2017/3/21

主観と客観の狭間のブルックナー  指揮者


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Dutsche Grammophon LPM 18 854 LP 1964


ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと言えば、真っ先に浮かぶのが、ベートーヴェンだが、その演奏様式から場合によっては古く感じるものがある。それはテンポの扱いやバランスと言う事になろうが、以来と違い、極端に神格化をされないので、改めて聴き直すと、また別の発見もあろうと思う。それが巨匠のブルックナーの交響曲だが、既に他界された音楽評論家である宇野功芳氏の評論に影響をされた世代の音楽ファンには、「フルトヴェングラーとブルックナーは水と油」なんて認識の人も結構居るだろう。その論評は、モーツァルトとて同様だったが、何の先入観もなく聴くと現在の整理整頓された演奏と比べて、とても自由奔放なので、逆に面白いなんて楽曲も割とあるものだ。小生の場合は「魔笛」だった。「ドン・ジョヴァンニ」は鈍重だが、そんな彫りの深い演奏は、この時世にはないので、その意味では説得力もある。所謂”大時代”の音楽ではあるが、それは懐かしくもある。それと氏の録音データや、それらの情報については、朝日新聞等の左派系媒体のように捏造や偏向が多々あり、これは巨匠に結構詳しい音楽ファンでも混乱する程だ。それだけ変な情報が蔓延している。それは記事を書く批評家連中が、まるで「講釈師、見て来たように嘘を言い」を実践しているからで、とにかく想像だけで記事を書く。なので未だにその辺の整理が付かず、「これはどうなの?」なんてものがあり、全部解決したとは言い難い。然も「ないものがある」ような録音物の情報がまだ蔓延っている。酷いのになると関係者の証言(従軍慰安婦問題のようだ)なんてものがある。つまり証拠はないのだ。過去には、その手の捏造記事も多々あったのだから、古い音楽ファンには、まだ騙されている人も居るだろう。つまり日本のジャーナリズムの欠点は、そんな処にも影響をしているのだ。さて能書きは此処までとして、本題に触れよう。そのブルックナーの交響曲だが、巨匠の演奏として残っているものは、4、5、6(第1楽章欠落)、7、8、9番だが、これは当時では原典版と言われているバージョンで演奏をされている。面倒なのは、この作曲家は改正癖があり、多数の稿が現存しており、弟子たちの手が加わったものもある。その中ではレーヴェやシャルク版が知れているが、更に指揮者によっては更に改正をしているので、結局は、つい最近まで「何が何だか解らない」てな感じだった。だがレオポルド・ノヴァークが、ロベルト・ハースの後任として、オーストリア国立図書館の音楽関係資料の収集の責任者になってから引き継いだ、ブルックナーの研究により、客観的な各稿の整理がついたのは最大の功績としても良いだろう。ちなみにハース氏は、そのブルックナーの資料整理に関し、戦後は氏が戦前戦中とドイツ国家社会主義労働党の党員だった事から、その責任者の任を解かれた。そんな背景から、このレコードを聴くと「なるほど」と思ってしまう。そこでこのレコードだが、その楽曲は、ブルックナーの交響曲第9番ニ短調である。収録年は、1944年10月7日で、ベルリン・ベートーヴェンザールでの収録とある。原版は、ドイツAGE開発のマグネトフォンである。状態は当時のものとしては最上だが、性能の限界もあり、トゥッティ(全奏)では音も濁るが仕方ない。それとこれは実況録音との記述も多々あるが、ラジオでの放送を目的としたもので聴衆はいない。そこは随分と誤解が多い。それをいい加減な批評家連中は、確かめもしないで実況と書いた。これでは物書きとしても語学力の点で失格だろう。批評は元来、客観的なものである。なので主観的な場合は敢えて「私見だが」と断り位は入れてほしい。


それでは第1楽章だが、Feierlich, misterioso(荘重に、神秘的に)とある。その冒頭の空虚5度の開始は如何にも深刻で、当時のドイツの空気と言おうか緊張感が伝わる。それで”これこそが時代の証言なのかな?”なんて思うが、その雰囲気に引き込まれてしまう。とても暗く重苦しいが、第1主題は瞑想的で8つの動機によって形成されている。それで、第63小節からの第7動機で圧倒的な頂点を作るのだが解放された音楽にはならない。然も物凄く乱暴なアッチェレランドが掛かる。それから引き延ばすようなリタルダンドが入るので、歌舞伎の見栄のようだ。巨匠は戦前、(野村胡堂等に)吉右衛門に例えられたが、計算づくでしているので、正に播磨屋のそれを感じる。(良い例えだ。)まるで音符の裏にあるものでも探るような趣もある演奏だが、巨匠のブルックナーの演奏には、後年もそんな処がある。そこに好き嫌いが出るのだろう。小生もこの作曲家は、そんな深刻なものではないと思っている。第2主題の人間的で慈愛に満ちた響きは巨匠に向いているのか暖かく分厚い響きは、そこに平和を感じるが、浪漫的でもあり、無味乾燥な演奏よりは遥かに良い。何よりも旋律が歌っている。聴いていると曲想の感情に沿ったテンポの動きがあるが、自然なので気が付かない程だ。ホルンも効いており、なんとなく牧歌的な響きがする。弦楽器のセクションも繊細で、この頃のベルリンフィルの特色が現れている。第3主題に入った後の頂点は熱い感情が交差するが、人間の感情に即した表情的な演奏も悪くはないと思わせるものがあり、これはこれで良いのではないか?それにしてもこの頃のベルリンフィルの低弦の魅力は素晴らしい。行進曲風の主題もポリフォニックであり、管楽器のセクションも充実している。これがブルックナーか?と思う人も居るかも知れないが、聴いているうちに疑問も解けた。終始部は、この演奏スタイルでは壮大な印象がある。そんな第1楽章だった。繰り返し迫る主題がなんと雄弁な事か?続く第2楽章だが、Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell(スケルツォ。軽く、快活に - トリオ、急速に)とされている。それに対し、巨匠は、どう挑むのかが最初に聴いた時は興味深かったが、この楽章は流石に賛否両論だろう。巨匠は最初から乗った演奏だが、戦闘行為そのものの荒れ方だ。それでなんか聴いたような旋律が聴こえると思ったら、スケルツォの開始和音はトリスタン和音を移調したものだった。絶えず何かに焦ったような演奏だが、トリオの部分には哀愁を感じる。だが暴力的な主題は、その通りに演奏で答えているので、些かやり過ぎだと拒絶反応を示す人も居るだろう。この辺が、「フルトヴェングラーとブルックナーは合わない」とされる由縁だろうか?第3楽章は、Adagio. Langsam, feierlich(アダージョ。遅く、荘重に)である。冒頭から厚いハーモニーだが、この楽章がとても深く、第9小節から第16小節に掛けての高揚は、ダイレクトに聴き手に迫るものがある。此処でもホルンが効いていて、その楽器が好きな人には最高だろう。(私見で申し訳ないが)ブルックナー自身、「生との訣別」と明言しただけの事はある。センチメンタルな弦の調べも素晴らしいが、展開部での解放感は爽快だ。渾然一体と言う言葉は、この演奏にこそ相応しい。久々に聴いたら、すっかりと感動してしまった。



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