員であるアイネムとカラヤンの確執が絡み合っての結果です。だけど元を辿れば原因は、レッグが作ったとも言えます。思えば、ナチス政権下のドイツでも要因になる要素は在りました。後になって解った事ですが、カラヤンは巨匠を尊敬し、常に敬意を払ってました。巨匠も当初は有能な新鋭指揮者と認めてました。巨匠と言えば、当時、ヒトラーやゲッペルスから重用されたものの、ナチスが弾圧した作曲家、ヒンデミットの擁護をしたり、ユダヤ系音楽家を助けたりして、党内からは嫌われており、ゲーリンク支配下のベルリン国立歌劇場の総監督ハインツ・ティーテェンとも険悪な状態でした。そこにカラヤンを担ぎ出し、仕事をさせたものですから巨匠が不快感を持つのも当然です。それからカラヤンに対しての一念が戦後迄燻り続けると言う事です。それから双方、ナチスのプロパガンダ政策に加担した理由で戦犯容疑に掛けられますが巨匠は、イェディ・メニューヒンやマックス・ラインハルトの証言により戦犯容疑は晴れて再び音楽活動を再開し、カラヤンも同時期に再開します。そこに登場するのがEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグです。カラヤンとの出会いの経緯は判りませんが、1946年にレッグによるプロデュースでレコーディングされてるので恐らく戦後すぐとみて良さそうです。敢えて謹慎処分中で「公的な場」の謹慎を逆手に取り「私的な場」で録音をしたのは有名な話です。カラヤンがザルツブルク音楽祭に復帰したのは1948年からですが、レッグは巨匠とウィーンフィルの録音を1947から初めてました。そこで二人を和解させて仕事の幅を増やそうと画策したそうです。それで、実際会わせたら意外と打ち解けたらしいのですが、何故か翌年からカラヤンに音楽祭では振らせないと宣言しました。とは言うものの決定していた演奏会は在り、出番は少ないながら指揮は出来ました。それを不遇に思ったのか、1950年に全曲録音を巨匠で企画されたとされる「魔笛」をカラヤンに急遽変更させてしまいます。何故それが判明したかと言うと後に巨匠が、ウィルマ・リップとテスト録音された音源が発見されたからです。これでカラヤンとの確執は決定的となり、ウォルター・レッグとの関係も上手く行かなくなります。因みにザルツブルクで巨匠が振っていたメンバーが楽団共々そっくりそのままと言う曰く付きの録音です。ここでザルツブルク音楽祭の運営委員の事に話を戻しますが、マックス・ラインハルトと共に運営委員を務めていたゴットフリート・フォン・アイネムは、なんとパウル・ヒンデミットの弟子でした。ザルツブルク音楽祭自体、発足にユダヤ系音楽家が多数協力してましたので無理もないですね!因みにブルーノ・ワルターはマックス・ラインハルトと共に運営委員を務めてました。ですからアイネムは師匠の問題から見ても反ナチスで巨匠側の人なのでナチス政権下時代からの確執が在ったと考えられます。それから巨匠に弾圧されたカラヤンは、巨匠の死後、権力に執着し、帝王と呼ばれる様に成ったのは、この時代の苦い経験故の事と推察出来ます。これで晩年迄、フルトヴェングラーを意識し続けたのも理解出来ます。その頃のドキュメンタリーを見ると巨匠との確執について、「真実は、俺にしか判らない!」と嘆く様に言っていた事が印象に残ります。さて、「オテロ」の話に戻りますが、モーツアルトを中心にドイツ、オーストリア系の作曲家の作品をプログラムに組む音楽祭にしては極めて異例の演目と言えますが、これは巨匠に組んだプロジェクトか疑問に感じます。何故かと言うと歌劇の場合、長いスタンスで演目を練るのが普通ですから、もしや誰かのプロジェクトが移行したものと考えられます。それは誰か?憶測ですが、カラヤンでは?と推測を出来ない訳でもございませんか?アイネムは浮いたプロジェクトを巨匠に打診したのでは無いかと疑問が湧きます。実際、カラヤンは、イタリアオペラに精通してました。そう考えれば合点が行きます。幸い録音が残っており、現在では、CDで聴く事が出来ます。配役は、オテロは、ヴィナイで、イヤーゴは、シェフラー、デズデモーナは、マルティニスです。そして演奏が意外と良く、極彩色で絢爛なヴェルディ節を期待すると色彩感は控え目ですが、シェイクスピアの演劇を音付きで観てる様な感じがします。割りと壺にハマった演奏と言えます。中でも第2幕の信条の歌は最高で最後のリタルダンドも堂に入ってます。この演奏は最近再評価されてますが、私も賛成です。

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2012/9/10

ブーレーズのツァラトゥストラ  指揮者


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PolyGram Japan POCG-1032 (457 649-2) CD 1998


さてピエール・ブーレーズと言えば、音楽誌を拝見すると若い頃は、まるで全共闘のような演奏をすると揶揄されていたが果たしてそうだろうか?意外とその頃の演奏をあまり聴いていないので何とも言えないが、嘗ての大阪バイロイトでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を演奏した時の録画を拝見した時は、カール・ベームよりも直線的で思い入れの極度に少ない冷淡な印象だった記憶がある。その後にゆっくり聴いたものではバイロイト100周年の「指環」が在るが、印象は然程変わらなかった。だが思い入れが少ないのは1つの利点で楽曲が素直にスコアから浮かび上がるので曲の魅力が何の湾曲無く伝わる。しかしそれも程度問題だと言う人も居るだろうが、過ぎると確かに物足りないだろう?この人のブルックナーが意外と良かった記憶が在るが、それは何ひとつ余計な事をしていないからである。さて此処で紹介するのはR・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」である。楽団はシカゴ交響楽団、収録は、1996年である。楽団の特質にもよるが、非常に筋肉質で、構成に無駄の無い演奏である。所謂、新即物主義的な性格を持つが、かと言って情熱に欠けている訳では無く、一筋通った強い意志さえ感じる。それは序奏のファンファーレから明らかだが、とても明瞭で無駄が無い!スコアの中から全ての情報を拾い出そうとしている様に感じ取れるが、これは、作品に対する原典主義で在り、楽想の隅々迄、精密に表現しようとする姿勢が、R・シュトラウスの楽曲に対して最も適切で在る事が解る。演奏効果に対しても無頓着だが、そのまま演奏しても壮大な曲なので、その必要も無さそうである。独奏ヴァイオリンは、サミュエル・マカドだが、その優しい音色には魅了される。これは、同曲の久々の名盤として評価しても良い出来だ!当り前の事だが、内容を重視してこそ真の姿が浮かび上がる。余白には、R・シュトラウスとは、殆んど同世代の作曲家であるグスタフ・マーラーの第2交響曲から第1楽章の初期稿が、収録されている。こちらも線のキツイ筋の通った演奏である。最終譜と比べ、響きが整理されていない印象を受けるが、その部厚い音色に魅力を感じる人も居るかも知れない!

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2012/9/10

田園の名盤  交響曲


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Nippon Columbia OS-194 1962


私は通俗名曲が嫌いである。それもベートーヴェンの第6交響曲等は特に嫌いだ。だから散々絶賛された所謂名盤の類は最も苦手である。なのに此処で紹介するレコードは正しく定番名曲の名盤だ。さて人によっては、とても懐かしく感じるこのレコード・ジャケットだが私の持っているレコードは、国内盤ではサード盤でステレオ・カッティングされたレコードとしてはセカンド・プレスである。因みにオリジナルのモノーラル盤ともジャケット・デザインは同じだった。指揮はジャケットを見ても解るようにブルーノ・ワルターである。曲は勿論、田園の通称で知られるベートーヴェンの第6交響曲である。巨匠は同曲を3回録音している。最初はウィーン時代の有名な名盤で2回目はフィラデルフィア管弦楽団による些か疑問形のものと3回目は此処で挙げるレコード録音用に編成されたコロムビア交響楽団によるものである。収録は、1958年である。この盤については今更説明の必要も在るまい!しかしながらこの曲に対して不得手の私にとっては評価の仕方も違うと言うものである。正直申し上げるが、名盤として名高い赤地に稲穂の有名なSPレコードも所有していた事が在るが結局良さが解らず手放してしまった。批評家某氏には「音楽を聴く資格無し」と非難されるかも知れないが、人には好みが在る。元々そんな思考なので名曲名盤は、どんな曲で在っても即座に揃える事も無く、今頃聴いた演奏も多々在る。だが別に捻ている訳でも無くて、そんなレコードに限って期待が大き過ぎて聴くと落胆してしまう実体験がものを言っている。さて講釈ばかり並べていても埒が空かないので早速このレコードの感想を述べるが余り聴かない曲なので初めて聴いたような感覚で接する事が出来ると思う!さて第一楽章だが、何の抵抗も無く自然体にサラリと始まる。それが第一印象だが意外と音楽も骨太で構成も軟弱では無い!そして何処にも引っ掛かるものも無いのだが、細かいニュアンスとか音楽のディティールが豊かだ。聴いていて「是なら聴ける。」と即座に思った。聴いていると楽団の魅力としては、やや残念な此方の方が良い感じがする。何よりも楽員が巨匠の表現を一生懸命に表現しようとしているのが好ましい!第二楽章の夢のようなカンタービレも素晴らしく結局褒めてるが、壷に嵌った演奏とは、こう言うものなのだろう!現在に至ってもウィーン盤の演奏の良さは、たぶん聴き直した処で理解出来ないだろうが、この演奏には反対派を封じるものが在るような気がする。第三楽章の村人の踊りも殊更変に協調する事無く音楽が舞っている感じが良い!テンポの動きも在るが楽想事の描き分けも見事である。浮ついた表現も無く老巧な指揮振りが素晴らしい!さて例の嵐はウィーン盤に落胆している人には、取り合えず納得して頂ける演奏では無いかと思うが如何なものだろう?とても純音楽的な表現で品も良いのだが情景も伝わり私としては充分である。終楽章も嵐の後に雲が晴れ夕日に暮れて自然に感謝している在り来たりな情景が浮かぶが、聴き終わってみると何だか感動してしまった。長く聴かれる演奏は、そう言うものなのかな?

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