2016/3/14

バックハウスのベートーヴェン Part.3  器楽曲


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King-Londn(Decca) MZ 5003 LP 1969



鍵盤の獅子王ことウィルヘルム・バックハウスが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタである。尚、巨匠のレコードを御持ちの方は、御存知かも知れないが、英.Deccaには、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの全集が、モノーラルとステレオ録音双方に在る。此処では、旧全集であるモノーラル盤を紹介する。どちらが良いかは、個人の好みかも知れないが、私は、旧全集の方を好む。何故かと言えば、後年のものと比べて巨匠が嘗て技巧派として腕を鳴らした面影を知るには、とても最適なレコードだからだ。しかし巨匠はこの頃から上手いのに下手そうに弾く。なのでこれから紹介するものも、そんな傾向の演奏だ。さて最初は第7番だ。第1楽章は、Prestoでソナタ形式だが、とても快適だ。それで此処で聴けるバックハウスは、嘗ては技巧派で評価があったピアニストだったのを彷彿とさせる演奏をしている。然も堂々としており、骨格が骨太なので、これこそベートーヴェンだと感心する。そして自由自在だ。それに駆け抜ける推進力さえ感じる。第2楽章、即ち Largo e mestoで三部形式だが、ベートーヴェン自身が「心の憂鬱を表し、そのあらゆる陰影や相を描く」と言ったとされる主題は悲しいが、巨匠は必要以上の悲劇性は表現せずに淡々と弾いている。ゆっくりと内面を見つめる表情が印象的だ。第3楽章は、Menuetto,Allegroだが、その主部は四声体的に書かれている。そんな構成の楽章なので、とても立体感がある。その主題の描き方だが、聴けばその通りみたいな演奏をしており、余計な解説をせずとも音楽の方から語り掛けてくる。終楽章はRondo,Allegroである。此処でも淡々と弾き込んでいるのは変わりない。だが主題の描き分けも適切なので、聴いているだけでも楽曲が理解出来る。此処でも作品そのものの姿を素直に表している。そして淡々と曲は閉められる。次は第9番である。第1楽章は、Allegroである。演奏はとても明確で、あるがままなのが良い。途中鮮やかで目が覚める。そしてテンポの速い個所は結構早い。そんな処に良い意味で巨匠の若い気持ちが出ている。第2楽章は、Allegrettoである。これも巨匠ならではの作為のない演奏だが、何もやっていないような演奏にも関わらず説得力がある。そこが巨匠の音楽性なのかと改めて思う。第3楽章は、Rondo, Allegro comodoである。目まぐるしく交差する主題が面白く表現されている。音色は地味だが聴くべき点は多い。コーダのトッカータ部分も見事だ。そして次は「悲愴」で知られる8番だ。この表題は珍しく作曲家自身が付けている。第1楽章は、Grave - Allegro di molto e con brioで、ソナタ形式だが「悲愴」と言う表題に捉われない演奏は寧ろ評価すべきだろう。だから深鬱な序奏部分も殊更強調をする事なく進む。それから駆け上がるのだが、その辺の鮮やかさに巨匠のヴィルトゥオーゾ的な一面を聴く事が出来る。それが聴けるのは、このモノラル盤の全集だけなのだ。後年のステレオ録音による再録には、それが消えている。しかしながらそれは奏者には仕方がない事だろう。ゼルキンやホロヴィッツの晩年もそうだった。ルーヴィンシュタインもそうだ。此処で変に細工をしない巨匠の音楽性が遺憾なく発揮されているのは第2楽章だろう。これは、Adagio cantabileで小ロンド形式だが、楽曲の味わいが滲み出ている。深さに於いてはこの楽章は再録の方が勝るとは言え、この演奏も捨てがたい。第3楽章は、Rondo; Allegroである。この演奏も何の作為もないので素直に耳に届く。小生はこれでも充分だ。最後は10番である。第1楽章は、Allegroでソナタ形式、対話をするような第1主題に特色があるがほのぼのとする。此処に温かみを感じるのだが、巨匠の演奏は、数々の艱難辛苦を共にした夫婦が昔話をする趣がある。そんな演奏である。第2楽章は、Andante主題と3つの変奏を伴うが、とても素朴な表現ながら聴き手に語り掛ける。そこが良い。第3楽章は、Scherzo,Allegro assaiでロンド形式なのだが、地味な鮮やかさが素敵だ。表現は変だが本当にそうなのだからどうしようもない。聴き終わった後からじわじわと感動した演奏だった。

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2016/1/26

フルトヴェングラーのフィガロ  歌劇・楽劇


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King K19C-9390-2 3LP


フルトヴェングラーがザルツブルク音楽祭で指揮をしたモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」のレコードである。こちらの音源は、オリジナルのオーストリア放送協会のものではないが、意外と鑑賞をするには不自由しない。そこが不思議なのだが、この頃の海賊盤とされるものは後から正規音源を元にCD化なりをされたものよりは良好なものがある。収録年は、1953年である。実は前年にも同音楽祭で指揮をする筈だったが、体調の不備で実現に至らなかったが、巨匠を知る者なれば今更か?このレコードの解説には何日の演奏かも記載はないが、8月7日だそうだ。以前には、11日ともされていた。配役は当時のベストとされていて賛辞も多いが、演奏本位で聴いてみるとどうしたものか?フィガロは、エーリッヒ・クンツ(Bt)、この人は同音楽祭では、戦時中のクレメンス・クラウスの指揮下でも歌唱が聴ける。スザンナは、イルムガルト・ゼーフリート(S)である。そしてアルマヴィーヴァ伯爵は、パウル・シェフラー(Bt)、伯爵夫人は、エリザベート・シュヴァルツコップ(S)、ケルビーノが、ヒルデ・ギューデン(S)が主要メンバ−だ。それで脇を添えるのは、バルトロが、エンドレ・コレー(Bs)、ドン・バジリオが、ペーター・クライン(T)、マルチェリーナが、ジークリンデ・ワーグナー(A)、アントニオが、アイロス・ベルネルシュトルファー(Bs)、バルバリーナが、リゼロッテ・マイクル(S)、ドン・クルツィオが、エーリッヒ・マイクート(T)である。さて演奏だが、序曲を聴く限りでは雑な感じがする。何となく指揮者の気持ちにウィーン・フィルが乗り切っていない。つまり巨匠のテンポ感に感覚だけで乗ろうとしている印象がある。だがどちらかと言えば遅めだ。それで斬れも甘いのだが、思えばこの楽団は、フィガロではそんな処がある。それでも曲が進むと感情が湧き上がるのが面白い。その点では人間味のある演奏だと思う。幕が開くと伴奏が序曲に比べて立ち直っている。歌手に細かく絡むのも。この楽団が如何に歌劇との経験が深いかが解る。クンツとゼーフリートの歌唱も安定している。歌詞はドイツ語である。現在では言語上演が殆どだが、そうなるのも、この公演からは数年後である。それがクローバル化なのかな?とも思う。「お殿様が踊りとなさるつもりなら」の歌唱も淡々としているが慣れたものだ。バルトロの「復讐の甘さは」と歌うコレーも朗々とした感じで良いものだ。ワーグナーとゼーフリートとの叙唱も安心して聴ける。しかし「僕は自分が自分がわからない」と歌うケルビーノのアリアは、ギューデンだが、思春期の少年の心を歌うには若さが足りない感じがした。それに対し、スザンナとバジリオ、そして伯爵が加わる三重唱は安定の極致だ。それが贅沢な気分になる。それに変な歌い崩しもないのでモーツァルトの音楽を傷つけていない。第一幕は「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」で終わるが、流石に此処ではクンツの自信に溢れた歌唱が聴ける。それこそこれを自家薬籠中と言うのかと思った。巨匠の指揮も感情に任せずに遅いテンポを通すが、クンツの歌い方も落ち着いているので、そんな感じにしたのかとも思う。第二幕は、伯爵夫人が「私の願いをお聞き下さい」と歌うアリアから始まるが、シュヴァルツコップの歌い方にはある種の癖があるので気になる人には気になるだろう。あまりにも立派過ぎる。「教えて下さい。優しいご婦人方」で始まるのはケルビーノのカンツォーネだが、ギューデンの声にもう少し清純な処があればと思う。風格があり過ぎて聴いていると、こちらが伯爵夫人のようだ。上手いのは認める。スザンナが「もっとこっちへ、私の前にひざまづいて」と言うアリアも別に文句はない。ゼーフリートは、この辺あたりからが全盛期なのが解る。それもあるのか、伯爵と夫人と共に絡む三重唱が充実している。此処ではシュヴァルツコップの立派過ぎる声が功を奏している。終幕に向けてテンポの速い場があるが、歌手のコンディションも良いようだ。混然一体となって幕を閉める様が素晴らしい。第三幕は、伯爵とスザンナのやり取りから始まるが、こんなに人間味のあるモーツァルトの演奏が最近はめっきり聴けなくなったと残念でもある。この幕は動的な場が多い事もあり、巨匠の指揮も積極的だ。なので歌手に食らいつくような楽団へのドライブが目立つ。それで演奏の表情も油が乗ったように濃い。だから伯爵夫人のアリアで「あの愛と優しさに溢れた喜びの時はどこに行ってしまったのかしら」と歌うシュヴァルツコップも、この辺になると丁度良い感じに聴こえるのだろう。さて終曲の「もうお祝いの行列がやってくる」での軽い行進曲風の間奏曲がなんと重い事か?モーツァルトにしては彫りの深い幕締めとなる。第四幕は、バルバリーナの「可哀想な小さなピン」で始まるが、そこでのマイクルの細かい表情描写が見事だ。「ああ目を開けろ」のアリアはフィガロだが、流石にクンツは独断場だ。そこで演奏によっては聴き処になるホルンが意外とあっさりしているのは残念だが?「おお、もうこれ以上はためらわないで」とシュヴァルツコップが歌う伯爵夫人のアリアも圧巻だ。此処では変な癖もない。それで皆で心から許し合うフィナーレは聴いていても幸福な気分になる。終始落ち着いた印象の演奏だったが、やはりウィーンフィルの美音に助けられているのか、絶えず伴奏がものを言うので、それだけでも聴き処はある。尚終章になってテンポが飛ばし気味になるのが巨匠らしい。紹介が遅れたが、合唱は、ウィーン国立歌劇場合唱団である。

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2015/11/11

ドレスデン・シュターツカペレのブルックナー  交響曲


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Toshiba EMI EAC-80517-18 2LP


オイゲン・ヨッフムと言えば、戦前戦中にドイツで出来た国策会社であるテレフンケンの看板指揮者だが、巨匠が師と仰ぐフルトヴェングラーの影響を受けて、テンポやアコーギクがそっくりな事からその時代にもフルトヴェルングラーの亜流と言われていた。とは言え本家とは違う。それは仕方ない。聴き比べるまでもなく、ヨッフムの方が演奏の彫りが浅い。それで些か緩い印象もあるのだが、フルトヴェングラー本人では窮屈だったブルックナーの交響曲では、逆にその緩さの為に聴きやすいのだから、何が功を奏するのか解らないものだ。それで巨匠のブルックナーの「交響曲第8番ハ短調」を取り上げるが、これは何度目かの再録音であり、発売時はドレスデン・シュターツカペレとの交響曲全集の一環だったので大いに話題となったものだ。尚収録は、1976年11月3-7日にドレスデン、ルカ教会でEMIによって録音をされたものだ。さてブルックナーと言えば、スコアのバージョンなのだが、このレコードの解説には「ノヴァーク版」と言う事になっている。しかしながら聴いてるとその原則にはあまり合わないようだ。それで取り敢えず、それを読むと「ノヴァーク版第1稿」を参考にして、巨匠自身でアレンジした版で演奏をしているとの事なのだが、此処では演奏評をするので、そこを詳しくしても掴み切れないだろうから割愛する。ドレスデン・シュターツカペレと言うとアンサンブルに煩い指揮者が振ると精妙で冷たい音色となり、剛直過ぎて楽しめない演奏のレコードもあるのだが、このレコードでは暖か味を感じるのだから楽団には指揮者が、どれだけ重要かが解る。だけどその辺が巨匠の緩さなのかなとも感じてしまう。だから第1楽章冒頭もそう重くは感じないのだが、テンポ設定は、巨匠が師と仰ぐフルトヴェングラーと同様である。とは言え影響を受けているのはテンポ位で、おどろおどろしさがないので聴いていても本当に気楽なのだ。それで「こんなに健康的なブルックナーもないな?」と感心をしながら聴く事になる。曲想に応じて細かくテンポも動くが流れに沿っているのでとても自然だ。それでも展開部への足取りは山頂から下界を見下ろすような風情がある。この辺に来ると何故かアンサンブルが前のめりになる箇所があるのだが、それをドレスデン・シュターツカペレらしくないとする人も居るだろう。と言うのも意外と金管のピッチが定まらない処があり、展開部が豪放に聴こえるのも、それが原因のように感じられるからだ。なのに金管楽器群によってハ音が繰り返される「死の予告」とされる箇所は、それ程深刻な表情ではないので、そこを軽く感じるか物足りなく感じるから聴く人次第だろう。第2楽章も傾向としては同じだ。とても豪快なスケルツォだが、此処でも金管が怪しい。だが演奏は快適だ。巨匠のリズム感も淀みない。此処に来て第1楽章で軽く感じられた響きが深くなっている。特に弦楽器のセクションが素晴らしく、低弦部の土台のしっかりとした深い音を聴いていると、これを前の楽章でもやっていたらと少し残念だ。トリオは優しく暖かい。これが一番巨匠らしい。ホルンの音に永遠を感じさせる。「野人の祈り」とされている箇所も牧歌的で良い。スケルツォとの対比も取れており、楽章の特色も理解出来る演奏だ。終始部は爽快だ。さてアダージョと言えば第3楽章だが、その荘重で奥行きのある演奏を聴いていると巨匠がバッハの宗教音楽でやっている演奏の傾向が此処でも聴けるので感動してしまう。巨匠のブルックナーは、どの交響曲でもそうだが、アダージョ楽章が素晴らしく、正に白眉と言える。もちろんこのレコードでも、この楽章が特に名演だ。神聖で天にでも昇る演奏で、これこそブルックナーが楽曲に託したカトリック信者としての信仰の深さを音として聴くだけで納得出来る名演だ。此処では野暮な事を言わずに只聴いているだけで充分である。終楽章は、弦五部が前打音付きの4分音符を連打する中から第1主題が金管のコラールと共にトランペットのファンファーレで奏でられるのだが、ブラスの音も分厚く聴き応えがある。その旋律は作曲家自身によれば「オルミュッツにおける皇帝陛下とツァーリの会見」を描いたものとして、弦楽器はコサックの進軍、金管楽器は軍楽隊、トランペットは皇帝陛下とツァールが会見する時のファンファーレを示すとしているのだが、たぶんそこまで公言しないと自身のイメージが伝えられなかったのだろう。それと弦楽器による優しい第2主題を経て、コラールとファンファーレの交差に辿り着くのだが、そのファンファーレが勇壮だ。そこまでの経緯が、とても淡々としているのも巨匠らしい。それと中間部はフと息を抜く風情があって聴いていてもホッとする。それで終章に向かって音楽も膨れ上がるが「闇に対する光の完全な勝利」と称賛される肝心のフィナーレが、どうもフルトヴェングラーの影響から抜け切れずに突っ走るのが残念だ。聴いていて最後に「あぁ〜あ」てな事になる。最後の三つの音は踏みしめて終わってほしかった。

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